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梅雨入りの件

次の仕事

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 玄蕃げんばを待ちがてら、新三郎は忠馬を前に持ち込んだ牛蒡餅ごぼうもちを食っていた。呼ばれたからやって来たのだが、この家の主人は忙しいらしく、なかなか顔を出さない。
 仕方がないので持ってきた牛蒡餅をひろげたところに忠馬がやってきたのだが、またその餅ですか、と言って口をへの字にしたので彼にはやらないことにした。

「ところで、どうなったのですか。例の剣術小町との縁談は」

 忠馬は興味深々に身を乗り出した。どうなったも何も、どうやら破談になるらしかったが、そんなことを話しても忠馬を喜ばせるだけなので、新三郎は黙って餅を食っている。
 相手をするつもりがなかったので放っておいたが、忠馬は退出する気配もなく、中庭に降りたと思うと無刀のまま構えたり呼吸を整えたり稽古をし始めた。
 その様子を眺めながら新三郎は、忠馬を供廻りにしてまた公儀の用向きだな、とあたりをつけたところに待ち人がようやく現れた。

「おう待たせた。わざわざ悪いな」

 鷹揚な態度で玄蕃がやってきたのは、土産に持ってきた牛蒡餅がすっかりなくなる頃だった。
 瞑目して型を取っていた忠馬が中庭で膝をつくのを目の端でとらえながら、新三郎も玄蕃に向いて座り直す。

「用があるのなら済ませてから呼んでもらいたい」
「拗ねるな。火急だったのだ」

 どうやら何か食っていたらしい、空の包みを見やって玄蕃が尋ねる。

「何を食っていたのだ?」
「餅だ。昨日また宇津から届いた。送り主は言わんでもわかるのではないか」

 言われて玄蕃は大声で嗤った。聞くと玄蕃にも大久保公から手紙が届いたという。

「忠真様に気に入られたようで何よりだ」
「よく言う。かの御仁が関係していると判っていて黙っていたな?」

「言えばお主は行かなぬと言うだろうからな」
「…………」

 手紙の内容は無事に末期養子まつごようしの届が受理されたことへの礼だった。新三郎と忠馬が宇津領へ行って戻ってから十日ほどが経っている。末期養子の受理については、そもそも迅速に処理されるものだが、それでも異例の速さだ。
 あれから、一度すっかり食べ尽くした牛蒡餅だったが、昨日また新しく一樽届いたと、今度は舟を使って十蔵が運んできたのである。まさか毎月届くのではないでしょうね、と息を切らせて船着き場から荷車を曳いてきた吉十を思い出す。

「事情を知らない方が、きっちり対応するだろうと考えてのことだ」
「玄蕃、お前は真相を知っていたのか?」

「さて、お主はどうなのだ」
「俺のは憶測にすぎぬ。それに、口にするには憚りが多すぎる」

 どうやら教えてくれないものと感じて新三郎は不貞腐ふてくされた。濡れ縁に上がっていた忠馬が新三郎に、私には話してくださったじゃないですか、と軽口を言ったので目で叱っておく。

「それで、今度も忠馬なのか?」
「忠馬がよかろう。少し遠出をしてもらうことになるが」

 新三郎の見立ては的中していたようで、判元見届の役目で間違いないようだ。話が早くて助かる、と玄蕃が苦笑いをした。
 この際、遠出もいいだろう。新三郎は心中に溜息をつきつつ、用事があるのはいいことだなと思った。
 ここのところ塔子は顔を出さなくなっていたし、長屋にいて悶々とつまらぬことばかり考えることが多い。両国界隈に足を向ける気分にもなれずにいたのだ。二、三日旅に出るのも悪くない。

「行く先はどこだ。この間はせっかく日光近くまで行ったのにとんぼがえりだったからな。たまには湯にでも浸かりたい」

 骨折りそうに新三郎が言うので、玄蕃は温泉もあるし、旨い物もいろいろとあるぞと言う。どこだ、と重ねて尋ねるとまたぞろにたりと笑った。

「津だ」

 新三郎は「つ?」とオウム返しに聞き返した。津とは伊勢国津藩のことか。津は藤堂和泉守の領地で表高にして三十万石の大藩だ。目付の仕事の範疇からはみ出て余りある。

「まあそうだが、少し特殊な一門領主があるのを知っているか?」
「む、知っている。名張なばり領主のことだな」

 新三郎の即答に玄蕃は重々しく頷く。いつもながら政治向きのことや諸侯列藩のことに詳しい新三郎には驚かされる、と玄蕃は表情には出さずに感心した。
 名張藤堂家は、藩祖藤堂高虎の養子、藤堂高吉を祖とし二万石を領する津藩の一藩士である。通常領知一万石を越えれば諸侯に列せられ、大名として扱われるが、これが認められずに津藩主の家臣として扱われている。
 このしがらみは藩祖高虎の養子である高吉と、実子である高次との軋轢が根源であるが、両者は暗に明に反目しあってすでに百五十年になんなんとしていた。

「たびたび津本藩からの独立が噂されるきなくさい領主家だが、これも目付の取り締まりなのか?」
「本来ならば老中か大目付あたりが監察するが、藤堂家は外様ながら東照宮様の信任篤かった高虎公の後裔だ。扱いがとても難しい」

「それをお前が差配するのか。出世したものだ」
「来年には若年寄あたりの沙汰があるかもしれんぞ」

 玄蕃が珍しく冗談を言ったので、新三郎はつい失笑した。

「兄上が悔しがるな」
「主馬殿が? それは光栄なことだ」

 玄蕃が妙なことを言ったので新三郎は気が抜けた。今度の冗談はあまり出来が良くない。

「お前は兄上を買い被っているぞ」
「お主は主馬殿を見くびりすぎだ」

 まじめな目つきをする玄蕃に、新三郎は根負けをしてやれやれと両手を挙げた。昔から玄蕃による主馬の評価が高くて新三郎は辟易している。

「わかったわかった。お前の兄上贔屓はわかったよ。それで、仕事の内容は?」
「いいだろう。では話す」

 忠馬を近くに呼んで、他に聞くものもなかったが三人はそれぞれの額を寄せ合った。
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