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梅雨入りの件
黴
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「どうしてそなたはそうやって儂を困らせるのだ」
「む……」
書院に現れるなり主馬はそう言って新三郎を詰った。腰はよくなったようで、もう脇息を用いてはいない。
今日は朝だけしとしとと細かい雨が降っていたので、書院の畳はじっとりと湿っていて心持と同じく居心地が悪かった。
「小田原様からの付け届けに宇和島様からの縁談ときた。そなたは当家の立ち回りをいかに心得ている」
「はあ、堀田相模守様の属僚にございましょう」
「言い方を慎まんか」
「…………」
宇和島の伊達家から婿取りの縁談がきたのは、新三郎が宇津領へ他行していたときだった。なぜ伊達家から縁談が来るのか、主馬には不思議でならなかっただろう。
仙台と宇和島の両伊達家は、薩摩の島津と並んで外様の代表格であり、元来幕政に携わる立場にない。だが代々子沢山で知られる伊達家の血縁は、実のところ方々の大名家旗本家に入っていて、隠然たる影響力は莫迦にならないのである。
そのうちの宇和島公が最近、老中の安藤対馬守と急接近しているという噂がある。新三郎がそのきっかけになっていることを主馬はもちろん知らない。だが、安藤老中は、主馬が力添えする堀田相模守と政治的に対立していたから、伊達家からの縁談は荻野家にとってはいい材料ではないのは誰にも明らかだった。
そもそもこういう話はまず仲立ちがあって、両家の意向を踏まえながら進めるものだ。突然前触れなく遣いがやってきて、新三郎を婿にくれと言う。詐欺か何かだと疑うのが普通のところで、主馬もまた真偽を確かめるために伊達家に遣いを返した。すると、現在の藩主の祖母という方から白銀の下屋敷へ招かれたのである。
「それで、白銀へ行かれたのですか」
「むろん、参った。松の方様にお会いしてこたびの意向を伺った」
話の内容は新三郎が承知しているものと変わりなかったが、いくらか過程が省かれていたのは致し方ない。簡単に言うと、松の方の裁量で二人を引き合わせたところ、松の方の孫娘が新三郎のことを気に入ったので婿入りを打診した、という内容だった。仕合の話は松の方も知らぬかもしれない。
「それで、どうされるおつもりですか」
新三郎が覚悟の決まらない様子でとりなすように言うと、主馬は腕を組んだまま片目だけをちらと開けた。
「そなたはどうしたいのだ」
「当然、兄上の御意向に従いまする」
新三郎には胸算用があった。さっきのような事情で、主馬は安藤派に近づくようなことはしないはずだ。新三郎が安藤派の構成員である森玄蕃と親しくすることすら嫌がるのだから、伊達家と親戚になることを認めたりはしないだろう。
兄に断らせれば、松の方との間にもかどは立つまいし、今後の縁談も断りやすくなる。
だが主馬はすぐには答えを出さず、何やら煩悶している様子である。
「当家の立場はさきほどそなたが申した通りだ」
「左様でございますね。致し方のないことでございます」
「だが、憎からず思い合っておるそなたらを引き離すのは忍びない」
「は……?」
「それに可愛い弟の縁談だ。兄としては公用のことなど忘れて、奇縁に恵まれてほしいと思うものだ」
「あの、ですからお断りになるのですよね」
「そなたはそう言って身を引こうとしてくれるが、儂にはその心遣いがつらい」
「いや、心遣いなどしておりませぬ」
「わかっておる。そなたは口にせぬが、藤堂との一件が破談になったときのことを儂はいまだに忘れられんのだ。そなたももう二十六だ。何とかしてやらねばと思うておる」
「そんな、困ります」
「なに困る必要などない。実はすでに応じる方向で話を進めている。あとはそなたの意思を確認するのみでな」
「いやあの、その兄上」
「よしよし、今度白銀まで同道するゆえ、十蔵と日取りの確認をしておくよう。あとあの牛蒡餅は早めに引き取ってくれ」
「あ、兄上」
これは忙しくなるな、と独り言ちながら主馬はさっさと部屋を後にする。追いすがる手もむなしく空をかいただけで、残された新三郎は部屋の隅にいた十蔵と目が合った。
思い出したように十蔵は恭しく畳に手をつく。
「ご婚約、祝着至極に存じます」
「…………」
残る二つの樽のうちひとつを大八車に縛り付け、新三郎は屋敷を出た。のろのろと汐留川までやってくると、船頭に船賃を渡して猪牙舟の客となった。百五十文支払うと釣りが二文だと言うのでいらんと返事して、どっかり座る四斗樽の向かいに腰掛ける。
運び賃は一艘の金額だから樽を載せても変わらないが、あまりに大きいと猪牙に載せるのは無理になる。一つだけにしてよかったと内心新三郎は胸をなでおろす。芝から曳いてきた大八車は、船着き場にいた船頭の子供に駄賃を持たせて屋敷まで運ばせた。
「雨が続くと仕事になりませんや。少しでも止んでくれると助かるというもんです」
漕ぎ出だすと船頭が一人で話し出す。生返事をして新三郎は曇天を見上げた。
江戸はいつの間にか梅雨に入ったようで、一日中しとしとと小雨が降るが、夕方から夜にかけてはざんざんと降ることもあり水路はどこも濁っている。八丁堀を抜けて大川の河口に差し掛かったあたりは、かなり水の量が増えていた。舟から眺める町では少しの晴れ間に用を足す人々でいつもより人通りがあるように思える。誰もかれもがぬかるみを歩くため、足元には泥がはねている。
海から吹く風は少し強めでたっぷり水分を含んでいた。新三郎の長屋でもあちこちに黴が生える時期である。放っておくと肘や踵まで黒ずんでくるから仕方なく拭き掃除をするのだが、昨年と違ってこのところ新三郎の寓居は清潔が保たれている。塔子がこまめに掃除をするからだが、この先はどうすればよいだろうか。
新三郎はこのまま何となく塔子と暮らせるのではないかという予感を抱いていた。何をどうするという訳でもなく、取らねばならない手続きや段取りもいろいろ一旦隅に置いて、そうした将来があるような気がしていたのに、婿入り話が突如湧き出したのである。塔子の好意に甘えてはっきりとしたことを言わないで過ごしてきたバチでもあたったかとおもうほどに、新三郎は思い悩んでいる。
物思いのうちにやがて舟は両国界隈の船着き場に到着した。樽はひとまず船着き場に預けて、新三郎は大家に大八車を借りるため長屋に向かう。木戸内では町の人と同じようにこの晴れ間に用事を済まそうとする内儀たちで賑やかだった。そのうちの一人であるお富が新三郎に気が付いて「おや旦那」と声をかけた。
「旦那のところに別嬪さんが来てるよ」
「む……」
塔子だろうと思い慌てて障子に手をかける。中に入ると囲炉裏の脇に姿勢よく座っていたのは、袴姿の加也だった。
「む……」
書院に現れるなり主馬はそう言って新三郎を詰った。腰はよくなったようで、もう脇息を用いてはいない。
今日は朝だけしとしとと細かい雨が降っていたので、書院の畳はじっとりと湿っていて心持と同じく居心地が悪かった。
「小田原様からの付け届けに宇和島様からの縁談ときた。そなたは当家の立ち回りをいかに心得ている」
「はあ、堀田相模守様の属僚にございましょう」
「言い方を慎まんか」
「…………」
宇和島の伊達家から婿取りの縁談がきたのは、新三郎が宇津領へ他行していたときだった。なぜ伊達家から縁談が来るのか、主馬には不思議でならなかっただろう。
仙台と宇和島の両伊達家は、薩摩の島津と並んで外様の代表格であり、元来幕政に携わる立場にない。だが代々子沢山で知られる伊達家の血縁は、実のところ方々の大名家旗本家に入っていて、隠然たる影響力は莫迦にならないのである。
そのうちの宇和島公が最近、老中の安藤対馬守と急接近しているという噂がある。新三郎がそのきっかけになっていることを主馬はもちろん知らない。だが、安藤老中は、主馬が力添えする堀田相模守と政治的に対立していたから、伊達家からの縁談は荻野家にとってはいい材料ではないのは誰にも明らかだった。
そもそもこういう話はまず仲立ちがあって、両家の意向を踏まえながら進めるものだ。突然前触れなく遣いがやってきて、新三郎を婿にくれと言う。詐欺か何かだと疑うのが普通のところで、主馬もまた真偽を確かめるために伊達家に遣いを返した。すると、現在の藩主の祖母という方から白銀の下屋敷へ招かれたのである。
「それで、白銀へ行かれたのですか」
「むろん、参った。松の方様にお会いしてこたびの意向を伺った」
話の内容は新三郎が承知しているものと変わりなかったが、いくらか過程が省かれていたのは致し方ない。簡単に言うと、松の方の裁量で二人を引き合わせたところ、松の方の孫娘が新三郎のことを気に入ったので婿入りを打診した、という内容だった。仕合の話は松の方も知らぬかもしれない。
「それで、どうされるおつもりですか」
新三郎が覚悟の決まらない様子でとりなすように言うと、主馬は腕を組んだまま片目だけをちらと開けた。
「そなたはどうしたいのだ」
「当然、兄上の御意向に従いまする」
新三郎には胸算用があった。さっきのような事情で、主馬は安藤派に近づくようなことはしないはずだ。新三郎が安藤派の構成員である森玄蕃と親しくすることすら嫌がるのだから、伊達家と親戚になることを認めたりはしないだろう。
兄に断らせれば、松の方との間にもかどは立つまいし、今後の縁談も断りやすくなる。
だが主馬はすぐには答えを出さず、何やら煩悶している様子である。
「当家の立場はさきほどそなたが申した通りだ」
「左様でございますね。致し方のないことでございます」
「だが、憎からず思い合っておるそなたらを引き離すのは忍びない」
「は……?」
「それに可愛い弟の縁談だ。兄としては公用のことなど忘れて、奇縁に恵まれてほしいと思うものだ」
「あの、ですからお断りになるのですよね」
「そなたはそう言って身を引こうとしてくれるが、儂にはその心遣いがつらい」
「いや、心遣いなどしておりませぬ」
「わかっておる。そなたは口にせぬが、藤堂との一件が破談になったときのことを儂はいまだに忘れられんのだ。そなたももう二十六だ。何とかしてやらねばと思うておる」
「そんな、困ります」
「なに困る必要などない。実はすでに応じる方向で話を進めている。あとはそなたの意思を確認するのみでな」
「いやあの、その兄上」
「よしよし、今度白銀まで同道するゆえ、十蔵と日取りの確認をしておくよう。あとあの牛蒡餅は早めに引き取ってくれ」
「あ、兄上」
これは忙しくなるな、と独り言ちながら主馬はさっさと部屋を後にする。追いすがる手もむなしく空をかいただけで、残された新三郎は部屋の隅にいた十蔵と目が合った。
思い出したように十蔵は恭しく畳に手をつく。
「ご婚約、祝着至極に存じます」
「…………」
残る二つの樽のうちひとつを大八車に縛り付け、新三郎は屋敷を出た。のろのろと汐留川までやってくると、船頭に船賃を渡して猪牙舟の客となった。百五十文支払うと釣りが二文だと言うのでいらんと返事して、どっかり座る四斗樽の向かいに腰掛ける。
運び賃は一艘の金額だから樽を載せても変わらないが、あまりに大きいと猪牙に載せるのは無理になる。一つだけにしてよかったと内心新三郎は胸をなでおろす。芝から曳いてきた大八車は、船着き場にいた船頭の子供に駄賃を持たせて屋敷まで運ばせた。
「雨が続くと仕事になりませんや。少しでも止んでくれると助かるというもんです」
漕ぎ出だすと船頭が一人で話し出す。生返事をして新三郎は曇天を見上げた。
江戸はいつの間にか梅雨に入ったようで、一日中しとしとと小雨が降るが、夕方から夜にかけてはざんざんと降ることもあり水路はどこも濁っている。八丁堀を抜けて大川の河口に差し掛かったあたりは、かなり水の量が増えていた。舟から眺める町では少しの晴れ間に用を足す人々でいつもより人通りがあるように思える。誰もかれもがぬかるみを歩くため、足元には泥がはねている。
海から吹く風は少し強めでたっぷり水分を含んでいた。新三郎の長屋でもあちこちに黴が生える時期である。放っておくと肘や踵まで黒ずんでくるから仕方なく拭き掃除をするのだが、昨年と違ってこのところ新三郎の寓居は清潔が保たれている。塔子がこまめに掃除をするからだが、この先はどうすればよいだろうか。
新三郎はこのまま何となく塔子と暮らせるのではないかという予感を抱いていた。何をどうするという訳でもなく、取らねばならない手続きや段取りもいろいろ一旦隅に置いて、そうした将来があるような気がしていたのに、婿入り話が突如湧き出したのである。塔子の好意に甘えてはっきりとしたことを言わないで過ごしてきたバチでもあたったかとおもうほどに、新三郎は思い悩んでいる。
物思いのうちにやがて舟は両国界隈の船着き場に到着した。樽はひとまず船着き場に預けて、新三郎は大家に大八車を借りるため長屋に向かう。木戸内では町の人と同じようにこの晴れ間に用事を済まそうとする内儀たちで賑やかだった。そのうちの一人であるお富が新三郎に気が付いて「おや旦那」と声をかけた。
「旦那のところに別嬪さんが来てるよ」
「む……」
塔子だろうと思い慌てて障子に手をかける。中に入ると囲炉裏の脇に姿勢よく座っていたのは、袴姿の加也だった。
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