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梅雨入りの件
四斗樽
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その日は起きるのが億劫で、新三郎は昼前まで起きたり寝たりを繰り返していた。
悠々自適、ここ十日ばかりは誰からの遣いもなく、何にも縛られることのない起居を繰り返している。
宇津領の仕置きの件では、玄蕃から報酬をたんまりもらった。贅沢をせねばあと三月ほどはこんな生活ができる、と新三郎は薄い布団の中でへらついていた。
ただ寝てばかりでも腹はすく。さて昼飯をどうしようか、と布団の上に座り込んだ折だった。長屋の木戸内が俄かに騒がしくなったので表へ出ると、袴を絡げた中年の武家が大八車に四斗樽を載せて入り込んでいた。へたり込んでいる荷車曳きの男を見て新三郎はにやにやと嗤う。
「なんだ吉十じゃないか。そんなに汗みずくでどうしたんだ」
はだけた胸元をぼりぼりやりながら新三郎がのんびり言うので、いつものように吉田十蔵は沸かした鉄瓶のように赤くなった。
「どうしたではありませんよ。今朝がた下野の宇津というところから、新三郎坊ちゃん宛てにこんな樽で三樽も牛蒡臭い餅が届けられたんです」
「芝からわざわざ届けてくれたのか。ご苦労ご苦労」
さっそく樽を開けて中を改めると、ずっしり詰まった牛蒡餅が芳香を放っている。表の騒ぎに長屋の住民たちがわらわらと顔を出したので、新三郎は大盤振る舞いをすることにした。
「日光名物の牛蒡餅だ。みんな好きなだけ持っていってくれ」
言うやわっと住民が集まって、あっと言う間に樽はすっからかんになった。
ひとつ手にしていた牛蒡餅をかみちぎりながら、もうひとつ手にしていた餅を十蔵にくれてやる。
「吉十、残りも運んでおいてくれ」
「はい? お屋敷からどれだけかかると思ってるんですか!」
「なんだ本当に芝から荷車を引っ張ってきたのか? 舟を使えばよかったじゃないか」
江戸は水都である。町の縦横に水路が通してあり、大抵の場所には舟を使って行き来することができる。芝からであれば、汐留川から入って三十間川、八丁堀と経由していけば、一度海に出てから大川を遡れる。あとは小名木川から六間堀に入ってもいいし、もう少し遡上して堅川から入るのもいい。大八車を転がしてくるよりよっぽど気が利いている。
「……次からはそう致します」
十蔵は井戸で湿らせた手ぬぐいを額に当てながらぼそぼそと答えた。
「そうだ、一樽は玄蕃のところへ運んでもらおうかな」
「それはいけませんよ坊ちゃん。森様は当家の与する堀田様の閥と相対する安藤様のご一派です。あらぬ誤解が殿にかけられます」
勘弁してくださいよと十蔵が言うので、新三郎は鼻息を通して、なんだくだらないと言った。
「お前さん、餅が誰から届けられたか判らんのか」
「ですから、殿は大変にお困りです。いつの間に小田原公と知り合いになったのですか」
もくもくと餅を食う新三郎を、十蔵はじっとりした目つきで見やる。
「ああ、それから宇和島の伊達家より正式に縁談がきております。一度屋敷にお戻りくださいね」
「え……」
ふと加也の顔が思い浮かんだ。次に浮かんだのは松の方である。そういえばあれきりにしていたが、どうやら婿取りの話は本気だったのか。それにしても志賀家からの申し入れではなく伊達家からとなると無下に断ることもできない。兄の主馬に頼んで断ってもらうしかあるまい。
低いところを飛ぶツバメを見上げて、明日は雨かなと風が吹くたびに蒸してくる季節を思う。いち早くじとつく胸内に、新三郎は湿った溜息を吐いた。
悠々自適、ここ十日ばかりは誰からの遣いもなく、何にも縛られることのない起居を繰り返している。
宇津領の仕置きの件では、玄蕃から報酬をたんまりもらった。贅沢をせねばあと三月ほどはこんな生活ができる、と新三郎は薄い布団の中でへらついていた。
ただ寝てばかりでも腹はすく。さて昼飯をどうしようか、と布団の上に座り込んだ折だった。長屋の木戸内が俄かに騒がしくなったので表へ出ると、袴を絡げた中年の武家が大八車に四斗樽を載せて入り込んでいた。へたり込んでいる荷車曳きの男を見て新三郎はにやにやと嗤う。
「なんだ吉十じゃないか。そんなに汗みずくでどうしたんだ」
はだけた胸元をぼりぼりやりながら新三郎がのんびり言うので、いつものように吉田十蔵は沸かした鉄瓶のように赤くなった。
「どうしたではありませんよ。今朝がた下野の宇津というところから、新三郎坊ちゃん宛てにこんな樽で三樽も牛蒡臭い餅が届けられたんです」
「芝からわざわざ届けてくれたのか。ご苦労ご苦労」
さっそく樽を開けて中を改めると、ずっしり詰まった牛蒡餅が芳香を放っている。表の騒ぎに長屋の住民たちがわらわらと顔を出したので、新三郎は大盤振る舞いをすることにした。
「日光名物の牛蒡餅だ。みんな好きなだけ持っていってくれ」
言うやわっと住民が集まって、あっと言う間に樽はすっからかんになった。
ひとつ手にしていた牛蒡餅をかみちぎりながら、もうひとつ手にしていた餅を十蔵にくれてやる。
「吉十、残りも運んでおいてくれ」
「はい? お屋敷からどれだけかかると思ってるんですか!」
「なんだ本当に芝から荷車を引っ張ってきたのか? 舟を使えばよかったじゃないか」
江戸は水都である。町の縦横に水路が通してあり、大抵の場所には舟を使って行き来することができる。芝からであれば、汐留川から入って三十間川、八丁堀と経由していけば、一度海に出てから大川を遡れる。あとは小名木川から六間堀に入ってもいいし、もう少し遡上して堅川から入るのもいい。大八車を転がしてくるよりよっぽど気が利いている。
「……次からはそう致します」
十蔵は井戸で湿らせた手ぬぐいを額に当てながらぼそぼそと答えた。
「そうだ、一樽は玄蕃のところへ運んでもらおうかな」
「それはいけませんよ坊ちゃん。森様は当家の与する堀田様の閥と相対する安藤様のご一派です。あらぬ誤解が殿にかけられます」
勘弁してくださいよと十蔵が言うので、新三郎は鼻息を通して、なんだくだらないと言った。
「お前さん、餅が誰から届けられたか判らんのか」
「ですから、殿は大変にお困りです。いつの間に小田原公と知り合いになったのですか」
もくもくと餅を食う新三郎を、十蔵はじっとりした目つきで見やる。
「ああ、それから宇和島の伊達家より正式に縁談がきております。一度屋敷にお戻りくださいね」
「え……」
ふと加也の顔が思い浮かんだ。次に浮かんだのは松の方である。そういえばあれきりにしていたが、どうやら婿取りの話は本気だったのか。それにしても志賀家からの申し入れではなく伊達家からとなると無下に断ることもできない。兄の主馬に頼んで断ってもらうしかあるまい。
低いところを飛ぶツバメを見上げて、明日は雨かなと風が吹くたびに蒸してくる季節を思う。いち早くじとつく胸内に、新三郎は湿った溜息を吐いた。
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