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宇津領の件
白銀屋敷
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今朝は思いのほか遅く目が覚ましてしまった。
昼前に用事があってそと出をせねばならないのだが、その用事とやらが憂鬱で、無意識に目覚めが遅れてしまったようだ。
小腹が空いて仕方がないので、昨晩近所で分けてもらった煮しめを菜に、遅い朝餉を済ませる。それでも約束の刻限にはまだ余裕があるはずだ。新三郎は井戸端に出ると、思ったよりも高い位置にある日を眺めて目を細めた。いつの間にか季節が進んでいて、少しずつ朝夕も暖かくなってきていた。その分天気の良い日には汗ばむほどだ。
井戸端には珍しく誰もいなかった。手桶に一杯水を汲んで顔を洗い、そのまま座り込んで歯を磨く。仕上げに口をゆすいでいるところへ、木戸の方から人影が近づいてきた。きっちりと髷を結った、身なりの整った若侍である。若侍は井戸端の新三郎に気が付くと丁寧に頭を下げた。
「荻野新三郎殿とお見受け致します。お迎えにあがりました」
水場に人がいないと思ったら、ずいぶん早くから木戸脇に控えていたものと見える。きちんとした身なりの武家がいるところで町人たちがかしましく噂話などする筈もない。
「……いかにも俺が新三郎だ。それで、あんたは?」
わざと蓮っ葉に言ってみたが相手は少しも期待した反応はしなかった。
「私は宇和島藩、伊達家家臣、須山九助と申します。昨夕に先触れを致しましたはずですが……」
「それでもずいぶん早いお出ましだ」
「九ツ半とお知らせしておりましたので。駕籠もご用意しております」
深々と下げる髷のてっぺんを見つめながら、新三郎はまたか、と気分をげんなりとさせた。駕籠は酔うのでできればご遠慮したいところだ。今から揺られてはさっき食べたものが全部出てしまう。
「迎えなど寄越さなくとも伺うと伝えたのだがなあ。徒歩で参るわけにはいかないのか」
「先々代の御方様のお召しですので、駕籠に乗って頂かなくては困ります」
深くため息をついた新三郎は、しばし待たれよと言いおいて、支度をしに長屋へ戻った。
半刻後、新三郎は白銀の宇和島藩下屋敷にいた。すっかり駕籠に酔ってしまっている。
次の間で出された茶菓など、普段であれば不作法であっても残らず平らげる新三郎だったが、今ばかりは胃が受け付けないでいる。存外頼りない自分の胃腸を呪いながら、積まれた大福を眺めていると、ここまで新三郎を連れてきた須山が先触れに現れた。
「御方様がおなりです」
そう断って新三郎が手を付けなかった大福を下げていった。未練がましく目で追う新三郎の視界に、女中を引き連れた壮年の女性の姿が入った。見た目には五十に及ぶとは思えぬ若々しさである。
現在の宇和島公はこの人の孫にあたるから、既に家政から遠ざかって久しいはずだ。先代藩主の室たちは、国元や実家に戻っているか、上屋敷や京屋敷などに部屋を与えられているので、白銀の下屋敷は実質的にこの人、松の方が女主人として取り仕切っていることなのだろう。つまり宇和島伊達家の中で、今でも隠然たる力を持っているということだ。
新三郎はそれを事前に知っていたが、屋敷の様子を見て前知識の正しさを感じた。衣擦れの音が後ろから前へ行き、静かになるまでじっと頭を下げていた。
「楽にしてください。荻野新三郎どの」
声まで艶やかだ、と感想を持ちつつ下げていた頭を上げる。正面に見据えて、この人が志津と伊織の祖母であるのか、と感慨に耽った。なるほど面影があるものだ。
「こたびのこと、荻野どののお口添えだったとか。御屋形様も安藤様と深い誼ができたと大層お喜びでしたよ。ご苦労でしたね」
「は、お言葉忝く存じます」
そう言ってまた頭を下げる新三郎に、松の方はくすくすと笑った。
「本当にそんなにかしこまらないで頂戴。そなたのことを気に入ったから、わざわざ来てもらったのです」
そして、志津のこと、伊織のことかたじけのうございました、と言って反対に頭を下げられてしまった。
「そんな、畏れ多いことです。私は知恵を出しただけのこと。実際に足労したのは森玄蕃でございます。彼をこそ労ってやって頂けますよう」
「それこそ畏れ多いことですよ。私などが直参の御旗本を労うなど」
松の方はそっと口元に袖をやると柔和な表情になってさらに目尻を下げた。そうしていても笑い皺ひとつ、ここからでは確認できない。自分の母親のことを思うと、その違いはいっそ圧倒的とすら言える。新三郎は確かに、と応えてこちらも笑い声を出した。
それからは他愛もない質問を松の方がして、新三郎が答えるというやり取りが続いたが、近時の女中が「そろそろお時間が」と遮ったので、新三郎はほっとして辞する様子を見せた。
「今日は御礼だけお伝えするつもりだったのですが、長く引き留めてしまって」
「いえ、私の方こそお人柄に甘えて長居をしてしまいました」
「もう少しお話を聞きたかったのだけども」
高貴な立場の女性にそう言われて新三郎は自分の気が大きくなっていることに気付かず、しまったと思ったときにはもう口が滑っていた。
「またいつでも馳せ参じます」
「まあ、本当ですか」
やってしまったと思ったときには後の祭りである。思えば言質を取られるようなやりとりではなかったか、と疑わしい気持ちになる。
「ではまたお時間をくださいね。年よりは暇なものですから」
老女とは言え綺麗な女性にそう言われると、新三郎は嫌とは言えぬ。深く頭を下げて承知の旨を顕した。
帰りの駕籠を断ると、見送りに出た須山九助は足代だと言って熨斗に包んだ二分銀を寄越した。松の方から言付かっていたようだ。慣例に倣って一度は辞したが、最後には有難く受け取った。
そうしていよいよ屋敷を辞そうと軽く会釈をしたとき、感心したように須山が言ったことに新三郎は青ざめることになった。
「ところで荻野殿は、講談の筋書きや草双紙に話を書いたりされるのですね。御方様が随分とお気に入りで、一番最近の講談もよい筋書きだったと大層お気に入りでした。はじめは旗本のご一門ともあろう御方が本書きなどとは、と思いましたが御方様があんなに喜ばれるのですから、さぞかしその筋ではご高名なのですね」
新三郎のもう一つの顔が松の方に知られている。先日の話を講談のネタにしたことも割れていた。
そのあと新三郎はどのように両国まで帰り着いたかさっぱり憶えていない。五日後、再び白銀屋敷への呼び出しが、今度は文でやってきた。
文には、ご相談したき儀あり。とだけ書かれていた。
昼前に用事があってそと出をせねばならないのだが、その用事とやらが憂鬱で、無意識に目覚めが遅れてしまったようだ。
小腹が空いて仕方がないので、昨晩近所で分けてもらった煮しめを菜に、遅い朝餉を済ませる。それでも約束の刻限にはまだ余裕があるはずだ。新三郎は井戸端に出ると、思ったよりも高い位置にある日を眺めて目を細めた。いつの間にか季節が進んでいて、少しずつ朝夕も暖かくなってきていた。その分天気の良い日には汗ばむほどだ。
井戸端には珍しく誰もいなかった。手桶に一杯水を汲んで顔を洗い、そのまま座り込んで歯を磨く。仕上げに口をゆすいでいるところへ、木戸の方から人影が近づいてきた。きっちりと髷を結った、身なりの整った若侍である。若侍は井戸端の新三郎に気が付くと丁寧に頭を下げた。
「荻野新三郎殿とお見受け致します。お迎えにあがりました」
水場に人がいないと思ったら、ずいぶん早くから木戸脇に控えていたものと見える。きちんとした身なりの武家がいるところで町人たちがかしましく噂話などする筈もない。
「……いかにも俺が新三郎だ。それで、あんたは?」
わざと蓮っ葉に言ってみたが相手は少しも期待した反応はしなかった。
「私は宇和島藩、伊達家家臣、須山九助と申します。昨夕に先触れを致しましたはずですが……」
「それでもずいぶん早いお出ましだ」
「九ツ半とお知らせしておりましたので。駕籠もご用意しております」
深々と下げる髷のてっぺんを見つめながら、新三郎はまたか、と気分をげんなりとさせた。駕籠は酔うのでできればご遠慮したいところだ。今から揺られてはさっき食べたものが全部出てしまう。
「迎えなど寄越さなくとも伺うと伝えたのだがなあ。徒歩で参るわけにはいかないのか」
「先々代の御方様のお召しですので、駕籠に乗って頂かなくては困ります」
深くため息をついた新三郎は、しばし待たれよと言いおいて、支度をしに長屋へ戻った。
半刻後、新三郎は白銀の宇和島藩下屋敷にいた。すっかり駕籠に酔ってしまっている。
次の間で出された茶菓など、普段であれば不作法であっても残らず平らげる新三郎だったが、今ばかりは胃が受け付けないでいる。存外頼りない自分の胃腸を呪いながら、積まれた大福を眺めていると、ここまで新三郎を連れてきた須山が先触れに現れた。
「御方様がおなりです」
そう断って新三郎が手を付けなかった大福を下げていった。未練がましく目で追う新三郎の視界に、女中を引き連れた壮年の女性の姿が入った。見た目には五十に及ぶとは思えぬ若々しさである。
現在の宇和島公はこの人の孫にあたるから、既に家政から遠ざかって久しいはずだ。先代藩主の室たちは、国元や実家に戻っているか、上屋敷や京屋敷などに部屋を与えられているので、白銀の下屋敷は実質的にこの人、松の方が女主人として取り仕切っていることなのだろう。つまり宇和島伊達家の中で、今でも隠然たる力を持っているということだ。
新三郎はそれを事前に知っていたが、屋敷の様子を見て前知識の正しさを感じた。衣擦れの音が後ろから前へ行き、静かになるまでじっと頭を下げていた。
「楽にしてください。荻野新三郎どの」
声まで艶やかだ、と感想を持ちつつ下げていた頭を上げる。正面に見据えて、この人が志津と伊織の祖母であるのか、と感慨に耽った。なるほど面影があるものだ。
「こたびのこと、荻野どののお口添えだったとか。御屋形様も安藤様と深い誼ができたと大層お喜びでしたよ。ご苦労でしたね」
「は、お言葉忝く存じます」
そう言ってまた頭を下げる新三郎に、松の方はくすくすと笑った。
「本当にそんなにかしこまらないで頂戴。そなたのことを気に入ったから、わざわざ来てもらったのです」
そして、志津のこと、伊織のことかたじけのうございました、と言って反対に頭を下げられてしまった。
「そんな、畏れ多いことです。私は知恵を出しただけのこと。実際に足労したのは森玄蕃でございます。彼をこそ労ってやって頂けますよう」
「それこそ畏れ多いことですよ。私などが直参の御旗本を労うなど」
松の方はそっと口元に袖をやると柔和な表情になってさらに目尻を下げた。そうしていても笑い皺ひとつ、ここからでは確認できない。自分の母親のことを思うと、その違いはいっそ圧倒的とすら言える。新三郎は確かに、と応えてこちらも笑い声を出した。
それからは他愛もない質問を松の方がして、新三郎が答えるというやり取りが続いたが、近時の女中が「そろそろお時間が」と遮ったので、新三郎はほっとして辞する様子を見せた。
「今日は御礼だけお伝えするつもりだったのですが、長く引き留めてしまって」
「いえ、私の方こそお人柄に甘えて長居をしてしまいました」
「もう少しお話を聞きたかったのだけども」
高貴な立場の女性にそう言われて新三郎は自分の気が大きくなっていることに気付かず、しまったと思ったときにはもう口が滑っていた。
「またいつでも馳せ参じます」
「まあ、本当ですか」
やってしまったと思ったときには後の祭りである。思えば言質を取られるようなやりとりではなかったか、と疑わしい気持ちになる。
「ではまたお時間をくださいね。年よりは暇なものですから」
老女とは言え綺麗な女性にそう言われると、新三郎は嫌とは言えぬ。深く頭を下げて承知の旨を顕した。
帰りの駕籠を断ると、見送りに出た須山九助は足代だと言って熨斗に包んだ二分銀を寄越した。松の方から言付かっていたようだ。慣例に倣って一度は辞したが、最後には有難く受け取った。
そうしていよいよ屋敷を辞そうと軽く会釈をしたとき、感心したように須山が言ったことに新三郎は青ざめることになった。
「ところで荻野殿は、講談の筋書きや草双紙に話を書いたりされるのですね。御方様が随分とお気に入りで、一番最近の講談もよい筋書きだったと大層お気に入りでした。はじめは旗本のご一門ともあろう御方が本書きなどとは、と思いましたが御方様があんなに喜ばれるのですから、さぞかしその筋ではご高名なのですね」
新三郎のもう一つの顔が松の方に知られている。先日の話を講談のネタにしたことも割れていた。
そのあと新三郎はどのように両国まで帰り着いたかさっぱり憶えていない。五日後、再び白銀屋敷への呼び出しが、今度は文でやってきた。
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