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工藤家の件
長屋
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塔子の朝は明六ツに目覚めるところから始まる。
父が健在の頃は五ツくらいまでは寝ていたように思う。その頃は住み込みの女中が居て、家の仕事はすべてやってもらっていた。塔子は十八になるまで、暮らしで使うものを自分で手配したり片づけたりする必要がなかく、針仕事や炊事洗濯などおよそ家事というものに振れる必要がなかった。五百石取りの藤堂家は当時豊かで、それが許されていた。
明六ツには時鐘が鳴る。それを合図にどこかの鶏が啼くのだ。塔子はだいたい鐘の鳴る前には目を覚ましていて、鶏の声が聞こえると布団から出るようにしていた。
一日のはじめは長屋の井戸端に水を汲みに出る。冬場なら鎮めておいた囲炉裏の炭をおこして火をつける。
井戸端に出ると、棒手振の内儀であるお千代と大工の内儀のお理久がもう起きていて、水仕事を始めていた。
「おはよう、塔子さん」
二人がそれぞれ声をかけてくれるのに、塔子も挨拶を返して桶一杯分だけ水を汲んだ。どちらも塔子より三、四歳年嵩で、それぞれ一人ずつ赤ん坊がいる。夏に近づいている時期で、あたりは充分に明るかったが、夜の間に冷えた空気は水を使うにはまだまだ寒かった。
「もとはお武家さんなのに大変だね」
長屋の障子に消える塔子を確認して、お千代が密やかに言った。長屋の女たちは、目に付くもの耳に入るものを、いちいち言葉にしないと気の収まらない性質を持つ。同じ話でも、何度でもはじめて話すように話せた。
「旗本のお姫様だったんだろう?」
「お殿様が死んじまってお取り潰しだってさ。こないだ大家さんから聞いたよ」
「いい暮らしを知っている分、あたしらよりも気の毒だね」
「さてね。落ちぶれたと言っても雨風凌げて朝夕飯が食えるんだ。贅沢言っちゃいけないよ」
「それでも気の毒じゃないの。あんなきれいな顔してるのにさ。誰かお嫁にもらってくれる若旦那でもいないもんかね」
「いくらきれいな娘さんでも二十二だろ? 後妻さんか囲い者がいいところさ」
長屋の内儀たちが好き勝手言っている頃、湯を沸かそうと塔子は炭をいこらせていた。母と二人の一日分の飯を炊いて汁ものを煮るのだ。
飯が炊けたら母を起こす。朝餉を二人取って支度をしたら、塔子は近所に針仕事に出る。昼は一度長屋に戻って母と茶を飲んで軽く餅などを食べる。午後は書き物の仕事をしに出るか、新三郎の世話をするため両国まで歩いて出かける。この間はあまりにも新三郎の長屋が散らかっていたので、朝から出かけて行ったのだ。そして七ツ半には買い物をして、長屋に戻り夕餉の支度をする。これが塔子の一日だ。
(それができるのも残り半年ほど……)
塔子は竈の火を世話しながらきゅっと右手で左手を握った。この先自分の身に起こることに諦観がある。それは決して投げやりなものではなかったが、自分に違った命運もあったのかもしれないと思うと、少し残念な気分がするのである。
だが、諦観と同時にやってきたものが、はからずも最近の塔子を積極的にさせていた。そうでなければ、三日と明けずに新三郎を世話しに訪問する、などと言うことは自分にはできなかっただろう。期待や引け目のなくなった今だからこそ押しかけられる。したかったことを、することができる。
今日も塔子は新三郎に何を食べさせようか、それを考えることが愉しくてうれしくて、きっと生きていけるのだと思うのだった。
父が健在の頃は五ツくらいまでは寝ていたように思う。その頃は住み込みの女中が居て、家の仕事はすべてやってもらっていた。塔子は十八になるまで、暮らしで使うものを自分で手配したり片づけたりする必要がなかく、針仕事や炊事洗濯などおよそ家事というものに振れる必要がなかった。五百石取りの藤堂家は当時豊かで、それが許されていた。
明六ツには時鐘が鳴る。それを合図にどこかの鶏が啼くのだ。塔子はだいたい鐘の鳴る前には目を覚ましていて、鶏の声が聞こえると布団から出るようにしていた。
一日のはじめは長屋の井戸端に水を汲みに出る。冬場なら鎮めておいた囲炉裏の炭をおこして火をつける。
井戸端に出ると、棒手振の内儀であるお千代と大工の内儀のお理久がもう起きていて、水仕事を始めていた。
「おはよう、塔子さん」
二人がそれぞれ声をかけてくれるのに、塔子も挨拶を返して桶一杯分だけ水を汲んだ。どちらも塔子より三、四歳年嵩で、それぞれ一人ずつ赤ん坊がいる。夏に近づいている時期で、あたりは充分に明るかったが、夜の間に冷えた空気は水を使うにはまだまだ寒かった。
「もとはお武家さんなのに大変だね」
長屋の障子に消える塔子を確認して、お千代が密やかに言った。長屋の女たちは、目に付くもの耳に入るものを、いちいち言葉にしないと気の収まらない性質を持つ。同じ話でも、何度でもはじめて話すように話せた。
「旗本のお姫様だったんだろう?」
「お殿様が死んじまってお取り潰しだってさ。こないだ大家さんから聞いたよ」
「いい暮らしを知っている分、あたしらよりも気の毒だね」
「さてね。落ちぶれたと言っても雨風凌げて朝夕飯が食えるんだ。贅沢言っちゃいけないよ」
「それでも気の毒じゃないの。あんなきれいな顔してるのにさ。誰かお嫁にもらってくれる若旦那でもいないもんかね」
「いくらきれいな娘さんでも二十二だろ? 後妻さんか囲い者がいいところさ」
長屋の内儀たちが好き勝手言っている頃、湯を沸かそうと塔子は炭をいこらせていた。母と二人の一日分の飯を炊いて汁ものを煮るのだ。
飯が炊けたら母を起こす。朝餉を二人取って支度をしたら、塔子は近所に針仕事に出る。昼は一度長屋に戻って母と茶を飲んで軽く餅などを食べる。午後は書き物の仕事をしに出るか、新三郎の世話をするため両国まで歩いて出かける。この間はあまりにも新三郎の長屋が散らかっていたので、朝から出かけて行ったのだ。そして七ツ半には買い物をして、長屋に戻り夕餉の支度をする。これが塔子の一日だ。
(それができるのも残り半年ほど……)
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だが、諦観と同時にやってきたものが、はからずも最近の塔子を積極的にさせていた。そうでなければ、三日と明けずに新三郎を世話しに訪問する、などと言うことは自分にはできなかっただろう。期待や引け目のなくなった今だからこそ押しかけられる。したかったことを、することができる。
今日も塔子は新三郎に何を食べさせようか、それを考えることが愉しくてうれしくて、きっと生きていけるのだと思うのだった。
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