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工藤家の件
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清藏は尭子を娶ると三年ほどで家督した。家督を継ぐとほどなく男児が生まれたのだが、家譜によるとこれは夭折したことになっている。志津はすでに誕生しているから、存命していれば志津の弟として今頃は世嗣として成長しているはずだから、又之丞が婿に来ることはなく役目中に斬られて死ぬこともなかったのかもしれない。
「名は岩松とある」
新三郎は家譜のその部分を指で叩いた。
「つまりこの岩松が生きているということか?」
「ああ、その通りだ」
玄蕃は新三郎と家譜に交互に目をやった。
「岩松は生まれるなり伊達家に取り上げられたのだ。実は同じ生まれ年で岩松丸様、という御子が麻布の上屋敷にいる」
「それが清藏の交わしたもうひとつの約束だったわけか」
こくりと新三郎は頷いた。
「伊達家との関係を一切断つこと。しかし男児が生まれた場合は伊達家が引き取ると」
「何人生まれてもか?」
「岩松のあと子は生まれておらぬし、尭子が流行り病で死んでしまうしな。伊達家に引き取られた赤ん坊はいないが、そういう約束だったろうから、何にしても工藤家は養子を取らねばならなかったろう」
だが、と玄蕃は太い顎に手をやって首を傾げた。宇和島の伊達公は何代にも渡って子沢山だ。こんなやり方で跡取りを取らなくとも、血筋が絶えるような状況にはない。こんなのはただの嫌がらせのようではないか、と言う。
「その通り。だがまあ国主大名ともなれば俺たち風情には考えも及ばぬ事情があるのかもしれん」
「しかしそれならば、その岩松丸様をいまさら返せと言ったところで通らぬ話ではないのか」
玄蕃が困ったように言うので、新三郎はうんざりした表情で立てていた膝を投げ出した。そのまま畳の上に大の字になってしまう。
「その先のことは知らん! 俺の仕事はここまでだろう。仲人でもさせようってのか?」
「……まあ、そうだな。安藤様にご出馬頂ければそれほど難しいことでもないか。足労をかけた。礼はいずれ沙汰があるだろう」
玄蕃は立ち上がると、客間に布団を敷かせてあるから泊まっていけと言い残して板敷へと出る。
「そうだ、顛末は教えてくれよ。なるべく子細にな」
「それはいいが、芝居本などに売るなよ」
「なに、うまくやるさ」
新三郎の言葉を背に受け流しながら、玄蕃は手をひらひらとさせて自室へ引き取った。後には又之丞の遺骸と新三郎が残された部屋に、油の切れそうな行火が静かに揺らめている。
次の日昼近くに長屋へ戻ると、足の踏み場を探すのにも一苦労、という新三郎の部屋が塵ひとつなく掃き清められていた。畳はつややかに吹き上げられていて、囲炉裏の灰は搔き取られており新しい炭が積んである。
あまりの変わりように、障子を開いたきり呆然と部屋の中を眺めていると、背後から近づく人の気配がって振り向けば、なんと塔子がそこにいた。いつもの姉さんかぶりの下はにこにこと笑っている。
「おかえりなさいませ」
「あ、ああ、ただいま戻りました……」
新三郎の返事にもう一度会釈を返すと、塔子は新三郎の腕の下をくぐって長屋の中に入ってしまった。
「昨夜も森様の御屋敷に?」
「ええ、そうですが……」
たしか昨晩は宵四ツを聞いてから家を出から、朝一番にやってきて片付けをしたのだろう。あれほどあった書付や書物の類をこの短い時間でどこへ仕舞ったものか。もしや処分をしてしまったのでは、と新三郎は青くなった。あれらは新三郎が聞いたり取り寄せたり、古書屋で発掘したりしてかき集めた江戸中の噂話裏話だ。いまの新三郎を作り上げている血肉と言っていい。
「と、塔子どの、そのあの、このたりにあった書付や本の類はいったい……」
ああ、と言って振り向いた塔子は、作り付けたままただの物置になっていた書棚を指さした。
「本はあちらに。書付はこちらの葛籠に、判る限りですが書かれた内容から年代別に分けておきました。目録はこちらです」
そう言って帳面に仕立てたチリ紙を差し出した。武家の女らしい達筆で書かれたそれは、墨の香りがいまだほのかに漂う。この短時間に凄まじい処理能力だ。
「朝はお済ませですか。まだでしたら今からかかるので、簡単なものしかご用意できませんが」
「そ、それはかたじけないですが、塔子どの、いったいどういう仕儀ですか、これは……」
かつて婚約者同士であったのは事実だし、新三郎は今でも塔子のことを憎からず想っている。これまでもたびたび訪れては差し入れをくれたりしていたが、まさかこの間行き会ったときに交わした約束をこんなに早く実行するとは思わなかった。
いくら婚期を逃したと言っても年若い未婚の女子が、半分牢人者のような男の家へ出入りするのはまずくはないだろうか。塔子がどういうつもりでここへ通うのか、新三郎の頭の中はぐるぐると回り始る。
問われた塔子は姉さんかぶりを取ると、手ぬぐいを両手で握り締めて言った。
「世の中には、押しかけ女房なるお役目があると聞きました。新三郎様は森様のお手伝いなどでお忙しいご様子ですから、身の回りをお助けするくらいならできると、わたしも押しかけ女房なるものをやってみようと思い……」
新三郎はついにはくらくらしてくるのを感じて、思わず柱に寄り掛かった。
塔子の言う女房とは、城や屋敷で貴顕の人々に仕える女性の使用人のことを指しているに違いない。最近の江戸町民が使う、連れ合いのことを指す女房ではないようだが、いったい誰がそんな言葉を教えたのやら。
新三郎はゆっくりと丁重に、押しかけ女房とは何であるかを塔子に説明した。話を聞き終えた塔子は、両頬を押さえたまま駆けて出て行ってしまった。
だがしばらくすると戻ってきて「夕餉は何か食べたいものがありますか」と言ってバツが悪そうに笑う。新三郎は市場に鰹が出回り始めていたのを思い出し、「鰹などがあれば」と言って、塔子と一緒に笑った。
「名は岩松とある」
新三郎は家譜のその部分を指で叩いた。
「つまりこの岩松が生きているということか?」
「ああ、その通りだ」
玄蕃は新三郎と家譜に交互に目をやった。
「岩松は生まれるなり伊達家に取り上げられたのだ。実は同じ生まれ年で岩松丸様、という御子が麻布の上屋敷にいる」
「それが清藏の交わしたもうひとつの約束だったわけか」
こくりと新三郎は頷いた。
「伊達家との関係を一切断つこと。しかし男児が生まれた場合は伊達家が引き取ると」
「何人生まれてもか?」
「岩松のあと子は生まれておらぬし、尭子が流行り病で死んでしまうしな。伊達家に引き取られた赤ん坊はいないが、そういう約束だったろうから、何にしても工藤家は養子を取らねばならなかったろう」
だが、と玄蕃は太い顎に手をやって首を傾げた。宇和島の伊達公は何代にも渡って子沢山だ。こんなやり方で跡取りを取らなくとも、血筋が絶えるような状況にはない。こんなのはただの嫌がらせのようではないか、と言う。
「その通り。だがまあ国主大名ともなれば俺たち風情には考えも及ばぬ事情があるのかもしれん」
「しかしそれならば、その岩松丸様をいまさら返せと言ったところで通らぬ話ではないのか」
玄蕃が困ったように言うので、新三郎はうんざりした表情で立てていた膝を投げ出した。そのまま畳の上に大の字になってしまう。
「その先のことは知らん! 俺の仕事はここまでだろう。仲人でもさせようってのか?」
「……まあ、そうだな。安藤様にご出馬頂ければそれほど難しいことでもないか。足労をかけた。礼はいずれ沙汰があるだろう」
玄蕃は立ち上がると、客間に布団を敷かせてあるから泊まっていけと言い残して板敷へと出る。
「そうだ、顛末は教えてくれよ。なるべく子細にな」
「それはいいが、芝居本などに売るなよ」
「なに、うまくやるさ」
新三郎の言葉を背に受け流しながら、玄蕃は手をひらひらとさせて自室へ引き取った。後には又之丞の遺骸と新三郎が残された部屋に、油の切れそうな行火が静かに揺らめている。
次の日昼近くに長屋へ戻ると、足の踏み場を探すのにも一苦労、という新三郎の部屋が塵ひとつなく掃き清められていた。畳はつややかに吹き上げられていて、囲炉裏の灰は搔き取られており新しい炭が積んである。
あまりの変わりように、障子を開いたきり呆然と部屋の中を眺めていると、背後から近づく人の気配がって振り向けば、なんと塔子がそこにいた。いつもの姉さんかぶりの下はにこにこと笑っている。
「おかえりなさいませ」
「あ、ああ、ただいま戻りました……」
新三郎の返事にもう一度会釈を返すと、塔子は新三郎の腕の下をくぐって長屋の中に入ってしまった。
「昨夜も森様の御屋敷に?」
「ええ、そうですが……」
たしか昨晩は宵四ツを聞いてから家を出から、朝一番にやってきて片付けをしたのだろう。あれほどあった書付や書物の類をこの短い時間でどこへ仕舞ったものか。もしや処分をしてしまったのでは、と新三郎は青くなった。あれらは新三郎が聞いたり取り寄せたり、古書屋で発掘したりしてかき集めた江戸中の噂話裏話だ。いまの新三郎を作り上げている血肉と言っていい。
「と、塔子どの、そのあの、このたりにあった書付や本の類はいったい……」
ああ、と言って振り向いた塔子は、作り付けたままただの物置になっていた書棚を指さした。
「本はあちらに。書付はこちらの葛籠に、判る限りですが書かれた内容から年代別に分けておきました。目録はこちらです」
そう言って帳面に仕立てたチリ紙を差し出した。武家の女らしい達筆で書かれたそれは、墨の香りがいまだほのかに漂う。この短時間に凄まじい処理能力だ。
「朝はお済ませですか。まだでしたら今からかかるので、簡単なものしかご用意できませんが」
「そ、それはかたじけないですが、塔子どの、いったいどういう仕儀ですか、これは……」
かつて婚約者同士であったのは事実だし、新三郎は今でも塔子のことを憎からず想っている。これまでもたびたび訪れては差し入れをくれたりしていたが、まさかこの間行き会ったときに交わした約束をこんなに早く実行するとは思わなかった。
いくら婚期を逃したと言っても年若い未婚の女子が、半分牢人者のような男の家へ出入りするのはまずくはないだろうか。塔子がどういうつもりでここへ通うのか、新三郎の頭の中はぐるぐると回り始る。
問われた塔子は姉さんかぶりを取ると、手ぬぐいを両手で握り締めて言った。
「世の中には、押しかけ女房なるお役目があると聞きました。新三郎様は森様のお手伝いなどでお忙しいご様子ですから、身の回りをお助けするくらいならできると、わたしも押しかけ女房なるものをやってみようと思い……」
新三郎はついにはくらくらしてくるのを感じて、思わず柱に寄り掛かった。
塔子の言う女房とは、城や屋敷で貴顕の人々に仕える女性の使用人のことを指しているに違いない。最近の江戸町民が使う、連れ合いのことを指す女房ではないようだが、いったい誰がそんな言葉を教えたのやら。
新三郎はゆっくりと丁重に、押しかけ女房とは何であるかを塔子に説明した。話を聞き終えた塔子は、両頬を押さえたまま駆けて出て行ってしまった。
だがしばらくすると戻ってきて「夕餉は何か食べたいものがありますか」と言ってバツが悪そうに笑う。新三郎は市場に鰹が出回り始めていたのを思い出し、「鰹などがあれば」と言って、塔子と一緒に笑った。
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