3 / 40
工藤家の件
余談
しおりを挟む
生意気な弟を送り出してから、荻野主馬は寝間でうつ伏せになっていた。妻女の麻乃が痛む腰をさすってくれているのだが、真冬でもぽかぽかと暖かい麻乃の掌は、傷んだ腰に大変心地が良い。庭で啼く百舌鳥の声を聞いているうちに、ぽろりと言葉が主馬の口元からこぼれた。
「新三郎は出たのか」
「ええ、ついさきほど」
「飯は、食って行ったか」
「それはもう、たらふく」
麻乃の力加減が良い塩梅で、主馬はとろとろと眠気を感じ始めている。眠たさのせいか、日ごろは固く閉ざしている思考が開いているようで、主馬は用心しかけたが誰が聞くわけでもないと思い直し、出るに任せて話した。
「儂は新三郎に嫌われておる」
「そのようなこと、ないとおもいますけど」
「いや。上役や同僚にへつらう追従侍だなどと思っておるのだろう」
「御役目に必要なことでございます」
時折、「いたた」とうめきつつも、麻乃の手の動きに合わせて心地よさげに溜息をもらす。
「森玄蕃の仕事を手伝いおるのは儂への嫌がらせだろう。先だっては堀田様にも嫌味を言われてしもうた」
「言わせておけばよいのです。それはあなた様が注目されている証左ですし、新三郎さんの働きが目覚ましいからでございましょう。優秀な弟を持ったと、荻野家として誇らしいことじゃないですか」
「ふふふ、それは良いな。物は考えようだの」
「そうですよ。でも……」
そこまで言って麻乃は言葉を飲み込んだ。ふと顎を持ち上げて主馬は妻女の顔を覗き込む。少し齢をとったようにも思うが、この角度から見る麻乃も佳い、などと人知れず惚気けた気分になる。主馬と目があって、麻乃はわずかに微笑んだ。
「身を固める気があるのかないのか、もう二十六でございましょう。わたくしはそれのみが心配で」
「さてな」
そう返事をして主馬は目を伏せた。
「もしかしたら藤堂のことで根に持っているのかもしれん」
「お取り潰しで破談になったという、新三郎さんの婿入り先だった?」
「そう。当主の宗右衛門殿が急死してな。婚約はしておったが婿入り前だったせいで早々にお取り潰しになったのだ。本家筋にあたる伊勢の藤堂様からもお口添えがなく、版元の届にも不備があったゆえ」
当時、すでに家を継いでいた主馬は、この取り潰し話を撤回させるのにかなり運動をした。亡父の残した財を遣って幕閣にも働きかけたが、当の藤堂家本家が勝手を許したため頓挫してしまった経緯がある。
結局取り潰しの決定を覆すことができず、心を決めていた新三郎は宙ぶらりんの状態になってしまった。そのことがあってから、何件も訪れる縁談を、新三郎は一度も話すら聞こうとしなくなったのである。
「それで、藤堂家の皆様はどうなされたのです」
「領地のあった伊勢に立ち帰ったと聞いた。妻女の実家はあちらだからな。藤堂様は一門が際立って多いから身寄りくらいはあろう。子細は知らぬが、路頭に迷うようなこともあるまい。それに元々裕福な家だった。宗右衛門どのの葬儀の時にいくらか費えの足しにと用意したが、手切れ金とでも思い違いをされてしまったか固辞されての」
「相手方のお嬢さん、なんといいましたか。たしか塔子さん……」
主馬はうつぶせた姿勢のままよく憶えているものだと思った。
その塔子が近頃になって江戸に戻ってきていることがわかっている。示し合わせていたのか、新三郎がときどき逢っていることも主馬は知っている。
この頃目立って新三郎が反抗的なこともそうだし、版元見届けなどという仕事に関わっていることも、そうしたことに起因しているのではないかと、邪推しがちな主馬なのである。
「新三郎は儂を恨んでおるのだろうなあ」
主馬のぼやきは半ば寝言になっていた。妻女が気付いた時には、荻野家の当主は静かな寝息を立てていた。
さっきまで時折啼いていた百舌鳥も、今はどこかへ飛び去ったか気配すらしない。麻乃は主馬が痛がる腰の当たりをそっと撫で続けている。
「新三郎は出たのか」
「ええ、ついさきほど」
「飯は、食って行ったか」
「それはもう、たらふく」
麻乃の力加減が良い塩梅で、主馬はとろとろと眠気を感じ始めている。眠たさのせいか、日ごろは固く閉ざしている思考が開いているようで、主馬は用心しかけたが誰が聞くわけでもないと思い直し、出るに任せて話した。
「儂は新三郎に嫌われておる」
「そのようなこと、ないとおもいますけど」
「いや。上役や同僚にへつらう追従侍だなどと思っておるのだろう」
「御役目に必要なことでございます」
時折、「いたた」とうめきつつも、麻乃の手の動きに合わせて心地よさげに溜息をもらす。
「森玄蕃の仕事を手伝いおるのは儂への嫌がらせだろう。先だっては堀田様にも嫌味を言われてしもうた」
「言わせておけばよいのです。それはあなた様が注目されている証左ですし、新三郎さんの働きが目覚ましいからでございましょう。優秀な弟を持ったと、荻野家として誇らしいことじゃないですか」
「ふふふ、それは良いな。物は考えようだの」
「そうですよ。でも……」
そこまで言って麻乃は言葉を飲み込んだ。ふと顎を持ち上げて主馬は妻女の顔を覗き込む。少し齢をとったようにも思うが、この角度から見る麻乃も佳い、などと人知れず惚気けた気分になる。主馬と目があって、麻乃はわずかに微笑んだ。
「身を固める気があるのかないのか、もう二十六でございましょう。わたくしはそれのみが心配で」
「さてな」
そう返事をして主馬は目を伏せた。
「もしかしたら藤堂のことで根に持っているのかもしれん」
「お取り潰しで破談になったという、新三郎さんの婿入り先だった?」
「そう。当主の宗右衛門殿が急死してな。婚約はしておったが婿入り前だったせいで早々にお取り潰しになったのだ。本家筋にあたる伊勢の藤堂様からもお口添えがなく、版元の届にも不備があったゆえ」
当時、すでに家を継いでいた主馬は、この取り潰し話を撤回させるのにかなり運動をした。亡父の残した財を遣って幕閣にも働きかけたが、当の藤堂家本家が勝手を許したため頓挫してしまった経緯がある。
結局取り潰しの決定を覆すことができず、心を決めていた新三郎は宙ぶらりんの状態になってしまった。そのことがあってから、何件も訪れる縁談を、新三郎は一度も話すら聞こうとしなくなったのである。
「それで、藤堂家の皆様はどうなされたのです」
「領地のあった伊勢に立ち帰ったと聞いた。妻女の実家はあちらだからな。藤堂様は一門が際立って多いから身寄りくらいはあろう。子細は知らぬが、路頭に迷うようなこともあるまい。それに元々裕福な家だった。宗右衛門どのの葬儀の時にいくらか費えの足しにと用意したが、手切れ金とでも思い違いをされてしまったか固辞されての」
「相手方のお嬢さん、なんといいましたか。たしか塔子さん……」
主馬はうつぶせた姿勢のままよく憶えているものだと思った。
その塔子が近頃になって江戸に戻ってきていることがわかっている。示し合わせていたのか、新三郎がときどき逢っていることも主馬は知っている。
この頃目立って新三郎が反抗的なこともそうだし、版元見届けなどという仕事に関わっていることも、そうしたことに起因しているのではないかと、邪推しがちな主馬なのである。
「新三郎は儂を恨んでおるのだろうなあ」
主馬のぼやきは半ば寝言になっていた。妻女が気付いた時には、荻野家の当主は静かな寝息を立てていた。
さっきまで時折啼いていた百舌鳥も、今はどこかへ飛び去ったか気配すらしない。麻乃は主馬が痛がる腰の当たりをそっと撫で続けている。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
【お江戸暗夜忌憚】 人斬りの夜 ー邂逅編ー
川上とどむ
歴史・時代
藤也には、決して暴かれてはならない秘密がある。
しかし、その事を彼自身知らない。
過去に起きた悲しい事件。
それを引き金に、恐ろしい存在が彼に取り付いていた。
【登場人物】
藤也・・・武家の次男。美しい容姿を持つ、心優しい少年。
美羽・・・天涯孤独な幼女。藤也に拾われる。
政司・・・お目付け役。藤也を守ると心に誓っている。
藤野・・・藤也の乳母。故人。
殿様・・・藤也の父。有力な武家大名。
刀夜・・・人を破壊する事に生き甲斐を感じる……
※※※※※※※※
舞台は江戸ですが、登場人物・場所・生活、全て架空の設定です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
三賢人の日本史
高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。
その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。
なぜそうなったのだろうか。
※小説家になろうで掲載した作品です。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
夢のまた夢~豊臣秀吉回顧録~
恩地玖
歴史・時代
位人臣を極めた豊臣秀吉も病には勝てず、只々豊臣家の行く末を案じるばかりだった。
一体、これまで成してきたことは何だったのか。
医師、施薬院との対話を通じて、己の人生を振り返る豊臣秀吉がそこにいた。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
織姫道場騒動記
鍛冶谷みの
歴史・時代
城下の外れに、織姫道場と呼ばれる町道場があった。
道場主の娘、織絵が師範代を務めていたことから、そう呼ばれていたのだが、その織姫、鬼姫とあだ名されるほどに強かった。道場破りに負けなしだったのだが、ある日、旅の浪人、結城才介に敗れ、師範代の座を降りてしまう。
そして、あろうことか、結城と夫婦になり、道場を譲ってしまったのだ。
織絵の妹、里絵は納得できず、結城を嫌っていた。
気晴らしにと出かけた花見で、家中の若侍たちと遭遇し、喧嘩になる。
多勢に無勢。そこへ現れたのは、結城だった。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/history.png?id=c54a38c2a36c3510c993)
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
夜に咲く花
増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。
幕末を駆け抜けた新撰組。
その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。
よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる