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工藤家の件

新三郎

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 天下泰平も百年続けば徒となる。更に五十年ともなれば、もうこれは何とも言えない。
 綱紀は緩んで風紀も乱れる。贅沢奢侈ぜいたくしゃしは人の価値を測る指金さしがねになり、人心は節操を失ってしまって久しいように思われる。
 自堕落にやっていても、何となくなってしまう今の世の中だから、手前ひとりが生真面目に生きても莫迦を見る。そんなことをしたって身になることなんて何一つない。
 ご先祖様の一所懸命が、今の自分を生かしてくれているのだと、訳知り顔に説教されてもいったい誰が頼んだことやら。生かされている自覚など持てるはずもないのだ。
 荻野新三郎もそんな、十把一絡じっぱひとからげの、今どきの若い武家の一人である。

 新三郎は着物のたもとに手を突っ込んで、反対の手で自肘を撫でながら、ただただのんびりと歩いていた。
 日の高いうちからぶらぶらしている若侍に、特別注意を向ける者などこの辺りには誰もいない。一体どうやって生計を立てているのか、よくよく判らないお武家様などはこの界隈に掃いて捨てるほどいる。
 一応大小二本を差しているから、道行く町人たちは軽く頭を下げて行き交うが、別段この青年にこうべをたれれいるのではない。武家という身分に、我知らず四肢が反応しているに過ぎないのだから、頭を下げられる方も抱く感慨のひとかけらもない。風が吹けば、柳も揺れるというものだ。

 それにしても良い陽気だった。空は青いが遠くが霞がかっていて、ぼんやりしているだけで眠気が襲ってくる。
 大きく欠伸を漏らした新三郎は、何もすることのない昼下がりに大変満足していた。
 ほんの昨日までは、大身を引き継いだ友人の手伝いで、散々にこき使われたのだから、ひと月ほどは休んでも罰は当たるまいと思っている。
 幸いにもその仕事はことなきを得て、懐に多少の金子きんすがある。
 どこかで蕎麦でも手繰たぐって、昼のうちから妓楼に引き籠もるのも悪くない、と考えながらねぐらを出てきたのだ。
 馴染みのおんななどと大層に言っても、小心で手元不如意な新三郎には、話し相手をさせるくらいの甲斐性しかなかったが……。
 目当ての家に足を向けつつ、道すがら蕎麦と団子の食える店がなかったかと思案していると、向こうから歩いてきた姉さん被りの娘に声をかけられて、新三郎は不意に背筋がしゃんとなった。

「これは新三郎様。このところずっとお留守だったでしょう。昨日までいずれへお出ましに?」
「これは……塔子さん」

 新三郎は、蓮っ葉な口調で言って、眩しそうに娘を見やった。塔子と呼ばれた娘の方は新三郎の心中を知ってか知らずかにこにこと微笑みかけて、青年武士の視線を逸らせてしまう。

「何度か長屋に伺ったのですよ。母と作ったお惣菜を持って」
「そうですか。そいつは悪いことをしました。いつものように玄蕃げんばの仕事を手伝っていた次第しだいで……」

 そう答えると塔子は口に手を当ててころころと笑った。

「森様の……それは御大義でございましたね。長くお出掛けになるときは仰ってくださいまし。お留守中でもお掃除くらいしますので」
「ええ、ええ。それはかたじけない」

 新三郎が額を指でひっかきながらどぎまぎ答えると、「では」と会釈を残して塔子は立ち去っていった。
 後ろ姿を眺めながら、鳴きかけられたから手を差し伸べたのに、つれなくそっぽを向いて行ってしまった猫を見送るような気分になった。
 向こうの角に塔子の後ろ姿が見えなくなるまで見送って、新三郎は再び袂に両手を突っ込んだ。さっきと同じように自分の肘を撫でつつ歩き始めたが、どこに向かうつもりだったのか半ば忘れてしまっている。
 それでもようやく蕎麦屋に上がり込んで蕎麦と団子を頼んだが、すっかり妓楼に行く気分など失せてしまっていた。
 塔子と口をきいた同じ日に、妓楼の妓と話をするなど新三郎にはできない話だ。きゅっと胸をつままれたような気分で、これからどうしたものかとぼんやりしながら箸を運ぶ。
 気付くといつの間にかすっかり蕎麦は食ってしまっていて、蕎麦のなくなった蒸篭の底をこんこんと箸でつついていた。そうしていると、不意に通りから店の中を覗く者があって、団子をぬしゃむしゃやっている新三郎に声をかけて寄越した。

「ああ、やっぱりこんなところにいなすった。昼間っからいい若い衆が蕎麦屋でなんですかい」

 そう言ったのは同心風の尾羽打ちからした中年の武家だった。齢の頃は三十後半と言ったところか。無論、新三郎には見知った顔である。
 だが新三郎は団子を飲み込んで茶をすすりつつ、目を合わせようともしない。用向きはだいたい承知している。なんとも面倒くさい。

「新三郎様!」

 心ここにあらずの新三郎は、呼びかけられてもなかなか気づかないふりだ。もう一本残った団子の串に貪りつく。
 ちなみに新三郎は苦手ではないが、酒を好んで呑まない。丹醸などと謳う上方回りの澄ませた清酒が江戸にも出回って久しいが、これは目が飛び出るほど高い。これなら呑んでも悪酔いしないが、新三郎などには手の出ない代物である。必然、江戸で普通に呑ませる濁酒を口にすることになるのだが、どろどろと濁った喉越しが新三郎には駄目なのだった。
 だからと言うわけでもないが、飯のあとには甘いものを食う。
 人が晩酌をやる刻限でも、小豆粥などをすする。そんな新三郎の癖を知って「面白い」と笑った塔子の上目遣いの細くなった目を思い出す。

「ちょいと新三郎様!!」

 再度呼ばれて新三郎はようやく振り返った。呼ばわった同心風の顔を確認して「なんだ吉十か」と今更ながらに返事を漏らした。

「略して呼ぶのはおやめくだされ」
「わかったわかった。で、何用だ」

 吉十こと、吉田十蔵は長い溜息をついたあと、板敷きに乱雑に置かれていた新三郎の両刀を拾い上げて立つよう催促した。
 追われるように勘定を済ませて店の外に出ると、吉十が口に手を当てて「殿がお呼びです」とささやいた。

「なんだまたお叱りか。もう玄蕃のことが耳に入ったわけか。相当お嫌いと見える」

 溜息をつく新三郎を十蔵は呆れたような目で見やる。

「新三郎様が悪うございますよ。当家と森様とでは属する派閥が違います。いくら幼馴染だからと言っても、こう度々殿のお邪魔をされては……」

「俺は、実家とは縁を切ったのだ。何をしようと勝手だろう。それに俺は邪魔などしとらん。兄上のお考えが甘いだけだ」
「そのように殿の悪口をお言いなさるな。とにかく屋敷までお供つかまつる。殿は離縁状を受け取っておりませぬゆえ、新三郎様は未だ当家の関係者です。それにしても弟が兄を勘当するなどと聞いたことがありませんよ」

 ぼやく十蔵を傍目に、新三郎は「ふん」とだけ返してさっさと歩きだした。
 そろそろ対決しておかねばならないようだ。両刀を手挟みながら新三郎はずんずんと歩き出す。

「新三郎様」

 後をついてくると思った十蔵は、立ち止まったまま大きな声で新三郎に呼びかける。

「なんだ!」
「行き先が反対でございます」
「…………」

 そう言われてすごすごと踵を返し、新三郎は速足に十蔵の目前を通り過ぎる。それを追って歩き出した十蔵が、途中「ちょっと……はやい……」と息を切らせて必死でついてきていたが、新三郎は構わず兄の待つ屋敷へとさらに足を早めた。
 日はまだ高い。せっかく何もすることのないはずの一日が、早速にも面倒な一日になろうとしている。新三郎はさっき鉢合わせた塔子の面差しをせめてもの慰めにと脳裏に浮かべ、それでも憂鬱に息を吐いた。
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