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◾️はじまりの章

◾️008.簪

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 儀式までの数日間、王暁ワンシャオ は出来る限り鄭貫明テイグァンミンの側で寄り添って過ごせるようにと努力しようとした。

 だが、残念ながら王暁ワンシャオ の努力は実らなかった。

 多少忙しくはなるとはいえ、食事やお茶を飲む時間くらいはあるだろう。王暁ワンシャオ も最初はそう思っていた。しかし、現実というものはとてつもなく無常だった。

 失敗は許されないとして礼儀作法を寝る間も惜しんでみっちりと仕込まれた上、事前の打ち合わせが毎日何度も繰り返し行われた為に、殆どと言って良いくらいに時間が取れなかったのだ。

 良くて、二言三言喋れる程度。結局、実際に長い時間を共に過ごすことが出来たのは、あの鄭貫明テイグァンミンから激しい口付けをされた夜だけだった。

「俺、貫明グァンミン不足で死んじゃう……」  

 王暁ワンシャオ はぐすんと鼻をすすり、そんな弱音を吐いて同情を誘おうとしてみた。だが、皆はどこか呆れた様子で「死にませんよ」と返して来るだけだった。

 許されるなら、鄭貫明テイグァンミンに一日中ずっとべったりくっていていたい王暁ワンシャオ からしてみれば、本当に死活問題なのだが、彼らからしてみればただの惚気にしか聞こえなかったらしい。

 正直言って寂しくて死にそうだ。だが、皆が王暁ワンシャオ の為に労力も時間も割いてくれている中で、さすがに子供の様に「もう嫌だ!」なんてこれ以上我儘を言うわけにもいかない。

 王暁ワンシャオ だって皆に迷惑をかけたい訳ではない。

 あと数日我慢すれば本番である。終わればまた以前のように会えるのだから頑張るしかなかった。

(疲れた……っ)

 その日もみっちりと学ばされた王暁ワンシャオ は自室でくったりと倒れ込んだ。



 ――そして、いよいよ本番がやって来た。

 成人の儀の朝、松明の灯りだけで照らされていた洞窟の中に、太陽の光が差し込んでくる時刻――。 王暁ワンシャオはご機嫌で鼻歌を歌っていた。

「ふんふんふふーん♪」

 けっして上手いとは言えない歌だったが、その場に居合わせた誰も文句を言うことはない。むしろ、皆どこか微笑ましげに見守っているくらいだ。

王暁ワンシャオ様、ご機嫌なのは大変よろしいですが、あまり表情を動かさないでくださいね。お化粧が崩れてしまいますから」
「はーい」

 侍女に軽く嗜められた王暁ワンシャオは、大きな姿見に映る己の姿を眺めながら、にっこりと笑う。白粉で白く染められた肌に、目尻を彩る真紅の隈取くまどり、紅を刺した唇。その普段とはかけ離れた艶やかな雰囲気には、見慣れないものではあったので最初は少し戸惑った。だが、その出来栄えはとても華やかで満足の行くものだった。

 金の縁取りと細かい刺繍の施された、翡翠色の艶やかさのある豪奢な衣は、普段王暁ワンシャオが好んで着用している、白や淡い桃色の清楚な衣とは違いかなり派手だが、とても立派だ。

 打ち合わせの際に提案された際は、自身に似合うか少し不安だったが、身につけてみると意外や意外、中々様になっていた。

王暁ワンシャオ様、本当にお綺麗ですわね。王藍洙ワンランズ様」
「えぇ。我が弟ながら惚れ惚れしてしまうわね。お子様だとばかり思っていたのに、立派になって……」

 近くで、侍女と手を取り合いながら姉の王藍洙ワンランズがそんな風に黄色い声をあげながらはしゃいでいるのをちらりと見て、王暁ワンシャオはほんの僅かに胸を張る。

 いつもの王暁ワンシャオなら「そんな大袈裟だよ」と言っていたに違いない。だが、正直今回ばかりは自画自賛になってはしまうが、中々に美しく仕上がっていると自分でも思ってしまった。

 王暁ワンシャオは普段から肌の手入れは入念に行なってはいる。だが、女性ではないので、今までは化粧については全くしていなかった。

 子供の頃は戯れに侍女の紅や白粉をつけてみたりはしたものの、慣れていないこともあって、出来上がったのは妖の類かと思うくらいのものだったのも、化粧をしようとは思わなかった理由かもしれない。

 それに年齢もまだ十台前半であったし、必要性を強く感じることもなかったのも大きいだろう。

 ちなみに、長い髪の一部を両側でお団子にしてそれ以外は全て下ろすという髪型は、姉の王藍洙ワンランズの発案だ。

 更に、丸いお団子ではありきたりだからと、侍女たちが試行錯誤の末に髪の毛をくるくると巻いてわざと崩すことでお団子の先端部分を尖らせてくれたのだが、これが中々にお洒落で王暁ワンシャオは非常に気に入っていた。

王暁ワンシャオ。髪が崩れるから、始まるまでおとなしくしているのよ?」
「分かってますよ。姉様。でも姉様、ご自分の時は自由に動きまわっていましたよね?」
「それはそれ、これはこれよ」

 王藍洙ワンランズの成人の儀が行われた際、侍女たちから諭されていたのを思い出した王暁ワンシャオがそう言うと、王藍洙ワンランズがしれっと言った。

「姉様ってば……」

 もう! と、王暁ワンシャオがぷくりと頬を膨らませる。

 仲の良い姉弟のやりとりに、周りの面々は微笑ましげにクスクスと笑った。
 




「お父様。見てくださいまし、シャオの姿を! とっても素敵だと思いませんか!?」

 父の王奕辰ワンイーチェンが洞窟に入って来た瞬間に、開口一番に王藍洙ワンランズがはしゃいだ声を浴びせた。 

 王奕辰ワンイーチェンが、若干引き気味になりながらも「あぁ」と頷くのが見える。この言わせた感が何とも気まずいが、まぁ良いかと王暁ワンシャオは開き直った。

 正直に言って、父から容姿に関する褒め言葉を引き出すことに、何の価値も見出せない。褒められるのは悪い気はしないが、無理やり言わせても意味がないからだ。

 それよりも。

貫明グァンミン!」

 王暁ワンシャオは、父の背後に立つ鄭貫明テイグァンミンにぱあっと顔を輝かせながらぴょこんとその場で飛び上がった。

「…… 王暁ワンシャオ、はしたないからやめなさい」

 王奕辰ワンイーチェンにすかさず嗜められるが、王暁ワンシャオは気にせずに鄭貫明テイグァンミンの側に駆け寄る。 

 今の格好を一番見てほしい人が現れたのだ。少しくらいの無作法は許してほしい。

「……どう、かな? 似合う?」

 王暁ワンシャオは、鄭貫明テイグァンミンを見上げながら内心恐る恐る尋ねた。正直、鄭貫明テイグァンミンに似合っていないと言われたら、間違いなく立ち直れないだろう。まぁ、鄭貫明テイグァンミンはそんな酷いことを言う様な人間ではないのだが……。

 ……中々返事がない。

(……っ)

 もしかして、この格好が 鄭貫明テイグァンミンから見て好みじゃなかったのかな? そう心配した王暁ワンシャオは、何故か硬直しているまま動かない鄭貫明テイグァンミンの様子をじっと覗った。 

 鄭貫明テイグァンミン王暁ワンシャオと目が合うと視線をそらした。

 しかし、その後すぐに
「……いや、とても……そのよく似合っている。すごく綺麗だ。ただ、その、綺麗すぎて……直視できん。すまん」
 と頭を下げた。

(……み、耳まで真っ赤だ)

 日に焼けた健康的な肌の持ち主である鄭貫明テイグァンミンの顔色の変化は、普段は分かりづらい。しかし、今は誰が見ても赤くなっているのが分かるくらいなのだ。

 その反応は表情よりも如実に分かりやすくて、これは間違いなく、本気で照れているのだなとすぐに分かった。  

「あらあら……」
「まぁまぁ……」

 視界の端で王藍洙ワンランズと侍女と目を輝かせながら口元を両の手で覆っているのが見える。

 王暁ワンシャオは、ほっと安堵の息を吐きながらも、ほんのりと頬を赤らめた。多分、王暁ワンシャオ耳も鄭貫明テイグァンミンと同じくらい赤くなっているに違いない。 

「……んんっ。鄭貫明テイグァンミン王暁ワンシャオに贈ったというかんざしはどれだ?」

 こほんとわざとらしい咳で、周囲に流れる生暖かい沈黙の空間を打ち破ったのは、王奕辰ワンイーチェンだった。

王暁ワンシャオ様……」

 側で控えていた侍女の一人が、王暁ワンシャオにそう伺いを立てるようにこちらを見つめて来た。

 この侍女は比較的年若い娘が多い侍女の中では年嵩で、よく気がつく聡い者だった。いくら王奕辰ワンイーチェンが相手とはいえ、王暁ワンシャオが大切にしているかんざしを勝手に見せるわけにはいかない。そう思ったのだろう。

 王暁ワンシャオは、静かに頷いた。

「箱から出して良いから、父様に見せてさしあげて」
「かしこまりました」

 侍女は静々と拱手きょうしゅすると、木箱を取り出しそのまま捧げ持つ様にして膝をつきながら蓋を開ける。
 赤い上等な布に包まれた、可愛らしい兎の かんざしがそこにはあった。

「……こ、れは……また、随分と……可愛らしい物を贈ったのだな。流行りでいえば花の方が人気があるだろうに、兎か……」

 王奕辰ワンイーチェンが、一瞬の沈黙の後に絞り出すように言った。女衆の中で人気がある柄は、上品で大人の雰囲気の物が多い。嫌味ではなく、あえて兎を選んだことが純粋に不思議だったのだろう。

 だが、鄭貫明テイグァンミンには上手く伝わらなかったようだ。息子への強いこだわりから、普段から鄭貫明テイグァンミンにやや当たりが強いところがある王奕辰ワンイーチェンだ。
 今回も何か含みのある言い方だと、鄭貫明テイグァンミンは感じてしまったのだろう。

「いえ、その……。暁暁シャオシャオは可愛らしい物が好き……ですし、こちらは一点物の珍しい品なので……」
「……そうか。だが、いくら何でも少し幼すぎるのではないか?」

 鄭貫明テイグァンミンが、恐る恐る言うと、王奕辰ワンイーチェンは更にそんなことを言い出した。

「……っ。申し訳ありません」

 鄭貫明テイグァンミンが大きな体を萎縮させる。

 可哀想に。叱責をされていると思っているに違いない。王奕辰ワンイーチェンに悪気はないのだろう。だが、実際に横で聞いていると小言にしか聞こえない。王奕辰ワンイーチェン鄭貫明テイグァンミンに対しての日頃の行いがあまり良くないので、余計にそう見えるのかもしれないが……。

 しかし、さすがにこれは鄭貫明テイグァンミンに失礼なのでは? 

 「父様……! 俺への贈り物にケチをつける様な言い方をしないでください! 俺が気にいってるんですから良いんです!」

 我慢することができずに、王暁ワンシャオはすかさず口を出した。いくら何でも謝らせるなんてありえない。

 それに、鄭貫明テイグァンミン王暁ワンシャオの好みをきちんと分かっていて選んでくれている。王暁ワンシャオの好みを理解していないのは、王奕辰ワンイーチェンの方だ。

「お父様、わたくしもいくら何でも不躾だと思いますわ。当事者以外が贈り物の内容に口を出すなんて、あまりに余計なお世話すぎますもの」

 王暁ワンシャオの怒りに、それまで黙って話を聞いていた王藍洙ワンランズが口を開いた。

 周りの侍女たちも「うんうん」と何度も頷いている。

「……っ、すまぬ。責めるつもりではなかったのだが……。細かいところが気になって、周りが見えなくなってしまう。私の悪い癖だな」

 誰一人味方がいない状況に、王奕辰ワンイーチェンも己の発言が大変な失言だと気づいたらしい。すぐに謝罪をした。

 ――父には失礼な話だが、正直かなり意外である。

 それだけではない。
 更に驚くべきことに、王奕辰ワンイーチェンはとあることを提案して来た。

「詫びと言っては何だが……。そのかんざしは今ここで鄭貫明テイグァンミンにつけて貰いなさい」
「……え!?」

 王暁ワンシャオは驚きで目を見張った。

「……髪に初めてかんざしを刺す役目は鄭貫明テイグァンミンの方がお前も良いのだろう?」
「う、うん……。それは、確かにそうだけど……」

 父の言う通り、せっかくなら鄭貫明テイグァンミンから直接髪に刺してもらえたらなぁなんて思ったことはある。
 ただ、ここに至るまでに相当な我儘を言った自覚はある王暁ワンシャオだ。さすがに叱られるだろうし、いくら何でも強欲すぎると黙っていたのだ。

 だから、この申し出には本当に心の底から驚いた。
 鄭貫明テイグァンミン王暁ワンシャオと同じくらい驚いたのだろう。目を見開いていた。

「良いの? 父様」

 すごく嬉しい。だけど、本当に良いの? と王暁ワンシャオは尋ねる。

「……あぁ。さすがに儀式を鄭貫明テイグァンミンに進行させる訳にはいかないが、それくらいは構わん。どうせ参列者もそこまで細かくは見ていないしな。万が一気がついたたとしても、儀式自体もあくまで対外的に形式を装っているに過ぎないものだ。それに、冠礼かんれい笄礼けいれいに変更すると言っても不満が出なかったのだ。細かい点までは、誰もいちいち言いがかりはつけてこないだろうよ」

 ……確かに。最初から伝統に従い儀式を厳しく執り行うなら、冠礼かんれい笄礼けいれいにしたいなんて話が出た時点で文句が出ていたに違いない。

 九寨溝きゅうさいこうのお偉方は一番若くても七十代と高齢だが、皆年齢の割には比較的柔軟な考え方をしている。王暁ワンシャオのことも可愛がってくれていた。

 むしろ、王暁ワンシャオに普段から厳しいと言えるのは、父の王奕辰ワンイーチェンだと言っても過言ではないくらいである。

 その王奕辰ワンイーチェンが良いと言うのだから、お墨付きを貰ったと言っても良いだろう。

 王暁ワンシャオは、鄭貫明テイグァンミンと視線を合わせて互いに頷いた後、満面の笑みを浮かべた。

「……父様! 感謝致します!」

 王暁ワンシャオは、王奕辰ワンイーチェンに勢い良く抱きついた。

「……この王奕辰ワンイーチェン。可愛い息子のささかやな望みを無碍むげにするほど、薄情はくじょうではつもりだ」

 王奕辰ワンイーチェンはそう言って、王暁ワンシャオをしっかりと抱きしめ返してくれた。





 侍女は、かんざしの入った木の箱を鄭貫明テイグァンミンに手渡した後、深くお辞儀をすると黙ってその場を辞した。他の侍女たちも彼女の後に続いて去って行く。

 小さく王暁ワンシャオが礼を言うと、彼女たちの口角が僅かに上がった。
 侍女の役目は、化粧と衣装の着付けまでだ。これ以降は、儀式が終わるまでは彼女たちと顔を合わせることはない。

「お父様、わたくしたちも……」

 王藍洙ワンランズがすかさずそう言うと、王奕辰ワンイーチェンは一瞬沈黙したが、まもなく小さく頷いた。

「……四半時しはんとき後に迎えに来る」

 王奕辰ワンイーチェンはそう言って踵を返した。

 去り際、王藍洙ワンランズが片目をまばたいて王暁ワンシャオに合図を送る。どうやら、二人きりになれるようにと気を遣ってくれたらしい。

(……姉様)

 王暁ワンシャオは、お礼を言うつもりで微笑みながら小さく手を振った。本当によくできた気の利く姉である。

 連れ立って歩いて行く二人を最後に見送った後、二人きりでその場に残された鄭貫明テイグァンミン王暁ワンシャオは、見つめ合いながらそっと互いの手を取った。

「……暁暁シャオシャオ、本当に綺麗だ」
「グ、貫明グァンミン……!?」

 まじまじと上から下まで長々と見つめた後、感嘆した様子で鄭貫明テイグァンミン が言った。

 褒めてくれるのは嬉しい。だが、改めて真正面から言われると少しだけ恥ずかしい。王暁ワンシャオの頬が熱を持つのが分かる。

「ねぇ。少し屈んでくれる?」
「ん」

 王暁ワンシャオが視線を泳がせた後でそうお願いお願いすると、鄭貫明テイグァンミンは小さく頷いて屈んでくれた。

 その隙に背伸びをして、鄭貫明テイグァンミン の頬に一瞬だけちゅっと口付けをする。

 これくらいなら、化粧も大丈夫な筈――。

「えへへっ」

 してやったりと、悪戯っぽく笑う王暁ワンシャオ に鄭貫明テイグァンミンは少し驚いて固まっていた。その姿を見て、可愛いなぁと、思わずほくそ笑む。

(俺、すごく幸せだ……!)

 ――鄭貫明テイグァンミンと二人でいると、視界に映るもの耳に入るもの、すべてが愛おしく美しく見える。

 これからも二人でいられるなら、誰かを憎むこともなく、他者の幸せを喜ぶ。そんな聖人にすらなれるに違いない。そんな風に錯覚してしまうくらいに、今の王暁ワンシャオは幸せだった。
 
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