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◾️はじまりの章
◾️008.簪
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儀式までの数日間、王暁 は出来る限り鄭貫明の側で寄り添って過ごせるようにと努力しようとした。
だが、残念ながら王暁 の努力は実らなかった。
多少忙しくはなるとはいえ、食事やお茶を飲む時間くらいはあるだろう。王暁 も最初はそう思っていた。しかし、現実というものはとてつもなく無常だった。
失敗は許されないとして礼儀作法を寝る間も惜しんでみっちりと仕込まれた上、事前の打ち合わせが毎日何度も繰り返し行われた為に、殆どと言って良いくらいに時間が取れなかったのだ。
良くて、二言三言喋れる程度。結局、実際に長い時間を共に過ごすことが出来たのは、あの鄭貫明から激しい口付けをされた夜だけだった。
「俺、貫明不足で死んじゃう……」
王暁 はぐすんと鼻をすすり、そんな弱音を吐いて同情を誘おうとしてみた。だが、皆はどこか呆れた様子で「死にませんよ」と返して来るだけだった。
許されるなら、鄭貫明に一日中ずっとべったりくっていていたい王暁 からしてみれば、本当に死活問題なのだが、彼らからしてみればただの惚気にしか聞こえなかったらしい。
正直言って寂しくて死にそうだ。だが、皆が王暁 の為に労力も時間も割いてくれている中で、さすがに子供の様に「もう嫌だ!」なんてこれ以上我儘を言うわけにもいかない。
王暁 だって皆に迷惑をかけたい訳ではない。
あと数日我慢すれば本番である。終わればまた以前のように会えるのだから頑張るしかなかった。
(疲れた……っ)
その日もみっちりと学ばされた王暁 は自室でくったりと倒れ込んだ。
――そして、いよいよ本番がやって来た。
成人の儀の朝、松明の灯りだけで照らされていた洞窟の中に、太陽の光が差し込んでくる時刻――。 王暁はご機嫌で鼻歌を歌っていた。
「ふんふんふふーん♪」
けっして上手いとは言えない歌だったが、その場に居合わせた誰も文句を言うことはない。むしろ、皆どこか微笑ましげに見守っているくらいだ。
「王暁様、ご機嫌なのは大変よろしいですが、あまり表情を動かさないでくださいね。お化粧が崩れてしまいますから」
「はーい」
侍女に軽く嗜められた王暁は、大きな姿見に映る己の姿を眺めながら、にっこりと笑う。白粉で白く染められた肌に、目尻を彩る真紅の隈取、紅を刺した唇。その普段とはかけ離れた艶やかな雰囲気には、見慣れないものではあったので最初は少し戸惑った。だが、その出来栄えはとても華やかで満足の行くものだった。
金の縁取りと細かい刺繍の施された、翡翠色の艶やかさのある豪奢な衣は、普段王暁が好んで着用している、白や淡い桃色の清楚な衣とは違いかなり派手だが、とても立派だ。
打ち合わせの際に提案された際は、自身に似合うか少し不安だったが、身につけてみると意外や意外、中々様になっていた。
「王暁様、本当にお綺麗ですわね。王藍洙様」
「えぇ。我が弟ながら惚れ惚れしてしまうわね。お子様だとばかり思っていたのに、立派になって……」
近くで、侍女と手を取り合いながら姉の王藍洙がそんな風に黄色い声をあげながらはしゃいでいるのをちらりと見て、王暁はほんの僅かに胸を張る。
いつもの王暁なら「そんな大袈裟だよ」と言っていたに違いない。だが、正直今回ばかりは自画自賛になってはしまうが、中々に美しく仕上がっていると自分でも思ってしまった。
王暁は普段から肌の手入れは入念に行なってはいる。だが、女性ではないので、今までは化粧については全くしていなかった。
子供の頃は戯れに侍女の紅や白粉をつけてみたりはしたものの、慣れていないこともあって、出来上がったのは妖の類かと思うくらいのものだったのも、化粧をしようとは思わなかった理由かもしれない。
それに年齢もまだ十台前半であったし、必要性を強く感じることもなかったのも大きいだろう。
ちなみに、長い髪の一部を両側でお団子にしてそれ以外は全て下ろすという髪型は、姉の王藍洙の発案だ。
更に、丸いお団子ではありきたりだからと、侍女たちが試行錯誤の末に髪の毛をくるくると巻いてわざと崩すことでお団子の先端部分を尖らせてくれたのだが、これが中々にお洒落で王暁は非常に気に入っていた。
「王暁。髪が崩れるから、始まるまでおとなしくしているのよ?」
「分かってますよ。姉様。でも姉様、ご自分の時は自由に動きまわっていましたよね?」
「それはそれ、これはこれよ」
王藍洙の成人の儀が行われた際、侍女たちから諭されていたのを思い出した王暁がそう言うと、王藍洙がしれっと言った。
「姉様ってば……」
もう! と、王暁がぷくりと頬を膨らませる。
仲の良い姉弟のやりとりに、周りの面々は微笑ましげにクスクスと笑った。
「お父様。見てくださいまし、暁の姿を! とっても素敵だと思いませんか!?」
父の王奕辰が洞窟に入って来た瞬間に、開口一番に王藍洙がはしゃいだ声を浴びせた。
王奕辰が、若干引き気味になりながらも「あぁ」と頷くのが見える。この言わせた感が何とも気まずいが、まぁ良いかと王暁は開き直った。
正直に言って、父から容姿に関する褒め言葉を引き出すことに、何の価値も見出せない。褒められるのは悪い気はしないが、無理やり言わせても意味がないからだ。
それよりも。
「貫明!」
王暁は、父の背後に立つ鄭貫明にぱあっと顔を輝かせながらぴょこんとその場で飛び上がった。
「…… 王暁、はしたないからやめなさい」
王奕辰にすかさず嗜められるが、王暁は気にせずに鄭貫明の側に駆け寄る。
今の格好を一番見てほしい人が現れたのだ。少しくらいの無作法は許してほしい。
「……どう、かな? 似合う?」
王暁は、鄭貫明を見上げながら内心恐る恐る尋ねた。正直、鄭貫明に似合っていないと言われたら、間違いなく立ち直れないだろう。まぁ、鄭貫明はそんな酷いことを言う様な人間ではないのだが……。
……中々返事がない。
(……っ)
もしかして、この格好が 鄭貫明から見て好みじゃなかったのかな? そう心配した王暁は、何故か硬直しているまま動かない鄭貫明の様子をじっと覗った。
鄭貫明は王暁と目が合うと視線をそらした。
しかし、その後すぐに
「……いや、とても……そのよく似合っている。すごく綺麗だ。ただ、その、綺麗すぎて……直視できん。すまん」
と頭を下げた。
(……み、耳まで真っ赤だ)
日に焼けた健康的な肌の持ち主である鄭貫明の顔色の変化は、普段は分かりづらい。しかし、今は誰が見ても赤くなっているのが分かるくらいなのだ。
その反応は表情よりも如実に分かりやすくて、これは間違いなく、本気で照れているのだなとすぐに分かった。
「あらあら……」
「まぁまぁ……」
視界の端で王藍洙と侍女と目を輝かせながら口元を両の手で覆っているのが見える。
王暁は、ほっと安堵の息を吐きながらも、ほんのりと頬を赤らめた。多分、王暁耳も鄭貫明と同じくらい赤くなっているに違いない。
「……んんっ。鄭貫明が王暁に贈ったという簪はどれだ?」
こほんとわざとらしい咳で、周囲に流れる生暖かい沈黙の空間を打ち破ったのは、王奕辰だった。
「王暁様……」
側で控えていた侍女の一人が、王暁にそう伺いを立てるようにこちらを見つめて来た。
この侍女は比較的年若い娘が多い侍女の中では年嵩で、よく気がつく聡い者だった。いくら王奕辰が相手とはいえ、王暁が大切にしている簪を勝手に見せるわけにはいかない。そう思ったのだろう。
王暁は、静かに頷いた。
「箱から出して良いから、父様に見せてさしあげて」
「かしこまりました」
侍女は静々と拱手すると、木箱を取り出しそのまま捧げ持つ様にして膝をつきながら蓋を開ける。
赤い上等な布に包まれた、可愛らしい兎の 簪がそこにはあった。
「……こ、れは……また、随分と……可愛らしい物を贈ったのだな。流行りでいえば花の方が人気があるだろうに、兎か……」
王奕辰が、一瞬の沈黙の後に絞り出すように言った。女衆の中で人気がある柄は、上品で大人の雰囲気の物が多い。嫌味ではなく、あえて兎を選んだことが純粋に不思議だったのだろう。
だが、鄭貫明には上手く伝わらなかったようだ。息子への強いこだわりから、普段から鄭貫明にやや当たりが強いところがある王奕辰だ。
今回も何か含みのある言い方だと、鄭貫明は感じてしまったのだろう。
「いえ、その……。暁暁は可愛らしい物が好き……ですし、こちらは一点物の珍しい品なので……」
「……そうか。だが、いくら何でも少し幼すぎるのではないか?」
鄭貫明が、恐る恐る言うと、王奕辰は更にそんなことを言い出した。
「……っ。申し訳ありません」
鄭貫明が大きな体を萎縮させる。
可哀想に。叱責をされていると思っているに違いない。王奕辰に悪気はないのだろう。だが、実際に横で聞いていると小言にしか聞こえない。王奕辰の鄭貫明に対しての日頃の行いがあまり良くないので、余計にそう見えるのかもしれないが……。
しかし、さすがにこれは鄭貫明に失礼なのでは?
「父様……! 俺への贈り物にケチをつける様な言い方をしないでください! 俺が気にいってるんですから良いんです!」
我慢することができずに、王暁はすかさず口を出した。いくら何でも謝らせるなんてありえない。
それに、鄭貫明は王暁の好みをきちんと分かっていて選んでくれている。王暁の好みを理解していないのは、王奕辰の方だ。
「お父様、わたくしもいくら何でも不躾だと思いますわ。当事者以外が贈り物の内容に口を出すなんて、あまりに余計なお世話すぎますもの」
王暁の怒りに、それまで黙って話を聞いていた王藍洙が口を開いた。
周りの侍女たちも「うんうん」と何度も頷いている。
「……っ、すまぬ。責めるつもりではなかったのだが……。細かいところが気になって、周りが見えなくなってしまう。私の悪い癖だな」
誰一人味方がいない状況に、王奕辰も己の発言が大変な失言だと気づいたらしい。すぐに謝罪をした。
――父には失礼な話だが、正直かなり意外である。
それだけではない。
更に驚くべきことに、王奕辰はとあることを提案して来た。
「詫びと言っては何だが……。その簪は今ここで鄭貫明につけて貰いなさい」
「……え!?」
王暁は驚きで目を見張った。
「……髪に初めて簪を刺す役目は鄭貫明の方がお前も良いのだろう?」
「う、うん……。それは、確かにそうだけど……」
父の言う通り、せっかくなら鄭貫明から直接髪に刺してもらえたらなぁなんて思ったことはある。
ただ、ここに至るまでに相当な我儘を言った自覚はある王暁だ。さすがに叱られるだろうし、いくら何でも強欲すぎると黙っていたのだ。
だから、この申し出には本当に心の底から驚いた。
鄭貫明も王暁と同じくらい驚いたのだろう。目を見開いていた。
「良いの? 父様」
すごく嬉しい。だけど、本当に良いの? と王暁は尋ねる。
「……あぁ。さすがに儀式を鄭貫明に進行させる訳にはいかないが、それくらいは構わん。どうせ参列者もそこまで細かくは見ていないしな。万が一気がついたたとしても、儀式自体もあくまで対外的に形式を装っているに過ぎないものだ。それに、冠礼を笄礼に変更すると言っても不満が出なかったのだ。細かい点までは、誰もいちいち言いがかりはつけてこないだろうよ」
……確かに。最初から伝統に従い儀式を厳しく執り行うなら、冠礼を笄礼にしたいなんて話が出た時点で文句が出ていたに違いない。
九寨溝のお偉方は一番若くても七十代と高齢だが、皆年齢の割には比較的柔軟な考え方をしている。王暁のことも可愛がってくれていた。
むしろ、王暁に普段から厳しいと言えるのは、父の王奕辰だと言っても過言ではないくらいである。
その王奕辰が良いと言うのだから、お墨付きを貰ったと言っても良いだろう。
王暁は、鄭貫明と視線を合わせて互いに頷いた後、満面の笑みを浮かべた。
「……父様! 感謝致します!」
王暁は、王奕辰に勢い良く抱きついた。
「……この王奕辰。可愛い息子のささかやな望みを無碍にするほど、薄情ではつもりだ」
王奕辰はそう言って、王暁をしっかりと抱きしめ返してくれた。
侍女は、簪の入った木の箱を鄭貫明に手渡した後、深くお辞儀をすると黙ってその場を辞した。他の侍女たちも彼女の後に続いて去って行く。
小さく王暁が礼を言うと、彼女たちの口角が僅かに上がった。
侍女の役目は、化粧と衣装の着付けまでだ。これ以降は、儀式が終わるまでは彼女たちと顔を合わせることはない。
「お父様、わたくしたちも……」
王藍洙がすかさずそう言うと、王奕辰は一瞬沈黙したが、まもなく小さく頷いた。
「……四半時後に迎えに来る」
王奕辰はそう言って踵を返した。
去り際、王藍洙が片目をまばたいて王暁に合図を送る。どうやら、二人きりになれるようにと気を遣ってくれたらしい。
(……姉様)
王暁は、お礼を言うつもりで微笑みながら小さく手を振った。本当によくできた気の利く姉である。
連れ立って歩いて行く二人を最後に見送った後、二人きりでその場に残された鄭貫明と王暁は、見つめ合いながらそっと互いの手を取った。
「……暁暁、本当に綺麗だ」
「グ、貫明……!?」
まじまじと上から下まで長々と見つめた後、感嘆した様子で鄭貫明 が言った。
褒めてくれるのは嬉しい。だが、改めて真正面から言われると少しだけ恥ずかしい。王暁の頬が熱を持つのが分かる。
「ねぇ。少し屈んでくれる?」
「ん」
王暁が視線を泳がせた後でそうお願いお願いすると、鄭貫明は小さく頷いて屈んでくれた。
その隙に背伸びをして、鄭貫明 の頬に一瞬だけちゅっと口付けをする。
これくらいなら、化粧も大丈夫な筈――。
「えへへっ」
してやったりと、悪戯っぽく笑う王暁 に鄭貫明は少し驚いて固まっていた。その姿を見て、可愛いなぁと、思わずほくそ笑む。
(俺、すごく幸せだ……!)
――鄭貫明と二人でいると、視界に映るもの耳に入るもの、すべてが愛おしく美しく見える。
これからも二人でいられるなら、誰かを憎むこともなく、他者の幸せを喜ぶ。そんな聖人にすらなれるに違いない。そんな風に錯覚してしまうくらいに、今の王暁は幸せだった。
だが、残念ながら王暁 の努力は実らなかった。
多少忙しくはなるとはいえ、食事やお茶を飲む時間くらいはあるだろう。王暁 も最初はそう思っていた。しかし、現実というものはとてつもなく無常だった。
失敗は許されないとして礼儀作法を寝る間も惜しんでみっちりと仕込まれた上、事前の打ち合わせが毎日何度も繰り返し行われた為に、殆どと言って良いくらいに時間が取れなかったのだ。
良くて、二言三言喋れる程度。結局、実際に長い時間を共に過ごすことが出来たのは、あの鄭貫明から激しい口付けをされた夜だけだった。
「俺、貫明不足で死んじゃう……」
王暁 はぐすんと鼻をすすり、そんな弱音を吐いて同情を誘おうとしてみた。だが、皆はどこか呆れた様子で「死にませんよ」と返して来るだけだった。
許されるなら、鄭貫明に一日中ずっとべったりくっていていたい王暁 からしてみれば、本当に死活問題なのだが、彼らからしてみればただの惚気にしか聞こえなかったらしい。
正直言って寂しくて死にそうだ。だが、皆が王暁 の為に労力も時間も割いてくれている中で、さすがに子供の様に「もう嫌だ!」なんてこれ以上我儘を言うわけにもいかない。
王暁 だって皆に迷惑をかけたい訳ではない。
あと数日我慢すれば本番である。終わればまた以前のように会えるのだから頑張るしかなかった。
(疲れた……っ)
その日もみっちりと学ばされた王暁 は自室でくったりと倒れ込んだ。
――そして、いよいよ本番がやって来た。
成人の儀の朝、松明の灯りだけで照らされていた洞窟の中に、太陽の光が差し込んでくる時刻――。 王暁はご機嫌で鼻歌を歌っていた。
「ふんふんふふーん♪」
けっして上手いとは言えない歌だったが、その場に居合わせた誰も文句を言うことはない。むしろ、皆どこか微笑ましげに見守っているくらいだ。
「王暁様、ご機嫌なのは大変よろしいですが、あまり表情を動かさないでくださいね。お化粧が崩れてしまいますから」
「はーい」
侍女に軽く嗜められた王暁は、大きな姿見に映る己の姿を眺めながら、にっこりと笑う。白粉で白く染められた肌に、目尻を彩る真紅の隈取、紅を刺した唇。その普段とはかけ離れた艶やかな雰囲気には、見慣れないものではあったので最初は少し戸惑った。だが、その出来栄えはとても華やかで満足の行くものだった。
金の縁取りと細かい刺繍の施された、翡翠色の艶やかさのある豪奢な衣は、普段王暁が好んで着用している、白や淡い桃色の清楚な衣とは違いかなり派手だが、とても立派だ。
打ち合わせの際に提案された際は、自身に似合うか少し不安だったが、身につけてみると意外や意外、中々様になっていた。
「王暁様、本当にお綺麗ですわね。王藍洙様」
「えぇ。我が弟ながら惚れ惚れしてしまうわね。お子様だとばかり思っていたのに、立派になって……」
近くで、侍女と手を取り合いながら姉の王藍洙がそんな風に黄色い声をあげながらはしゃいでいるのをちらりと見て、王暁はほんの僅かに胸を張る。
いつもの王暁なら「そんな大袈裟だよ」と言っていたに違いない。だが、正直今回ばかりは自画自賛になってはしまうが、中々に美しく仕上がっていると自分でも思ってしまった。
王暁は普段から肌の手入れは入念に行なってはいる。だが、女性ではないので、今までは化粧については全くしていなかった。
子供の頃は戯れに侍女の紅や白粉をつけてみたりはしたものの、慣れていないこともあって、出来上がったのは妖の類かと思うくらいのものだったのも、化粧をしようとは思わなかった理由かもしれない。
それに年齢もまだ十台前半であったし、必要性を強く感じることもなかったのも大きいだろう。
ちなみに、長い髪の一部を両側でお団子にしてそれ以外は全て下ろすという髪型は、姉の王藍洙の発案だ。
更に、丸いお団子ではありきたりだからと、侍女たちが試行錯誤の末に髪の毛をくるくると巻いてわざと崩すことでお団子の先端部分を尖らせてくれたのだが、これが中々にお洒落で王暁は非常に気に入っていた。
「王暁。髪が崩れるから、始まるまでおとなしくしているのよ?」
「分かってますよ。姉様。でも姉様、ご自分の時は自由に動きまわっていましたよね?」
「それはそれ、これはこれよ」
王藍洙の成人の儀が行われた際、侍女たちから諭されていたのを思い出した王暁がそう言うと、王藍洙がしれっと言った。
「姉様ってば……」
もう! と、王暁がぷくりと頬を膨らませる。
仲の良い姉弟のやりとりに、周りの面々は微笑ましげにクスクスと笑った。
「お父様。見てくださいまし、暁の姿を! とっても素敵だと思いませんか!?」
父の王奕辰が洞窟に入って来た瞬間に、開口一番に王藍洙がはしゃいだ声を浴びせた。
王奕辰が、若干引き気味になりながらも「あぁ」と頷くのが見える。この言わせた感が何とも気まずいが、まぁ良いかと王暁は開き直った。
正直に言って、父から容姿に関する褒め言葉を引き出すことに、何の価値も見出せない。褒められるのは悪い気はしないが、無理やり言わせても意味がないからだ。
それよりも。
「貫明!」
王暁は、父の背後に立つ鄭貫明にぱあっと顔を輝かせながらぴょこんとその場で飛び上がった。
「…… 王暁、はしたないからやめなさい」
王奕辰にすかさず嗜められるが、王暁は気にせずに鄭貫明の側に駆け寄る。
今の格好を一番見てほしい人が現れたのだ。少しくらいの無作法は許してほしい。
「……どう、かな? 似合う?」
王暁は、鄭貫明を見上げながら内心恐る恐る尋ねた。正直、鄭貫明に似合っていないと言われたら、間違いなく立ち直れないだろう。まぁ、鄭貫明はそんな酷いことを言う様な人間ではないのだが……。
……中々返事がない。
(……っ)
もしかして、この格好が 鄭貫明から見て好みじゃなかったのかな? そう心配した王暁は、何故か硬直しているまま動かない鄭貫明の様子をじっと覗った。
鄭貫明は王暁と目が合うと視線をそらした。
しかし、その後すぐに
「……いや、とても……そのよく似合っている。すごく綺麗だ。ただ、その、綺麗すぎて……直視できん。すまん」
と頭を下げた。
(……み、耳まで真っ赤だ)
日に焼けた健康的な肌の持ち主である鄭貫明の顔色の変化は、普段は分かりづらい。しかし、今は誰が見ても赤くなっているのが分かるくらいなのだ。
その反応は表情よりも如実に分かりやすくて、これは間違いなく、本気で照れているのだなとすぐに分かった。
「あらあら……」
「まぁまぁ……」
視界の端で王藍洙と侍女と目を輝かせながら口元を両の手で覆っているのが見える。
王暁は、ほっと安堵の息を吐きながらも、ほんのりと頬を赤らめた。多分、王暁耳も鄭貫明と同じくらい赤くなっているに違いない。
「……んんっ。鄭貫明が王暁に贈ったという簪はどれだ?」
こほんとわざとらしい咳で、周囲に流れる生暖かい沈黙の空間を打ち破ったのは、王奕辰だった。
「王暁様……」
側で控えていた侍女の一人が、王暁にそう伺いを立てるようにこちらを見つめて来た。
この侍女は比較的年若い娘が多い侍女の中では年嵩で、よく気がつく聡い者だった。いくら王奕辰が相手とはいえ、王暁が大切にしている簪を勝手に見せるわけにはいかない。そう思ったのだろう。
王暁は、静かに頷いた。
「箱から出して良いから、父様に見せてさしあげて」
「かしこまりました」
侍女は静々と拱手すると、木箱を取り出しそのまま捧げ持つ様にして膝をつきながら蓋を開ける。
赤い上等な布に包まれた、可愛らしい兎の 簪がそこにはあった。
「……こ、れは……また、随分と……可愛らしい物を贈ったのだな。流行りでいえば花の方が人気があるだろうに、兎か……」
王奕辰が、一瞬の沈黙の後に絞り出すように言った。女衆の中で人気がある柄は、上品で大人の雰囲気の物が多い。嫌味ではなく、あえて兎を選んだことが純粋に不思議だったのだろう。
だが、鄭貫明には上手く伝わらなかったようだ。息子への強いこだわりから、普段から鄭貫明にやや当たりが強いところがある王奕辰だ。
今回も何か含みのある言い方だと、鄭貫明は感じてしまったのだろう。
「いえ、その……。暁暁は可愛らしい物が好き……ですし、こちらは一点物の珍しい品なので……」
「……そうか。だが、いくら何でも少し幼すぎるのではないか?」
鄭貫明が、恐る恐る言うと、王奕辰は更にそんなことを言い出した。
「……っ。申し訳ありません」
鄭貫明が大きな体を萎縮させる。
可哀想に。叱責をされていると思っているに違いない。王奕辰に悪気はないのだろう。だが、実際に横で聞いていると小言にしか聞こえない。王奕辰の鄭貫明に対しての日頃の行いがあまり良くないので、余計にそう見えるのかもしれないが……。
しかし、さすがにこれは鄭貫明に失礼なのでは?
「父様……! 俺への贈り物にケチをつける様な言い方をしないでください! 俺が気にいってるんですから良いんです!」
我慢することができずに、王暁はすかさず口を出した。いくら何でも謝らせるなんてありえない。
それに、鄭貫明は王暁の好みをきちんと分かっていて選んでくれている。王暁の好みを理解していないのは、王奕辰の方だ。
「お父様、わたくしもいくら何でも不躾だと思いますわ。当事者以外が贈り物の内容に口を出すなんて、あまりに余計なお世話すぎますもの」
王暁の怒りに、それまで黙って話を聞いていた王藍洙が口を開いた。
周りの侍女たちも「うんうん」と何度も頷いている。
「……っ、すまぬ。責めるつもりではなかったのだが……。細かいところが気になって、周りが見えなくなってしまう。私の悪い癖だな」
誰一人味方がいない状況に、王奕辰も己の発言が大変な失言だと気づいたらしい。すぐに謝罪をした。
――父には失礼な話だが、正直かなり意外である。
それだけではない。
更に驚くべきことに、王奕辰はとあることを提案して来た。
「詫びと言っては何だが……。その簪は今ここで鄭貫明につけて貰いなさい」
「……え!?」
王暁は驚きで目を見張った。
「……髪に初めて簪を刺す役目は鄭貫明の方がお前も良いのだろう?」
「う、うん……。それは、確かにそうだけど……」
父の言う通り、せっかくなら鄭貫明から直接髪に刺してもらえたらなぁなんて思ったことはある。
ただ、ここに至るまでに相当な我儘を言った自覚はある王暁だ。さすがに叱られるだろうし、いくら何でも強欲すぎると黙っていたのだ。
だから、この申し出には本当に心の底から驚いた。
鄭貫明も王暁と同じくらい驚いたのだろう。目を見開いていた。
「良いの? 父様」
すごく嬉しい。だけど、本当に良いの? と王暁は尋ねる。
「……あぁ。さすがに儀式を鄭貫明に進行させる訳にはいかないが、それくらいは構わん。どうせ参列者もそこまで細かくは見ていないしな。万が一気がついたたとしても、儀式自体もあくまで対外的に形式を装っているに過ぎないものだ。それに、冠礼を笄礼に変更すると言っても不満が出なかったのだ。細かい点までは、誰もいちいち言いがかりはつけてこないだろうよ」
……確かに。最初から伝統に従い儀式を厳しく執り行うなら、冠礼を笄礼にしたいなんて話が出た時点で文句が出ていたに違いない。
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むしろ、王暁に普段から厳しいと言えるのは、父の王奕辰だと言っても過言ではないくらいである。
その王奕辰が良いと言うのだから、お墨付きを貰ったと言っても良いだろう。
王暁は、鄭貫明と視線を合わせて互いに頷いた後、満面の笑みを浮かべた。
「……父様! 感謝致します!」
王暁は、王奕辰に勢い良く抱きついた。
「……この王奕辰。可愛い息子のささかやな望みを無碍にするほど、薄情ではつもりだ」
王奕辰はそう言って、王暁をしっかりと抱きしめ返してくれた。
侍女は、簪の入った木の箱を鄭貫明に手渡した後、深くお辞儀をすると黙ってその場を辞した。他の侍女たちも彼女の後に続いて去って行く。
小さく王暁が礼を言うと、彼女たちの口角が僅かに上がった。
侍女の役目は、化粧と衣装の着付けまでだ。これ以降は、儀式が終わるまでは彼女たちと顔を合わせることはない。
「お父様、わたくしたちも……」
王藍洙がすかさずそう言うと、王奕辰は一瞬沈黙したが、まもなく小さく頷いた。
「……四半時後に迎えに来る」
王奕辰はそう言って踵を返した。
去り際、王藍洙が片目をまばたいて王暁に合図を送る。どうやら、二人きりになれるようにと気を遣ってくれたらしい。
(……姉様)
王暁は、お礼を言うつもりで微笑みながら小さく手を振った。本当によくできた気の利く姉である。
連れ立って歩いて行く二人を最後に見送った後、二人きりでその場に残された鄭貫明と王暁は、見つめ合いながらそっと互いの手を取った。
「……暁暁、本当に綺麗だ」
「グ、貫明……!?」
まじまじと上から下まで長々と見つめた後、感嘆した様子で鄭貫明 が言った。
褒めてくれるのは嬉しい。だが、改めて真正面から言われると少しだけ恥ずかしい。王暁の頬が熱を持つのが分かる。
「ねぇ。少し屈んでくれる?」
「ん」
王暁が視線を泳がせた後でそうお願いお願いすると、鄭貫明は小さく頷いて屈んでくれた。
その隙に背伸びをして、鄭貫明 の頬に一瞬だけちゅっと口付けをする。
これくらいなら、化粧も大丈夫な筈――。
「えへへっ」
してやったりと、悪戯っぽく笑う王暁 に鄭貫明は少し驚いて固まっていた。その姿を見て、可愛いなぁと、思わずほくそ笑む。
(俺、すごく幸せだ……!)
――鄭貫明と二人でいると、視界に映るもの耳に入るもの、すべてが愛おしく美しく見える。
これからも二人でいられるなら、誰かを憎むこともなく、他者の幸せを喜ぶ。そんな聖人にすらなれるに違いない。そんな風に錯覚してしまうくらいに、今の王暁は幸せだった。
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両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。
※ 本編完結済。他視点での話、継続中。
※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています
※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります
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※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
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本番なしなのもたまにはと思って書いてみました!
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