妖貴妃は曙光の先に桃源郷をこいねがう

宮沢ましゅまろ

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◾️はじまりの章

◾️001.はじまり

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 ――愛が憎しみに変わったのはいつだったろう。

「終わりだ」    
「っ」

 累々と死骸の連なる戦場で、宿敵、鄭貫明テイグァンミンによって、愛刀である双剣――麒麟の片割れを弾き飛ばされた王暁ワンシャオは、地面に片膝をついた。

 長く艶やかな黒髪を彩っていた、豪奢な髪飾りが、カランと地面に固い音を立てて落ちる。身に纏っていた真紅の衣は大きく破れ、高く結い上げられていた髪も酷く乱れていた。
 血を流しすぎたのだろう。王暁ワンシャオの顔からは、すっかりと血の気が引いていた。

 対する、鄭貫明テイグァンミンもまた、けっして浅くはない傷を負ってはいた。だが、細く華奢な体躯の王暁ワンシャオと、極めて屈強な肉体を誇る男鄭貫明テイグァンミンの差は大きかった。

 今にも地面に倒れ込みそうな王暁ワンシャオと違い、鄭貫明テイグァンミンは、己が二本の足でしっかりと大地を踏み締めている。二人の姿を比べて見れば、勝敗が既に決しているということは、明らかだった。

 長きに渡り、数多の者を殺戮せしめた稀代の罪人であり、鬼の首領――。妖貴妃ようきひ、それが王暁ワンシャオだ。王暁ワンシャオが率いる、かつて人々を恐怖のふちに震え上がらせた鬼の勢力は、長い年月の中で、徐々に力を削がれて衰えた。栄枯盛衰――鬼は人との戦に負けたのだ。

「……武器を捨てて投降しろ」
「っ。戯言を……っ!」

 鄭貫明テイグァンミンから見下ろされ、その抑揚の殆ど感じられない声を耳にした王暁ワンシャオは、吠えた。

「俺がここで引くと思うのか……っ。貴様らを全員殺し尽くすまで、俺は……っ……絶対にっ」

 燃えたぎるような怨嗟えんさの炎を黄金の瞳に激らせた王暁ワンシャオは、血を吐きながら地面に己が剣を突き立てる。投降など、ありえる筈がない。それなら……敗北を認めるくらいなら、真っ向から玉砕する方が良い。
 戦いの場で命を落とすこと自体はけっして恥ではないが、敗北を受け入れて敵に身柄を預けるなどという屈辱、高潔な王暁ワンシャオに耐えられる筈もない。
 何より、戦場で散っていった同胞たちに顔向けできないような恥ずべき選択をするつもりはなかった。

 しかし、王暁ワンシャオの返答は、鄭貫明テイグァンミンにとっては不可思議なものだったようだ。

「……お前は貴重な坤泽オメガだ。生き延びる道は用意されている。望めば恩赦も受けられるだろう。何故、自ら破滅の道へつき進む。復讐なんてやめて、お前は……自分の人生を歩むべきだ。勿論俺も協力する。だから……」

 そう言って差し出された鄭貫明テイグァンミンの手に、王暁ワンシャオは一瞬、虚をつかれたように目を大きく見開いた。

 ――この世には雌雄しゆうという性別以外に、乾元アルファ 、坤泽オメガ中庸ベータという三つの性別が第二の性として存在する。

 自らの身体的な性に関係なく、妊孕能を持つ者を妊娠させることが出来る乾元アルファ 、性別に関係なく妊孕能を持ち、妊娠することが可能な者を坤泽オメガ、それ以外の者が中庸ベータだ。

 鄭貫明テイグァンミン中庸ベータで、王暁ワンシャオ坤泽オメガだった。

 王暁ワンシャオは、鄭貫明テイグァンミンの言葉の意味をすぐには理解できなかった。

 だが、生き延びる道という言葉で何を示唆されているのか本当に分からないほどに、王暁ワンシャオ暗愚あんぐではない。

 乾元アルファ と坤泽オメガの子は、非常に優れた子が生まれると言われている。実際に歴史上名を馳せた帝や将軍は、乾元アルファ と坤泽オメガの子ばかりだ。
 その為、より優秀な子が生まれるようにと、坤泽オメガの嫁ぎ先は、通常自由には選ぶことは出来ず、大抵の場合は位の高い乾元アルファと番わせられることが多い。

 それすなわち、王暁ワンシャオには坤泽オメガ としてであれば、高位の乾元アルファ の番として、これからも生き残る道があるという意味に他ならなかった。

 ――そこに恋慕の情があろうとなかろうと、だ。

 王暁ワンシャオは、一瞬凄まじい形相を浮かべると、鄭貫明テイグァンミンの手を振り払った。

「ふざけるな……っ!」

 王暁《ワンシャオ》 は、鄭貫明テイグァンミンを貫くように睨め付けながら、低く押し殺した声で「おのれ、鄭貫明テイグァンミン!!」と叫び、剣を振り上げる。

 ――だが、その刃が鄭貫明テイグァンミンへと届くことはなかった。

「――っ!」

 一条いちじょうの矢が、王暁ワンシャオの胸を背後から射抜いたからだ。死角から放たれた矢は、何物にも阻まれることはなく、その背に真っすぐに突き刺さっていた。
 
 ここは戦場――。決して一対一の私闘ではない。首級を狙う者の気配に気付けなかったのは、王暁ワンシャオの失態だった。

暁暁シャオシャオ!!」

 自身の名を叫ぶ鄭貫明テイグァンミンの姿を視界の端に捉えながらも、王暁ワンシャオは、ゆっくりと後ろに倒れ込んだ。

 あまりにも情けない死に方だ。

 だが。
 これも天命だというのならば受け入れるしかない。
 それに……。

貫明グァンミン……」

 王暁ワンシャオは、小さく男の名前を呼んだ。

 宿敵。今でこそ、長い時間が二人を隔ててしまったが、かつて王暁ワンシャオ鄭貫明テイグァンミンは懇ろな仲だったこともあった。

(……あの頃は、幼なかったな)

 鬼に成り果てる前の昔の記憶が、走馬灯のように脳裏に蘇って来る。

 ――そう、まるで昨日のことのように。 




 ――鄭貫明テイグァンミンと初めて出会ったのは、王暁ワンシャオが八つの時のことだった。 
 鄭貫明テイグァンミンが父親に連れられて、王暁ワンシャオ の故郷である九寨溝きゅうさいこうにやって来た日だ。

鄭貫明テイグァンミンです」

 よく通る声を持った、幼子とはとても思えぬ大人びた少年に初対面で丁寧に拱手された王暁ワンシャオは、慌てて父――王奕辰ワンイーチェンの後ろに隠れた。

「これ、シャオ

 呆れたように王奕辰ワンイーチェンに諌められるも、王暁ワンシャオは左右に首を振りながら父の足にしがみつく。

「すまぬな。俊宇ジュンユー。この子はどうも気が弱いのだ」
「いえ。かまいませんよ。可愛らしい子ではないですか」

 点蒼派てんそうはの掌門で、王奕辰ワンイーチェンの親友の鄭俊宇テイジュンユーは、そう言って王暁ワンシャオに優しく微笑んだ。

 王暁ワンシャオは当時、他者と触れ合うことを極端に苦手としていた。

 その理由は、王暁ワンシャオに対する周囲からの執拗なからかいだ。

 第二の性が判明するまでの幼少期は、男女の区別なく育てられることになっている。乾元アルファであれば、女性であっても門派の頂に立ち、中庸ベータであればその下に仕える。滅多に生まれることはないが、坤泽オメガ乾元アルファと番になり、子孫を繁栄させること。
 それが武侠の世の常であり、理だ。

 王暁ワンシャオの父が掌門を務める門派である九寨派きゅうさいはは、九派に数えられる名門として乾元アルファを多数輩出する一族として知られていた。だが、王暁ワンシャオは周りの子供と比べて、横にも縦にも一回り小さかった。

 武術というのは、手足の長さが重要とされる。小柄であるほど、そして身体が軽ければ軽いほど不利なのだ。

 思うような成果が得られずに、上手くいかない時などは八つ当たりの標的にされて、軽くとはいえ、修行の内だと身体の大きな子供に殴られて蹴られる。そして。さも当然のように、揶揄われて泣かされる日々は、王暁ワンシャオを内向的な性格にさせた。

 正直なところ、王暁ワンシャオとしては、草花を摘んだり、編み物をする方が性にあっていた。しかし、武術を習うことは半ば義務だった為、拒否することは許されなかった。

 三つ年上の姉である王藍洙 ワンランズも周りの大人たちも、王暁ワンシャオを可愛がってはくれていた。
 だが、皆武術に対しては非常に勤勉で、けっして私情を挟まない人たちだったので、王暁ワンシャオには逃げ場というものがなかった。

 辛い幼少期だったといえるだろう。

 だが、王暁ワンシャオのそんな辛い日々も、鄭貫明テイグァンミンとの出会いによって終わりを告げた。

 何故なら、

暁暁シャオシャオに手を出すな」

 鄭貫明テイグァンミンが、そう言って王暁ワンシャオをことあるごとに庇ってくれるようになったからだ。

 当初 、王暁ワンシャオは 鄭貫明テイグァンミンの声が大きいところが少し苦手だったし、なぜ優しくしてくれるのかが理解できなかったので、出来る限り鄭貫明テイグァンミンから距離を置こうとした。

 そもそも子供は気まぐれだ。今は優しくしてくれても、いつ心変わりするとも限らない。だから、いくら父から「彼は成人までの間、うちで暮らすことになる。仲良くしなさい」と念を押されるように言われていたとしても、簡単に心を許す気には到底なれなかった。

 だが、王暁ワンシャオがどんなに卑屈な態度を取って遠ざけようとしても、鄭貫明テイグァンミンは我慢強く、けっして王暁ワンシャオの側から離れなかった。

 逃げる王暁ワンシャオに辛抱強く声をかけて、辿々しく話をしてもけっして怒らない。

 それどころか、まるで王暁ワンシャオをどこぞの姫君かのように大切に扱うのだ。

「泣くな」

 独りだけ除け者にされて泣いていると、花を差し出してくれる。転んでしまって歩けなくなってしまった時は背におぶってくれたし、嵐が来て怖くて部屋で泣いていると一緒に寝てくれた。

 ある時、どうしたら皆からこれ以上嫌われないですむと思う? と王暁ワンシャオが恐る恐る尋ねると、

「違う。皆、暁暁シャオシャオが可愛らしいから構うんだ。嫌ってるわけじゃない」
「……でも、すぐ俺のことを叩いてくるよ」
「子供というのは、そういう捻くれたことをするんだ」
「そうなの?」
「あぁ」

 鄭貫明テイグァンミンは優しくそう言ってくれた。

 戸惑っていたのは、本当に最初だけだった。

 鄭貫明テイグァンミンから向けられた純粋で分かりやすい好意。それはとても心地好くて甘かった。

 鄭貫明テイグァンミンは、少し無骨なところはあるが本当に優しい男だった。周りの同じ年頃の子供たちの中では誰よりも大きい身体の持ち主で、腕も立つ。
 同い年だが、王暁ワンシャオよりも精神的にも大人で我慢強く努力家。そんな男が、何の見返りも求めずにただ一途に甘やかし、守ってくれるのだ。嫌いになれる筈がない。

 気づけば 、いつの間にか王暁ワンシャオは彼のことが大好きになっていた。

「もうこれ以上歩けない!」
「……俺の背に乗れ」

 調子に乗った王暁ワンシャオが、ふてくされてそんな風に我儘を言っても、嫌な顔一つせずにしゃがんでくれる。その姿を見た大人からは「甘やかしすぎでは?」と言われていたが、鄭貫明テイグァンミンは常に王暁ワンシャオの味方だった。

 鄭貫明テイグァンミンは、どんな王暁ワンシャオでも受け入れてくれた。

 ―― 鄭貫明テイグァンミンが隣にいるだけで、王暁ワンシャオの世界は大きく変わってしまった。

 あんなに嫌だった武術の修行も苦にならなくなり、周りの子供たちとの関係も少しずつだが次第に好転していった。
 すべては鄭貫明テイグァンミンのおかげと言っても良い。

暁暁シャオシャオ。今日は毽子ジェンズをやろう」
「……うん!」

 差し出された鄭貫明テイグァンミンの手を、 王暁ワンシャオはぎゅっと力強く握った。

 鄭貫明テイグァンミンと幼い頃に過ごした日々は、 王暁ワンシャオにとっては、まさに光り輝くような宝物だった。
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