兄たちが溺愛するのは当たり前だと思ってました

不知火

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第1章

52.扉を挟んで

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 ノックをしてから仕事部屋のドアを開ける。
 ある意味生存確認。徹夜明けの朝の決まり事だ。

「誠ちゃん、おはよう。朝ご飯できてるよ」
 珠里は部屋の端っこのソファに突っ伏している誠也せいやに声を掛ける。仕事用デスクの上にズラリと並べられた完成原稿に視線を走らせ、どうやら今月も締め切りを守れたようだとホッとした。

「んー……。おかず、何?納豆ある?」
 寝ぼけまなこに寝ぐせのついた前髪。首だけ珠里の方を向けて、誠也は脱力したまま動こうとしない。
「あるよ。納豆も卵焼きも。ほら、寝るなら食べてシャワー浴びてからにして」
 珠里はTシャツにスウェットパンツ姿の誠也の腕を引っ張ってソファから立ち上がらせ、リビングへと連行する。
ダイニングテーブルの上には、炊きたてのご飯と出汁巻き卵、納豆、お漬物。それからインスタントのお味噌汁に、昨夜の残りの豚の生姜焼きが並べてある。出勤前の珠里が大急ぎで用意した朝食だ。

 椅子に腰を下ろした誠也は、大きなあくびをしながらダルそうに眼を擦っている。それでも食欲はあるようで、箸を手に取りさっそく納豆をかき混ぜはじめた。
 月刊誌に連載を抱えているので、毎月締め切り間際の誠也はこんな様子だ。異様な集中力で連日連夜仕事し、原稿を完成させた朝は廃人のようになっている。

 今時珍しく、誠也の原稿はすべて手描きだ。
 一時いっときデジタルに移行しようと試した時期もあったが、やはり紙に直接描くスタイルの方がしっくりくると言って、結局アナログに戻った。珠里は、誠也の原稿の緻密な美しさがとても好きだ。

 朝ご飯を食べたら、誠也はお風呂に入る。それから担当編集の野村が来るのを、眠いのを我慢しながら待つ。
 野村に原稿をチェックしてもらいOKが出れば、そこでようやく今月の仕事から解放される。野村が帰った後は、そのままベッドに直行だ。
 だいたい昼から寝始め、珠里が会社から帰る頃もまだ寝ている。起きてきて珠里と一緒に晩ご飯を食べることもあれば、気を失ったように朝まで眠っていることもある。
 そうして気が済むまでとことん睡眠を貪った翌日には、行きつけのジムに行けるくらい元気になっている。

 珠里が誠也と一緒に暮らすようになって、そろそろ11年。その間、誠也の仕事と生活パターンはほぼずっとこの調子だった。
 最初の頃、珠里はまだ小学生だったので、誠也のこういう極端な生活ぶりにひどく驚き、おっかなびっくり眺めている状態だった。だが今ではすっかり慣れてしまい、まるでこちらが母親のように日々の面倒を見ている。
 でも珠里に不満はない。誠也の世話を焼くのは珠里にとっては趣味のようなものだし、誠也がいなければ今頃珠里はまったく別の人生を歩んでいたはずだからだ。

「だんだん徹夜がきつくなるな。……年だな、もう」
 この前35歳の誕生日を迎えたばかりの男が、漬物をポリポリ齧りながら眠そうに言う。
 顔色が悪く、くたびれ果てた顔はたしかに憔悴しているけれど、ちゃんと顔を洗って身なりを整えれば誠也は普通の35歳より色男だ。仏頂面で眼つきが怖いのでとっつきにくくはあるが、野村の情報では出版社の女性陣にも誠也のファンが結構いるらしい。ただ、仕事の内容が内容なので、恵まれたルックスのわりに誠也は表立ってモテていないようだ。そして珠里はそのことに密かにホッとしている。

「生活パターンちょっと変えればいいのに。徹夜にならないように、もう少し早い段階からペン入れするとか」
「いや、分かってんだけどさ。こればっかりは長年の癖だしなぁ。追い詰められないとやらないタイプなんだよ、俺は」
「じゃあ締め切り前だけでもアシスタントさん、呼ぶとか。私は気にしないから大丈夫だよ?」
「他人と共同作業するの苦手なんだよ。自分のペースで全部やりたいし」
 知ってるだろ?と言わんばかりに、誠也がニヤリと笑いかけてきた。
 誠也は普段、アシスタントを使わない。ひどく体調を崩して自分一人ではどうにもならなかった時だけ数回呼んだことがあるが、逆にやりにくそうで終始イライラしていた。

「ヨーグルトあったっけ?」
 あっという間に食事を終えた誠也がお茶を啜りながら尋ねてくる。珠里は「あるよ」と答え、冷蔵庫から誠也の好きな「果実たっぷりヨーグルト」を出してやった。誠也はヨーグルト派で、珠里はプリン派だ。誠也はコンビニに行くと、珠里の好物のモンブランプリンをよく買ってきてくれる。

 珠里がこのマンションに来たばかりの頃は、食事はだいたい誠也が作ってくれた。と言っても男の料理なので簡単で大雑把なものが多かったし、仕事が立て込む時は出来合いで済ませることもよくあった。
 6年生になる頃から、少しずつ珠里が食事の支度をするようになった。もともと祖母に少し教わっていたので、ごく簡単なメニューならなんとか作れた。
 真面目にやり始めたら料理は結構面白かった。しかも誠也が意外に喜んで食べてくれたので、余計にやる気が出た。それで、中学に入る頃には食事の支度は完全に珠里の担当になった。
 この家に住まわせてもらい生活の面倒を見てもらっているのだから、せめてご飯を作ることで誠也に恩返ししたい。珠里はそう思って毎日食事を作り続けてきた。

 ただ最近はそのルーティンが乱れつつある。珠里がこの春短大を卒業し、一般企業に就職したからだ。
 仕事を終えて帰るとどうしても遅くなるので、夕飯をあまり作れなくなった。それで近頃は、仕事が詰まっていなければ誠也が簡単な料理をし、それ以外は珠里がお惣菜を買って帰ることが多くなった。
 もう大人同士なのだから食事はそれぞれ勝手にしてもいいのだが、なんとなくお互いに言い出せずにいる。

「あ、そうだ。今日私、同期の飲み会があるから帰り遅くなる。ごめんね、お腹すいたら冷凍庫にいろいろ入ってるから。あと、ラーメンもあるよ」
「おお。たぶん爆睡してるから食べないと思うけど。……て言うか、おまえの会社、やたら飲み会多いな」
 微妙に不服そうな顔で誠也が言う。在宅で仕事をしている誠也からすれば、ことあるごとに、やれ歓送迎会だ、売り上げ達成のお祝いだ、同期会だ、部の飲み会だと酒の席を設けたがる一般企業の習性が理解できないらしい。

「ね。こんなに飲み会が多いなんて予想外だった。……はぁぁ。めんどくさいなぁ」
「面倒なら断れよ。ろくに飲めないくせに」
「……でも、断ってばっかりだと人間関係に支障をきたすもん。会社って人脈が大事なんだよ」
「まあ、そうだろうけどさ。でも嫌々つきあうことはない。ほどほどにしとけよ。無理に飲まされて帰れなくなったらどうする」
「そ、そんなことにはならないよ」
「甘いな、珠里は。……あんまり隙を見せるなよ。20代前半の男なんて、飲み会では下心以外何もないぞ」
 そういう下心満載の若者向けに、エッチな漫画を描いているあなたが言いますか。
 珠里は心でそう呟きつつ味噌汁を啜った。誠也は一応珠里の身を心配してくれているのだ。その点に関しては、決して悪い気はしない。

「適当に切り上げて、早めに帰って来いよ。家まで送るなんて言う野郎は断れ。どうしても遅くなるなら、電話しろ。駅まで迎えに行くから」
「でも誠ちゃん、寝てるでしょ?」
「携帯鳴らせば起きるよ。そういうときは遠慮しなくていい」
「……分かった。そうならないよう、早く帰る」

 世間知らずの娘を心配する、過保護な父親みたいだ。それか、年の離れた妹に干渉する口うるさい兄貴。
 この心配が「男」としての感情ならいいのに。珠里はいつも胸の奥でこっそり思う。でも実際の誠也はそんな態度をちっとも表してくれないから憎らしい。

「大変、こんな時間!もう行かないと」
 珠里はお茶を飲み干して立ち上がった。急いで支度しないと電車に乗り遅れてしまう。
「茶碗、洗うからそのまま置いとけ。慌てて転ぶなよ」
「うん、ありがとう。ごめんね、よろしく!」
 珠里は慌てて洗面所に向かい、超特急で歯磨きを始めた。この後トイレを済ませ、メイクを直したら駅まで走る。

 誠也と朝食をとっていると、ついつい遅刻しそうになる。ちょっと憎まれ口を叩きつつ、ほんわりとした心地よい空気に甘えて時間を忘れてしまうのだ。
 珠里は「行ってきます!」と誠也に手を振り、大急ぎで家を出た。廊下を小走りに進み、ちょうどドアが閉まりかけていたエレベーターに乗り込んでホッと息をついた。

 入社して3か月経つのに、未だに会社員生活のリズムに慣れない。
 家で仕事している誠也を見て育ったせいかもしれない。10歳で引き取られてから、珠里の人生の軸はずっと誠也だった。基準になる人がああいう生活なので、自然と珠里も世の中の「普通」と感覚がずれて育ってしまった気がする。

 誠也しかいなかったのだ。頼れるのも支えてくれるのも、叱ってくれるのも受け止めてくれるのも。たったひとりの味方であり、保護者的存在でもあり。あの日、祖母が亡くなったときから、誠也だけが珠里の存在を肯定してくれる唯一の人だった。
 戸籍上は「いとこ同士」のままだ。でも誠也は珠里を「娘」か「妹」みたいに思っている。
「おまえはここから嫁に行けばいい」だなんて、冗談まじりに軽く言う。それでいて、珠里に悪い虫がつくことには神経質だ。あんなふうに監視の目を光らせていては、「妹」にまともな彼氏なんてできっこないと分かっているのだろうか。

 高校は共学だったが女子の方が多い学校で、珠里は2年間女子クラスだった。短大も当然女子のみ。誠也が学費を払って進学させてくれた。
 就職して、周りに年代の近い男の子たちが一気に増えたけれど、残念ながら珠里の心をときめかせるような出逢いは今のところない。

 今のところ、どころじゃない。この先もきっと、ないに違いない。
 珠里の心は、誠也にしか向いていないから。
 あの日、祖母の家の縁側で「俺んとこ来るか」と声をかけてくれた時から、珠里の心はずっと誠也だけに向けられているのだから。



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