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第二章 戦
さて、何て言おうか
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数ヶ月前、大多喜は上総中野、僕が相続させられた旧石工本家跡の敷地で、いつもの3人でキャンプした後の事。
''鮪のなまり節''が欲しいと、珍しい玉のおねだりに応えて、我が家市川は大多喜からはるか北にあるのに、わざわざ南に遠回りになる安房小湊の魚屋で貰ったアラ。
確かあれこれ苦労して工夫して美味しく頂いた筈が、何故か冷蔵庫の片隅から出て来た。
ふむ。
久しぶりの「浅葱の力」の暴走かな。
というか、僕が無意識のうちに欲しがったものとみえる。
何故なら、少し考え事をしたいので、手間暇のかかる仕事をしてみたかったから。
こう言う時の玉は有り難い。
僕が少し「おかしい」と思った時は、黙っていてくれる。
静かに空気を読んでくれる。
………
僕はわりかし短期な方だと思う。
と同時に、かなり気が弱くて人に気を遣う方だ。
僕はそういう人間だから、社会生活の中でイライラする事も多い。
かと言って、それを態度に出して、場の空気を悪くする方が、僕にはストレスになる。
そんな時、僕は何かに集中する。
他人のミスなら、黙ってやり直す。
どんなにイライラしていても、話しかけられれば快活に返事をする。
だから他人にはわからない。
他人にイライラするくらいなら、自分のスキルを上げて、セルフコントロールを心がける。
そんな僕をわかっているのは妹だけだった。
妹の生活は僕が支えていたけど、僕の精神は妹が支えてくれていた。
おかげで僕は壊れなかった。
あれだけ辛い10代を歩みながら。
壊れずに済んだ。
それを妹から教わった玉は、さっきから(多少オノマトペをむいむい口にしているけど)、隣の部屋で音のしないアイロンがけと縫い物を静かにしてくれている。
ダメだなぁ僕は。
庇護者に気を遣わす様じゃ。
でも今は甘えよう。
玉の優しさに。
では、晩御飯の準備だ。
ブリ・サバ・タイのアラは、圧力鍋で煮込む。
味醂醤油をたっぷり入れて、臭み消しの細切り生姜を乗せて。
匂い付けに、スライスニンニクを。
すりおろすとキツくなるから、生ニンニクを包丁でチップ状にした。
圧力鍋に火をかけている間に、大根・人参・里芋・蒟蒻を刻んで、豚コマと共に軽く鍋で炒めて焼き色を付けたら、そのまま鍋に出汁を張って弱火でコトコト煮込む。
菜箸をさして里芋に火が通ったのを確認したら、我が家お手製木綿豆腐を手で潰して一煮立ち。
勿論、大量の白ネギを刻んでおく事を忘れずに。
副菜は鴨大根にしようかな。
ブリ大根ならぬ鴨大根は、うちの父の得意料理だった。
鴨なんかどこで手に入れてきたんだか。
スーパーでたまに売っているのは見かけたけど、親父は定期的に調達して食べていた、我が家の味だ。
大根を適当な大きさ切り分け、牛蒡を笹掻きにして、鴨の肉と一緒に、味醂醤油で煮込むだけ。
このままだと魚のアラと味が被るけど、アラはまだまだ手間をかけるから平気。
キンキン金属音がなる、まともに買ったらお高そうな炭をじっくり温めた七輪で、煮込んだアラを炭火焼きにする訳です。
圧力鍋でガッツリ煮込んだので、骨や硬皮も柔らかく食べられる一品は、中の中の中まで味が染み込み、魚なのに醤油要らず。
辛い辛い大根おろしと和えるとご飯が進みます。
ついでにお酒も進みます。
さて、そのご飯にもひと工夫。
あらかじめグリルで焼いておいた赤尾鯛の身をほぐしまして。
こちらは利尻昆布をたっぷりジャーに敷き詰めて、ほぐれた赤尾鯛と共に炊けば、ほんのちょっぴり塩が香る鯛飯の出来上がり。
味が濃いめのおかずにも負けない、主張し過ぎないご飯の完成形では無かろうか。
という訳で。
今晩の献立は。
・鯛飯
・アラの煮焼き
・鴨大根
・ネギたっぷりのけんちん汁
の一汁三菜です。
そうか。
たまにはお酒も出すかな。
素面では言い難いしな。
なんて切り出そうかな。
★ ★ ★
玉ちゃんからメールが来た。
『殿の様子が変なので、元気に帰って来ないでください』
帰宅途中の、青砥駅のホームで私は首を傾げたよ。
元気に帰ってこないでって初めて読む日本語だよ、玉ちゃん。
菊地さんが変ねぇ。
あの人は多分私なんかじゃ測れない人だから、何かがあればどうにかなるんだろうけど。
玉ちゃんでも手に負えないって事なの?
私にメールが来ると言うのも珍しい。
前はね。私も玉ちゃんもあの人も、結構メールを交わしあったんだ。
私も玉ちゃんも、お互い伝えたい事が沢山あったから。
その伝えたい事って、大体あの人の事なんだけどね。
私があの人達の隣人になってからは、メールの数も減ったけど。
だって、私は自分の部屋には寝る為にしか使ってないもん。
いつも一緒に居て、なんでも話してるもん。
ご飯もお風呂もあの人の家でご馳走になっているし(お金を受け取ってもらえないし)、私が会社に行っている間、玉ちゃんは私の部屋の掃除も、私の汚れ物の洗濯もしてくれる。
私の下着とあの人の下着を、洗濯ハンガーに並べて干されてる事にもすっかり慣れた。
この間、私はあの人にプロポーズもした。
はぐらかされたけど、あれはあの人が無職である事を気にしての事だと思ってる。わかってる。気持ちは絶対通じてる。
私はそれこそ執念で、あの2人に食い付いた。食い込んだ。
高校の時に、あの2人と知り合ってから、あの人達と再会出来てから。
あの人とも、玉ちゃんとも、お母さんとも、大家さんとも、隣人の菅原さんとも相当仲良くなれた。
それでも、一日中隣に居る玉ちゃんでも、触れる事が出来ない部分がまだ沢山ある人なんだなぁ、あの人。
………
「お邪魔しまぁす。」
今日はまず自分の部屋に戻ってスーツを脱いだ。
お母さんとお揃いのピンクのスエットの部屋着に着替える。
改めてお隣さんへ。
これで外に出るのはちょっと寒い。
けど、外にいるのは数歩だ。
私はあの人の部屋に入る。
あ、お母さんというのは、玉ちゃんのお母さんのしずさんの事。
多分私は、実の母よりもお母さんが好きだ。
尊敬している。
私はああいう奥さんに、お母さんになりたい。
毎日常に思っている。
それで、肝心のあの人はというと………。
鍋の前で牛蒡を笹掻きにしていた。
物凄い集中力だ。私が部屋に入って来ても気が付かないみたい。
隣の居間から、玉ちゃんが手招きをしていた。
慌てて、でもそっと、台所と居間を仕切る曇りガラスの引き戸を閉めた。
玉ちゃんは更に奥の寝室に行くので、私も後に付いて襖を閉める。
「どうしちゃったの?」
「殿の顔から表情が無くなっちゃったんです。」
「何かあったの?」
「わかりません。玉は今日はお母さんの所にいましたから。ヤギの世話をしてました。殿は荼枳尼天様の方でお仕事されていた筈ですが、玉がお昼に帰って来た時にはああなってました。話しかけても上の空なんです。」
「…なんだろう、ね。」
あ。
こんな時には、私達には頼もしい味方がいるじゃん。
あの人に相談しよう。
あの人の上着を借りて、私は庭に出た。
幸いな事に、というか、玉ちゃんが余計な物音を立てないように雨戸を閉めないでおいてくれたので、置きっぱなしになっている私のクロックスを履いて。
チューリップがスクスクと育っている中を、あの人に聞こえない様に、なるべく隅まで歩いていく。
玉ちゃんも、とことこと着いてくる。
玉ちゃんのクロックスは、あの人のものを貰ったもの。
「殿のお下がりですよ。」
「玉がうちに来たその日に取られちゃったんだけどね。」
「殿のものは玉のものですから。」
「という訳で、我が家には小さなジャイアンがいます。」
「ジャイアンは玉より歳下で小さいですが。」
仲良いよねぇ。いつ見ても。
玉ちゃんは絶妙な距離感で、あの人に甘えている。
さてと。
私達の切り札さんに電話しよう。
繋がるかな?
『はいはい、妹ちゃんでママですよ』
「……ワンコールで出るとは思わなかった。」
『わんこなら、私の隣で寝てるわよ。』
「いや、そんなネットスラングをですね。」
『冗談だよ。たまたまスマホいじってたの。息子も室内犬もご飯を食べて寝ちゃったの。旦那様はまだ帰って来ないから暇してたとこ。』
「はぁ。」
そう。
あの人に対する最後の手段は、この人に相談する事だ。
私達が知らないあの人を、この人は隅から隅まで知っているから。
スマホをスピーカーモードに切り替えて、玉ちゃんに様子を伝えてもらった。
私が聞いた事と大差はない。
『なるほどね。だったら私から言えるのは一つだけかな。』
「はい。」
「はい。」
玉ちゃんと2人、思わずスマホに前のめりになる。
『ほっといていいよ。』
「は?」
「は?」
反応も玉ちゃんと一緒だった。
『あのね。兄さんってもの凄く勤勉な人で、もの凄く器用な人だけど、もの凄く不器用な人だよ。特に生き方が。』
「…なんとなくわかります。」
玉ちゃんがポツリと返事をした。
「殿はなんでも出来る方なので、なんでも1人で抱えがちです。」
そうね。そうだね。
「私達にも苦労を分けてくれても良いのにね。」
『何言ってるの。多分、貴女達の事で兄さんは悩んでるのよ。』
え?それは?
「私達、あの人を困らす様な事したかな?」
「結婚を急かした事でしょうか?」
『……聞き捨てならない言葉が玉ちゃんから聞こえたけど、多分それじゃ無いわ。』
そう言い切られると、ちょっと悲しいのですが。
『多分もっと深刻な事。だって結婚は、はいかいいえしかないでしょ。玉ちゃんは身体が戻ったし、佳奈ちゃんは今すぐ入籍しても問題はなし。』
そう言い切られると、ちょっとドキドキしますが。
「でも、あんな殿を見るのは初めてなのです。玉はどうしたらいいかわかりません。」
『年端も行かない女の子にそこまで心配させるとはけしからんなぁ。お説教しに行こうかしら。』
「わぁわぁ。それはちょっと。」
『うふふ、冗談よ。隣町って訳じゃないのに、赤ちゃんほったらかして、そうそう千葉まで行けません。』
「でも、私達はどうしたら良いの?」
困った。
私と言う女は、好きになった男のちょっとした日々の変化についていけない。
『そうね。うん。あのね。兄さんが鴨の料理か、辛子蓮根の料理を作ってたら大丈夫。それだけかな。』
また、突拍子も無い事を言い出した。
『兄さんが本当に不愉快な時は、どうでもいい人には逆に不自然に明るく振る舞うから。兄さんがそんな態度を取るのは貴女達だからなのね。貴女達に甘えてるの。私は兄さんのそんな姿、嫌と言う程見てきたから。』
『鴨の料理はお父さんの得意料理。お父さんは猟銃の資格を持っていて、自分でも撃って居たし、仲間とか業者から定期的に鴨肉を仕入れてたの。兄さんが厄介な趣味を受け継がない様に、私にしか教えてくれなかったけど。』
『辛子蓮根はお母さんがよく作ってたんだって。私は覚えがないけど、お父さんと兄さんが代わりに作ってくれた。』
『鴨と辛子蓮根は、我が家の味なの。何度も何度も作った我が家だけの味。』
『だから、兄さんは。何か深く考え事をする時は、わざとその料理を作るんだよ。それこそ考え事しながらでも、手の方が勝手に動くから。』
「そう言えば、今まで作った事ありませんね。辛子蓮根はあの時だけでしたし。」
「玉ちゃんがそう言うなら、そうなんだね。」
『良い?おふたりさん。今貴女達が見てるのは、兄さんの''素''だよ。兄さんが大切に想っている人にだけ見せる、何も飾らない兄さんの姿。だから、貴女達は兄さんを待ちなさい。兄さんに従いなさい。そうすれば、きっと良い方に事態は動くから。』
『兄さんのお嫁さんになりたいのなら、兄さんを信じなさい。ね。私の大切な未来の義理のお姉ちゃん達。』
私と玉ちゃんは、改めてお互いの顔を見つめ合った。
「人を好きになるって大変なんだね。」
「でも、玉は殿なら信じられますよ。」
「そうだね。うん。そうだね。」
''鮪のなまり節''が欲しいと、珍しい玉のおねだりに応えて、我が家市川は大多喜からはるか北にあるのに、わざわざ南に遠回りになる安房小湊の魚屋で貰ったアラ。
確かあれこれ苦労して工夫して美味しく頂いた筈が、何故か冷蔵庫の片隅から出て来た。
ふむ。
久しぶりの「浅葱の力」の暴走かな。
というか、僕が無意識のうちに欲しがったものとみえる。
何故なら、少し考え事をしたいので、手間暇のかかる仕事をしてみたかったから。
こう言う時の玉は有り難い。
僕が少し「おかしい」と思った時は、黙っていてくれる。
静かに空気を読んでくれる。
………
僕はわりかし短期な方だと思う。
と同時に、かなり気が弱くて人に気を遣う方だ。
僕はそういう人間だから、社会生活の中でイライラする事も多い。
かと言って、それを態度に出して、場の空気を悪くする方が、僕にはストレスになる。
そんな時、僕は何かに集中する。
他人のミスなら、黙ってやり直す。
どんなにイライラしていても、話しかけられれば快活に返事をする。
だから他人にはわからない。
他人にイライラするくらいなら、自分のスキルを上げて、セルフコントロールを心がける。
そんな僕をわかっているのは妹だけだった。
妹の生活は僕が支えていたけど、僕の精神は妹が支えてくれていた。
おかげで僕は壊れなかった。
あれだけ辛い10代を歩みながら。
壊れずに済んだ。
それを妹から教わった玉は、さっきから(多少オノマトペをむいむい口にしているけど)、隣の部屋で音のしないアイロンがけと縫い物を静かにしてくれている。
ダメだなぁ僕は。
庇護者に気を遣わす様じゃ。
でも今は甘えよう。
玉の優しさに。
では、晩御飯の準備だ。
ブリ・サバ・タイのアラは、圧力鍋で煮込む。
味醂醤油をたっぷり入れて、臭み消しの細切り生姜を乗せて。
匂い付けに、スライスニンニクを。
すりおろすとキツくなるから、生ニンニクを包丁でチップ状にした。
圧力鍋に火をかけている間に、大根・人参・里芋・蒟蒻を刻んで、豚コマと共に軽く鍋で炒めて焼き色を付けたら、そのまま鍋に出汁を張って弱火でコトコト煮込む。
菜箸をさして里芋に火が通ったのを確認したら、我が家お手製木綿豆腐を手で潰して一煮立ち。
勿論、大量の白ネギを刻んでおく事を忘れずに。
副菜は鴨大根にしようかな。
ブリ大根ならぬ鴨大根は、うちの父の得意料理だった。
鴨なんかどこで手に入れてきたんだか。
スーパーでたまに売っているのは見かけたけど、親父は定期的に調達して食べていた、我が家の味だ。
大根を適当な大きさ切り分け、牛蒡を笹掻きにして、鴨の肉と一緒に、味醂醤油で煮込むだけ。
このままだと魚のアラと味が被るけど、アラはまだまだ手間をかけるから平気。
キンキン金属音がなる、まともに買ったらお高そうな炭をじっくり温めた七輪で、煮込んだアラを炭火焼きにする訳です。
圧力鍋でガッツリ煮込んだので、骨や硬皮も柔らかく食べられる一品は、中の中の中まで味が染み込み、魚なのに醤油要らず。
辛い辛い大根おろしと和えるとご飯が進みます。
ついでにお酒も進みます。
さて、そのご飯にもひと工夫。
あらかじめグリルで焼いておいた赤尾鯛の身をほぐしまして。
こちらは利尻昆布をたっぷりジャーに敷き詰めて、ほぐれた赤尾鯛と共に炊けば、ほんのちょっぴり塩が香る鯛飯の出来上がり。
味が濃いめのおかずにも負けない、主張し過ぎないご飯の完成形では無かろうか。
という訳で。
今晩の献立は。
・鯛飯
・アラの煮焼き
・鴨大根
・ネギたっぷりのけんちん汁
の一汁三菜です。
そうか。
たまにはお酒も出すかな。
素面では言い難いしな。
なんて切り出そうかな。
★ ★ ★
玉ちゃんからメールが来た。
『殿の様子が変なので、元気に帰って来ないでください』
帰宅途中の、青砥駅のホームで私は首を傾げたよ。
元気に帰ってこないでって初めて読む日本語だよ、玉ちゃん。
菊地さんが変ねぇ。
あの人は多分私なんかじゃ測れない人だから、何かがあればどうにかなるんだろうけど。
玉ちゃんでも手に負えないって事なの?
私にメールが来ると言うのも珍しい。
前はね。私も玉ちゃんもあの人も、結構メールを交わしあったんだ。
私も玉ちゃんも、お互い伝えたい事が沢山あったから。
その伝えたい事って、大体あの人の事なんだけどね。
私があの人達の隣人になってからは、メールの数も減ったけど。
だって、私は自分の部屋には寝る為にしか使ってないもん。
いつも一緒に居て、なんでも話してるもん。
ご飯もお風呂もあの人の家でご馳走になっているし(お金を受け取ってもらえないし)、私が会社に行っている間、玉ちゃんは私の部屋の掃除も、私の汚れ物の洗濯もしてくれる。
私の下着とあの人の下着を、洗濯ハンガーに並べて干されてる事にもすっかり慣れた。
この間、私はあの人にプロポーズもした。
はぐらかされたけど、あれはあの人が無職である事を気にしての事だと思ってる。わかってる。気持ちは絶対通じてる。
私はそれこそ執念で、あの2人に食い付いた。食い込んだ。
高校の時に、あの2人と知り合ってから、あの人達と再会出来てから。
あの人とも、玉ちゃんとも、お母さんとも、大家さんとも、隣人の菅原さんとも相当仲良くなれた。
それでも、一日中隣に居る玉ちゃんでも、触れる事が出来ない部分がまだ沢山ある人なんだなぁ、あの人。
………
「お邪魔しまぁす。」
今日はまず自分の部屋に戻ってスーツを脱いだ。
お母さんとお揃いのピンクのスエットの部屋着に着替える。
改めてお隣さんへ。
これで外に出るのはちょっと寒い。
けど、外にいるのは数歩だ。
私はあの人の部屋に入る。
あ、お母さんというのは、玉ちゃんのお母さんのしずさんの事。
多分私は、実の母よりもお母さんが好きだ。
尊敬している。
私はああいう奥さんに、お母さんになりたい。
毎日常に思っている。
それで、肝心のあの人はというと………。
鍋の前で牛蒡を笹掻きにしていた。
物凄い集中力だ。私が部屋に入って来ても気が付かないみたい。
隣の居間から、玉ちゃんが手招きをしていた。
慌てて、でもそっと、台所と居間を仕切る曇りガラスの引き戸を閉めた。
玉ちゃんは更に奥の寝室に行くので、私も後に付いて襖を閉める。
「どうしちゃったの?」
「殿の顔から表情が無くなっちゃったんです。」
「何かあったの?」
「わかりません。玉は今日はお母さんの所にいましたから。ヤギの世話をしてました。殿は荼枳尼天様の方でお仕事されていた筈ですが、玉がお昼に帰って来た時にはああなってました。話しかけても上の空なんです。」
「…なんだろう、ね。」
あ。
こんな時には、私達には頼もしい味方がいるじゃん。
あの人に相談しよう。
あの人の上着を借りて、私は庭に出た。
幸いな事に、というか、玉ちゃんが余計な物音を立てないように雨戸を閉めないでおいてくれたので、置きっぱなしになっている私のクロックスを履いて。
チューリップがスクスクと育っている中を、あの人に聞こえない様に、なるべく隅まで歩いていく。
玉ちゃんも、とことこと着いてくる。
玉ちゃんのクロックスは、あの人のものを貰ったもの。
「殿のお下がりですよ。」
「玉がうちに来たその日に取られちゃったんだけどね。」
「殿のものは玉のものですから。」
「という訳で、我が家には小さなジャイアンがいます。」
「ジャイアンは玉より歳下で小さいですが。」
仲良いよねぇ。いつ見ても。
玉ちゃんは絶妙な距離感で、あの人に甘えている。
さてと。
私達の切り札さんに電話しよう。
繋がるかな?
『はいはい、妹ちゃんでママですよ』
「……ワンコールで出るとは思わなかった。」
『わんこなら、私の隣で寝てるわよ。』
「いや、そんなネットスラングをですね。」
『冗談だよ。たまたまスマホいじってたの。息子も室内犬もご飯を食べて寝ちゃったの。旦那様はまだ帰って来ないから暇してたとこ。』
「はぁ。」
そう。
あの人に対する最後の手段は、この人に相談する事だ。
私達が知らないあの人を、この人は隅から隅まで知っているから。
スマホをスピーカーモードに切り替えて、玉ちゃんに様子を伝えてもらった。
私が聞いた事と大差はない。
『なるほどね。だったら私から言えるのは一つだけかな。』
「はい。」
「はい。」
玉ちゃんと2人、思わずスマホに前のめりになる。
『ほっといていいよ。』
「は?」
「は?」
反応も玉ちゃんと一緒だった。
『あのね。兄さんってもの凄く勤勉な人で、もの凄く器用な人だけど、もの凄く不器用な人だよ。特に生き方が。』
「…なんとなくわかります。」
玉ちゃんがポツリと返事をした。
「殿はなんでも出来る方なので、なんでも1人で抱えがちです。」
そうね。そうだね。
「私達にも苦労を分けてくれても良いのにね。」
『何言ってるの。多分、貴女達の事で兄さんは悩んでるのよ。』
え?それは?
「私達、あの人を困らす様な事したかな?」
「結婚を急かした事でしょうか?」
『……聞き捨てならない言葉が玉ちゃんから聞こえたけど、多分それじゃ無いわ。』
そう言い切られると、ちょっと悲しいのですが。
『多分もっと深刻な事。だって結婚は、はいかいいえしかないでしょ。玉ちゃんは身体が戻ったし、佳奈ちゃんは今すぐ入籍しても問題はなし。』
そう言い切られると、ちょっとドキドキしますが。
「でも、あんな殿を見るのは初めてなのです。玉はどうしたらいいかわかりません。」
『年端も行かない女の子にそこまで心配させるとはけしからんなぁ。お説教しに行こうかしら。』
「わぁわぁ。それはちょっと。」
『うふふ、冗談よ。隣町って訳じゃないのに、赤ちゃんほったらかして、そうそう千葉まで行けません。』
「でも、私達はどうしたら良いの?」
困った。
私と言う女は、好きになった男のちょっとした日々の変化についていけない。
『そうね。うん。あのね。兄さんが鴨の料理か、辛子蓮根の料理を作ってたら大丈夫。それだけかな。』
また、突拍子も無い事を言い出した。
『兄さんが本当に不愉快な時は、どうでもいい人には逆に不自然に明るく振る舞うから。兄さんがそんな態度を取るのは貴女達だからなのね。貴女達に甘えてるの。私は兄さんのそんな姿、嫌と言う程見てきたから。』
『鴨の料理はお父さんの得意料理。お父さんは猟銃の資格を持っていて、自分でも撃って居たし、仲間とか業者から定期的に鴨肉を仕入れてたの。兄さんが厄介な趣味を受け継がない様に、私にしか教えてくれなかったけど。』
『辛子蓮根はお母さんがよく作ってたんだって。私は覚えがないけど、お父さんと兄さんが代わりに作ってくれた。』
『鴨と辛子蓮根は、我が家の味なの。何度も何度も作った我が家だけの味。』
『だから、兄さんは。何か深く考え事をする時は、わざとその料理を作るんだよ。それこそ考え事しながらでも、手の方が勝手に動くから。』
「そう言えば、今まで作った事ありませんね。辛子蓮根はあの時だけでしたし。」
「玉ちゃんがそう言うなら、そうなんだね。」
『良い?おふたりさん。今貴女達が見てるのは、兄さんの''素''だよ。兄さんが大切に想っている人にだけ見せる、何も飾らない兄さんの姿。だから、貴女達は兄さんを待ちなさい。兄さんに従いなさい。そうすれば、きっと良い方に事態は動くから。』
『兄さんのお嫁さんになりたいのなら、兄さんを信じなさい。ね。私の大切な未来の義理のお姉ちゃん達。』
私と玉ちゃんは、改めてお互いの顔を見つめ合った。
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