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第六章【テルミーグランマ】
第六章 その⑧
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「大丈夫? ナナシさん…」
階段を降りたタイミングで、皆月が口を開いた。
「目、痛いでしょう? 早く病院に行かないと…」
「ああ、うん」
僕は乾いた声で頷くと、なんとなく、右目に押し当てていたハンカチを外してみる。
当然、ハンカチは鮮血で真っ赤に染まっていて、頬を涙のような赤い液体が滑り落ちた。
「ほら、早く押さえて…」
皆月に言われて、すぐにハンカチを押し当てる。
道路に出ると、タクシーを捕まえて、最寄りの外科まで連れて行ってもらった。
幸い傷は浅く、眼球の損傷も無かったため、縫合ではなく、テープでの処置となった。案の定、保険証は使い物にならず、治療費は自己負担となった。
「早く名前、復元しないとな」
「こういうところで結構不便だね」
眼帯を着け、病院を出ることには、辺りは真っ暗。帰宅ラッシュも過ぎて、向かいの道路の交通量は少なめ。歩道にも人の気配は無かった。
「どうするの?」
皆月はそう言って、首を傾げた。
「おばあさんに、鍵、貰ったんでしょう?」
「うん」
僕は頷くと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
指が、鍵に触れる。
「場所も聞いた」
閼伽羽町の、A地区。
「行くの?」
「行こうか」
僕の過去を復元するための重要な情報が、もう目と鼻の先まで迫っている。これを後回しにする理由なんて見つからなかった。
今日中にその場所へ向かうことを決意した僕は、タクシーを探すべく、歩き出す。
皆月は特に反対する様子は見せず、僕の隣に並んで歩き始めた。だが、その横顔は気が気でないようだった。
「皆月、どうした?」
そう聞くと、彼女は少し驚いたような顔をして、言った。
「いや、大丈夫なの?」
「大丈夫…って?」
「その、ナナシさんの、お母さんの事」
「ああ…」
皆月は心配しているらしい。このまま、実家へ向かったとして、交通事故で死んだらしい母親について思い出した僕が、その精神を保つことができるのか。
「わからない…」
強がりを言っていられなかったので、僕は首を横に振った。
「でも、避けるわけにはいかないだろう?」
「それもそうだけど」
「それに、今のところ、怖くはないんだ。不安に思うことはあっても」
僕はそう言って、側頭部を、テレビを直すみたいに叩いた。
「僕はさっき、自分の母親が死んだこと、そして、自分の目の前で死んだってことを知った。だけどね、思ったほどショックは受けていないんだ」
それから、こめかみを爪で掻く。
「…なんて言えばいいんだろう? 思い当たる節が無い」
「思い当たる節が、ない?」
「うん。きっと、あのバス停であったおばさんが言っていたことも、ばあちゃんが言っていたことも、全部正しいんだと思う。きっと僕の母親は、交通事故で、僕の目の前で、死んだんだ。でもどういうわけか、僕の記憶を刺激するものがないんだよ。まるで、他人事を聞いているみたいに…。東条の時と同じ感覚だ」
皆月の眉間に皺が寄るのがわかった。
僕は肩を竦めた。
「僕の脳がボケているんだろうね。まだ、思い出すに至らない。幸いだよ。心の準備ができるんだからね。きっと、完全に思い出した時、ダメージは少ないと思うよ」
気を取り直し、僕は道の先を顎でしゃくる。
「だから、早く行こう。君だって、できるだけ早く僕の過去を復元したいだろ」
「まあ、そうね」
皆月は若干腑に落ちていないような顔をしていたが、止めるような真似はせず、僕の後に続いた。
「しかし、ばあちゃんはよくわからないな」
身体の力を抜いた僕は、祖母の悪態をつく。
「人目も憚らず、ギャーギャー叫んで」
「すごかったね、あれ」
「昔はもう少しマシだったような気がするんだけどね。やっぱ、歳を取ったら変わるものなのかな」
「昔はあんな風に怒鳴っていなかったんだ」
「うん、叫ぶとしても、近所迷惑にならない程度だったよ」
「それでも叫んでたんだ」
皆月は僕の苦い思い出を笑い飛ばした。
「大変だったね」
「ほんと」
僕も笑い飛ばして、頭を掻いた。
「修学旅行は行けなかった。金を出してくれなかったから。でも、学校を休むわけにはいかなかったから、その日は自習室で校長と勉強をした…。その後、滅茶苦茶揶揄われて…、凄く、惨めな気持ちになったな…」
新しく思い出したことを皆月に伝える。彼女はメモ帳を取り出しつつ、真摯に相槌を打ってくれた。
「どこに行く予定だったの?」
「東京」
「良い場所だ。行きたかったね」
「そうだね。当時は本当に、行きたくてたまらなかったんだ」
自分の手を覗き込む。
「浅草とか、東京タワーとか、国立博物館とか…」
「普通に、美味しいスイーツのお店も沢山あるだろうしね」
「でもまあ、友達もいなかったし、陰口叩かれながら歩くよりかは、自習室で勉強するほうが、よっぽど有意義だったかもしれないな…」
拳を握る。
「思い出した今では、惜しいとは思わないね。ただただ、惨めな思い出さ」
「じゃあ、消してあげるね」
皆月は穏やかな声でそう言って、メモ帳をぱたん…と閉じた。
悪戯っぽい目が、僕を見る。
「いざ、ナナシさんの過去を完全に復元した際には、消してあげる。おばあちゃんとの、嫌な日々も、修学旅行に行けなかった思い出も、同級生に虐められていたことも、全部、嫌な過去全部、消してあげるね」
「…ああ」
そうだったな…と思い、僕は頷いた。
「うん、消してくれ」
嫌な思い出全部。
「そして、残してくれるんだろう?」
良い思い出、全部。
皆月は頷くと、二、三歩、僕の前に躍り出た。ブレザーのスカートを翻し、振り返った彼女は、いつものように、悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「見つかると良いね」
「これから見つけに行くんじゃないか」
僕はそう言って、皆月に追いついた。
ポケットから、祖母から貰った鍵を取り出すと、彼女の鼻先に翳す。
「僕はこれから、肉親と一緒に暮らしていた家に向かうんだ。親は子を愛するものだぞ? 良い思い出が残っているに決まっているじゃないか」
そんなことはない。子に虐待をする親だっている。
そう反論してもよかったのだが、皆月は屈託のない笑みを浮かべて、頷いた。
「そりゃそうだね。きっと、あるよ。ナナシさんだけの、良い過去が」
そう言う顔を見て、僕は安堵する。
そして、挙げていた腕を下ろそうとした…その時だった。
「え…」
突如皆月が、驚嘆の声をあげた。
僕は固まり、彼女の顔を見る。
皆月は目を見開き、口を半開きにして、鼻先で揺れる鍵を見ていた。
「皆月? どうした? なんかあったのか?」
まるで魂が抜けたような顔に、なんだか怖くなって尋ねると、彼女は我に返ったような顔をした。
「ああ、いや、その…」
言い淀んだ後、僕が持っている鍵を掴んだ。
「その、この鍵がね」
「鍵?」
「鍵のキーホルダーが、綺麗だと思ったの。見とれていたんだよ」
「ああ?」
さっきから話が見えず、僕は眉間に皺を寄せつつ、鍵に付けられたキーホルダーを眺めた。
そのキーホルダーは雫のような形をしていて、表面にはラメが施されていた。街灯に照らすだけで、それは天の川のように輝く。材質はプラスチックのようだが意外に重く、指に吸い付くような重厚感があった。
何処で売っているんだろう、このキーホルダー。
いや、これ、何処かで見たことがあるぞ…。
記憶を巡らせようとしたとき、皆月が言った。
「凄く綺麗だと思ったの。だから、もっと詳しく見せてくれる?」
「ああ…」
考えるのを止めた僕は、皆月に鍵を渡そうとした。だが、キーホルダーを眺めるのに鍵は必要ないと考え、鍵から取り外し、ボールチェーンごと渡す。
「ほら」
「ありがと」
皆月が笑って受け取る。その笑顔に応えたくて、僕は言った。
「要らないから、やるよ。鞄に付けるなりなんなりしてくれ」
「え、いいの?」
皆月は驚いたような顔をした。だが、すぐに罪悪感に苛まれたような顔になる。
「でも、お母さんのものなのに、私が勝手に貰うわけには…」
「いや、いい。母さんは死んでるんだ」
あのキーホルダーがどこに売っているものなのかは気になったが、失くすのが惜しいと思うほどそそられたわけじゃない。皆月が綺麗だと言ってくれたのだから、彼女が持っておくべきだと思った。
「いや、死人の所有物は、嫌か」
「じゃあ、ありがたく貰うね」
皆月はにこりと笑うと、キーホルダーを握りしめた。
「ありがと」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
なぞる様に僕は言うと、前を向き直る。
「じゃあ、早くタクシー捕まえて、実家に向かおうか…」
「あ、そのことなんだけどね」
皆月が、僕の腕を掴んで引っ張った。
「やっぱり、また今度にしない? 私、もう歩き疲れちゃって」
「はあ?」
さっきまで行くのに賛成だったというのに、急にそんなことを言うものだから、僕は声を裏返すしかなかった。
「なんで。今日行こうよ」
「脚がパンパンなの」
皆月がお道化たように言うと、スカートの裾を摘まみ上げて、闇の中で映える白い太腿を見せた。何なら、パンツが見えてしまいそうなくらいに。
なんだかはしたない様な気がして、僕は皆月の腕を持ち、やんわりと下げる。
皆月はさらに続けて言った。
「それに、もう夜でしょう? 家の中、家の周りを探索するとして、暗かったら、動きにくいんじゃない?」
「……まあ、そうだけど」
ごもっともな意見を、僕は否定しなかった。
「でも、気になるから…」
「逸ったらダメだよ。明るくて、時間の余裕、体力の余裕がある時にやろう」
「うーん…」
まあ、そうだよなあ…とは思う。
確かに今から隣町まで移動したとして、真っ暗闇の中、心許ないライトを頼りに、実家の探索を行うのは現実的ではない。それに、昼間の電車の遅延、バスの乗り遅れ、一時間近い徒歩、そして、祖母との口論で、僕らの体力は底を尽きかけていた。
でも気になる。すぐにでも実家に向かって、僕の母の事とか、僕の幼少期とかの過去を探ってみたい気持ちに駆られていた。
「大丈夫だよ。時間はまだ一杯あるし」
僕を宥めあるべく、皆月は柔らかな声で言った。
「それに、早く復元に成功したら、私とナナシさん、もう関わることが無くなっちゃうよ?」
「え…」
心臓がドキリとして、僕は立ち止まるとともに、皆月の方を振り返っていた。
彼女は僕の顔を見て、にいっと笑う。すぐに、揶揄われているのだと気づいた。
「なんだよ、皆月」
馬鹿らしく思えて、僕はため息をつくしかなかった。
「別に、仕事が早く終わって、君との日々が終わったところで、惜しくとも何ともないぞ」
「あらそう?」
皆月は、依然として人をおちょくるような顔を崩さず、首を傾げた。
「私と別れちゃったら、ナナシさんの『良い過去』が、更新できなくなっちゃうよ?」
「…………」
その言い方に、僕は唇を結ぶ。
皆月は得意げに、己の胸に手を当てた。
「ナナシさんは今、『良い過去』を更新してるの」
「というと?」
「だってそりゃ、私みたいな可愛らしい女の子と、毎日一緒にいるんだよ? それは良い過去なんじゃないの?」
「いや…」
否定しきることが出来なかった。
「まあ、確かに、悪い気はしないけど…」
「だよね」
皆月は勝ち誇ったかのように笑うと、次の瞬間、僕に身を寄せた。彼女としては、『良い過去』とやらを体験させるためのスキンシップだったようだが、勢い余って、なんだかタックルされたような衝撃が僕を襲う。
とは言え、僕の身体が固くて、彼女の身体が柔らかいのだと、実感した瞬間だった。
「確かに良い過去だな」
身体が熱くなるのを感じた僕は、皆月の肩を掴み、そっと離れる。
「だけど皆月、僕が探している『良い過去』っていうのは、ナナシになってからの過去じゃない。ナナシになる前の過去だ」
「もちろん、それも探すよ」
皆月はそう返す。
「復元した過去の中で、良い過去は残す。悪い過去は消す。これが約束だね」
「そうだ」
「でも、別に、今更新され続けている『良い過去』だってあっていいでしょう? 良い過去ってのはね、何個あっても良いものなんだよ」
「……そうかな?」
「そうだよ」
そうして皆月は、また僕に身を寄せた。今度は、タックルなんかじゃない。より鮮明に彼女の身体の輪郭が感じられる、柔らかな力だった。
また一つ、僕の中で、新しい「良い過去」とやらが生まれた瞬間だった。
「ああ、もう…」
僕は観念した。
「わかったよ」
そう言って、皆月の手を握る。
皆月は僕の顔を覗き込むと、にやっと笑った後、手を握り返した。
良い過去は残す。悪い過去は消す。それが皆月との約束だ。でも、僕の過去を洗いざらい探ったとして、もしも、その『良い過去』とやらが何も見つからなかったのなら、この手の中にある温もりを、僕は『良い過去』だと言い張って、すべて忘れることになるのだろう。
「帰ろうか」
「うん、帰ろう」
二人で、歩き出した。
階段を降りたタイミングで、皆月が口を開いた。
「目、痛いでしょう? 早く病院に行かないと…」
「ああ、うん」
僕は乾いた声で頷くと、なんとなく、右目に押し当てていたハンカチを外してみる。
当然、ハンカチは鮮血で真っ赤に染まっていて、頬を涙のような赤い液体が滑り落ちた。
「ほら、早く押さえて…」
皆月に言われて、すぐにハンカチを押し当てる。
道路に出ると、タクシーを捕まえて、最寄りの外科まで連れて行ってもらった。
幸い傷は浅く、眼球の損傷も無かったため、縫合ではなく、テープでの処置となった。案の定、保険証は使い物にならず、治療費は自己負担となった。
「早く名前、復元しないとな」
「こういうところで結構不便だね」
眼帯を着け、病院を出ることには、辺りは真っ暗。帰宅ラッシュも過ぎて、向かいの道路の交通量は少なめ。歩道にも人の気配は無かった。
「どうするの?」
皆月はそう言って、首を傾げた。
「おばあさんに、鍵、貰ったんでしょう?」
「うん」
僕は頷くと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
指が、鍵に触れる。
「場所も聞いた」
閼伽羽町の、A地区。
「行くの?」
「行こうか」
僕の過去を復元するための重要な情報が、もう目と鼻の先まで迫っている。これを後回しにする理由なんて見つからなかった。
今日中にその場所へ向かうことを決意した僕は、タクシーを探すべく、歩き出す。
皆月は特に反対する様子は見せず、僕の隣に並んで歩き始めた。だが、その横顔は気が気でないようだった。
「皆月、どうした?」
そう聞くと、彼女は少し驚いたような顔をして、言った。
「いや、大丈夫なの?」
「大丈夫…って?」
「その、ナナシさんの、お母さんの事」
「ああ…」
皆月は心配しているらしい。このまま、実家へ向かったとして、交通事故で死んだらしい母親について思い出した僕が、その精神を保つことができるのか。
「わからない…」
強がりを言っていられなかったので、僕は首を横に振った。
「でも、避けるわけにはいかないだろう?」
「それもそうだけど」
「それに、今のところ、怖くはないんだ。不安に思うことはあっても」
僕はそう言って、側頭部を、テレビを直すみたいに叩いた。
「僕はさっき、自分の母親が死んだこと、そして、自分の目の前で死んだってことを知った。だけどね、思ったほどショックは受けていないんだ」
それから、こめかみを爪で掻く。
「…なんて言えばいいんだろう? 思い当たる節が無い」
「思い当たる節が、ない?」
「うん。きっと、あのバス停であったおばさんが言っていたことも、ばあちゃんが言っていたことも、全部正しいんだと思う。きっと僕の母親は、交通事故で、僕の目の前で、死んだんだ。でもどういうわけか、僕の記憶を刺激するものがないんだよ。まるで、他人事を聞いているみたいに…。東条の時と同じ感覚だ」
皆月の眉間に皺が寄るのがわかった。
僕は肩を竦めた。
「僕の脳がボケているんだろうね。まだ、思い出すに至らない。幸いだよ。心の準備ができるんだからね。きっと、完全に思い出した時、ダメージは少ないと思うよ」
気を取り直し、僕は道の先を顎でしゃくる。
「だから、早く行こう。君だって、できるだけ早く僕の過去を復元したいだろ」
「まあ、そうね」
皆月は若干腑に落ちていないような顔をしていたが、止めるような真似はせず、僕の後に続いた。
「しかし、ばあちゃんはよくわからないな」
身体の力を抜いた僕は、祖母の悪態をつく。
「人目も憚らず、ギャーギャー叫んで」
「すごかったね、あれ」
「昔はもう少しマシだったような気がするんだけどね。やっぱ、歳を取ったら変わるものなのかな」
「昔はあんな風に怒鳴っていなかったんだ」
「うん、叫ぶとしても、近所迷惑にならない程度だったよ」
「それでも叫んでたんだ」
皆月は僕の苦い思い出を笑い飛ばした。
「大変だったね」
「ほんと」
僕も笑い飛ばして、頭を掻いた。
「修学旅行は行けなかった。金を出してくれなかったから。でも、学校を休むわけにはいかなかったから、その日は自習室で校長と勉強をした…。その後、滅茶苦茶揶揄われて…、凄く、惨めな気持ちになったな…」
新しく思い出したことを皆月に伝える。彼女はメモ帳を取り出しつつ、真摯に相槌を打ってくれた。
「どこに行く予定だったの?」
「東京」
「良い場所だ。行きたかったね」
「そうだね。当時は本当に、行きたくてたまらなかったんだ」
自分の手を覗き込む。
「浅草とか、東京タワーとか、国立博物館とか…」
「普通に、美味しいスイーツのお店も沢山あるだろうしね」
「でもまあ、友達もいなかったし、陰口叩かれながら歩くよりかは、自習室で勉強するほうが、よっぽど有意義だったかもしれないな…」
拳を握る。
「思い出した今では、惜しいとは思わないね。ただただ、惨めな思い出さ」
「じゃあ、消してあげるね」
皆月は穏やかな声でそう言って、メモ帳をぱたん…と閉じた。
悪戯っぽい目が、僕を見る。
「いざ、ナナシさんの過去を完全に復元した際には、消してあげる。おばあちゃんとの、嫌な日々も、修学旅行に行けなかった思い出も、同級生に虐められていたことも、全部、嫌な過去全部、消してあげるね」
「…ああ」
そうだったな…と思い、僕は頷いた。
「うん、消してくれ」
嫌な思い出全部。
「そして、残してくれるんだろう?」
良い思い出、全部。
皆月は頷くと、二、三歩、僕の前に躍り出た。ブレザーのスカートを翻し、振り返った彼女は、いつものように、悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「見つかると良いね」
「これから見つけに行くんじゃないか」
僕はそう言って、皆月に追いついた。
ポケットから、祖母から貰った鍵を取り出すと、彼女の鼻先に翳す。
「僕はこれから、肉親と一緒に暮らしていた家に向かうんだ。親は子を愛するものだぞ? 良い思い出が残っているに決まっているじゃないか」
そんなことはない。子に虐待をする親だっている。
そう反論してもよかったのだが、皆月は屈託のない笑みを浮かべて、頷いた。
「そりゃそうだね。きっと、あるよ。ナナシさんだけの、良い過去が」
そう言う顔を見て、僕は安堵する。
そして、挙げていた腕を下ろそうとした…その時だった。
「え…」
突如皆月が、驚嘆の声をあげた。
僕は固まり、彼女の顔を見る。
皆月は目を見開き、口を半開きにして、鼻先で揺れる鍵を見ていた。
「皆月? どうした? なんかあったのか?」
まるで魂が抜けたような顔に、なんだか怖くなって尋ねると、彼女は我に返ったような顔をした。
「ああ、いや、その…」
言い淀んだ後、僕が持っている鍵を掴んだ。
「その、この鍵がね」
「鍵?」
「鍵のキーホルダーが、綺麗だと思ったの。見とれていたんだよ」
「ああ?」
さっきから話が見えず、僕は眉間に皺を寄せつつ、鍵に付けられたキーホルダーを眺めた。
そのキーホルダーは雫のような形をしていて、表面にはラメが施されていた。街灯に照らすだけで、それは天の川のように輝く。材質はプラスチックのようだが意外に重く、指に吸い付くような重厚感があった。
何処で売っているんだろう、このキーホルダー。
いや、これ、何処かで見たことがあるぞ…。
記憶を巡らせようとしたとき、皆月が言った。
「凄く綺麗だと思ったの。だから、もっと詳しく見せてくれる?」
「ああ…」
考えるのを止めた僕は、皆月に鍵を渡そうとした。だが、キーホルダーを眺めるのに鍵は必要ないと考え、鍵から取り外し、ボールチェーンごと渡す。
「ほら」
「ありがと」
皆月が笑って受け取る。その笑顔に応えたくて、僕は言った。
「要らないから、やるよ。鞄に付けるなりなんなりしてくれ」
「え、いいの?」
皆月は驚いたような顔をした。だが、すぐに罪悪感に苛まれたような顔になる。
「でも、お母さんのものなのに、私が勝手に貰うわけには…」
「いや、いい。母さんは死んでるんだ」
あのキーホルダーがどこに売っているものなのかは気になったが、失くすのが惜しいと思うほどそそられたわけじゃない。皆月が綺麗だと言ってくれたのだから、彼女が持っておくべきだと思った。
「いや、死人の所有物は、嫌か」
「じゃあ、ありがたく貰うね」
皆月はにこりと笑うと、キーホルダーを握りしめた。
「ありがと」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
なぞる様に僕は言うと、前を向き直る。
「じゃあ、早くタクシー捕まえて、実家に向かおうか…」
「あ、そのことなんだけどね」
皆月が、僕の腕を掴んで引っ張った。
「やっぱり、また今度にしない? 私、もう歩き疲れちゃって」
「はあ?」
さっきまで行くのに賛成だったというのに、急にそんなことを言うものだから、僕は声を裏返すしかなかった。
「なんで。今日行こうよ」
「脚がパンパンなの」
皆月がお道化たように言うと、スカートの裾を摘まみ上げて、闇の中で映える白い太腿を見せた。何なら、パンツが見えてしまいそうなくらいに。
なんだかはしたない様な気がして、僕は皆月の腕を持ち、やんわりと下げる。
皆月はさらに続けて言った。
「それに、もう夜でしょう? 家の中、家の周りを探索するとして、暗かったら、動きにくいんじゃない?」
「……まあ、そうだけど」
ごもっともな意見を、僕は否定しなかった。
「でも、気になるから…」
「逸ったらダメだよ。明るくて、時間の余裕、体力の余裕がある時にやろう」
「うーん…」
まあ、そうだよなあ…とは思う。
確かに今から隣町まで移動したとして、真っ暗闇の中、心許ないライトを頼りに、実家の探索を行うのは現実的ではない。それに、昼間の電車の遅延、バスの乗り遅れ、一時間近い徒歩、そして、祖母との口論で、僕らの体力は底を尽きかけていた。
でも気になる。すぐにでも実家に向かって、僕の母の事とか、僕の幼少期とかの過去を探ってみたい気持ちに駆られていた。
「大丈夫だよ。時間はまだ一杯あるし」
僕を宥めあるべく、皆月は柔らかな声で言った。
「それに、早く復元に成功したら、私とナナシさん、もう関わることが無くなっちゃうよ?」
「え…」
心臓がドキリとして、僕は立ち止まるとともに、皆月の方を振り返っていた。
彼女は僕の顔を見て、にいっと笑う。すぐに、揶揄われているのだと気づいた。
「なんだよ、皆月」
馬鹿らしく思えて、僕はため息をつくしかなかった。
「別に、仕事が早く終わって、君との日々が終わったところで、惜しくとも何ともないぞ」
「あらそう?」
皆月は、依然として人をおちょくるような顔を崩さず、首を傾げた。
「私と別れちゃったら、ナナシさんの『良い過去』が、更新できなくなっちゃうよ?」
「…………」
その言い方に、僕は唇を結ぶ。
皆月は得意げに、己の胸に手を当てた。
「ナナシさんは今、『良い過去』を更新してるの」
「というと?」
「だってそりゃ、私みたいな可愛らしい女の子と、毎日一緒にいるんだよ? それは良い過去なんじゃないの?」
「いや…」
否定しきることが出来なかった。
「まあ、確かに、悪い気はしないけど…」
「だよね」
皆月は勝ち誇ったかのように笑うと、次の瞬間、僕に身を寄せた。彼女としては、『良い過去』とやらを体験させるためのスキンシップだったようだが、勢い余って、なんだかタックルされたような衝撃が僕を襲う。
とは言え、僕の身体が固くて、彼女の身体が柔らかいのだと、実感した瞬間だった。
「確かに良い過去だな」
身体が熱くなるのを感じた僕は、皆月の肩を掴み、そっと離れる。
「だけど皆月、僕が探している『良い過去』っていうのは、ナナシになってからの過去じゃない。ナナシになる前の過去だ」
「もちろん、それも探すよ」
皆月はそう返す。
「復元した過去の中で、良い過去は残す。悪い過去は消す。これが約束だね」
「そうだ」
「でも、別に、今更新され続けている『良い過去』だってあっていいでしょう? 良い過去ってのはね、何個あっても良いものなんだよ」
「……そうかな?」
「そうだよ」
そうして皆月は、また僕に身を寄せた。今度は、タックルなんかじゃない。より鮮明に彼女の身体の輪郭が感じられる、柔らかな力だった。
また一つ、僕の中で、新しい「良い過去」とやらが生まれた瞬間だった。
「ああ、もう…」
僕は観念した。
「わかったよ」
そう言って、皆月の手を握る。
皆月は僕の顔を覗き込むと、にやっと笑った後、手を握り返した。
良い過去は残す。悪い過去は消す。それが皆月との約束だ。でも、僕の過去を洗いざらい探ったとして、もしも、その『良い過去』とやらが何も見つからなかったのなら、この手の中にある温もりを、僕は『良い過去』だと言い張って、すべて忘れることになるのだろう。
「帰ろうか」
「うん、帰ろう」
二人で、歩き出した。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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