僕の名は。~my name~

バーニー

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第六章【テルミーグランマ】

第六章 その⑦

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「それで、もう一つ教えてほしいことがあるんだ! そいつを聞いたら、もう帰るよ! もう二度と、ばあちゃんの前に姿は現せない!」
 そう前置きをし、核心に迫る。
「僕の母さんは」
 どうして死んだのか…。
 そう言おうとした、その時だった。
「うるさい!」
 掠れた声で叫んだ祖母が、上目遣いに僕を睨む。次の瞬間、玄関の隅…。傘立てに差してあった黒い傘を掴むと、まるで刀を抜くが如く、引っ張った。
 ギラリと、薄暗い玄関に、銀色の弧が描かれる。
 それは稲妻のような勢いで迫って来て、次の瞬間には、僕の右目に激突した。
 ザクリ…と、鋭い何かが、肉を抉るような感触。
「うわっ!」
 悲鳴を上げた僕は、祖母を突き飛ばし、自分は後退った。
 思わず右目を押さえる。
「ナナシさん!」
 僕の異変に、傍観していた皆月が駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫? 何されたの?」
 右目…よりも少し上がジンジンと痛んでいる。でも、既知の痛みだ。
「大丈夫、多分…」
 僕は強がるようにそう言うと、顔を上げる。そして、両目でしっかりと皆月の顔を見たわけだが、彼女のその顔は、何か恐ろしいものを見た後のように引きつっていた。
 僕の眼球に、熱くて赤い液体が滑り込んでくるのは、ほぼ同時だった。
「な、ナナシさん、目、目! 瞼!」
「え…」
 そう言われて、己の手を覗き込む。
 右目を押さえていた僕の掌が、真っ赤な鮮血で汚れていたのだ。
「あ…」
 反射的に目に触れようとしたところを、皆月が止めた。
「ダメ、瞼が裂けてる!」
「あ、ああ…」
 身体から血の気が引いていくのが分かった。
 ふと振り返ると、祖母が玄関の前で立ちつくしていた。あれだけ僕を罵倒し、陥れるべく叫びまくっていた姿は何処へやら。コンクリートに滴る鮮血を目の当たりにして、まるで人を殺した後のように震えている。
 握った黒傘を落として、言った。
「わ、私のせいじゃないぞ…、お前が私を怒らせるから…」
「ああ、うん…、そうだね」
 面倒くさくなって、僕は頷いた。
「じゃあ、警察行って、病院行って、帰ることにするよ…」
 いや、今の僕には名前が無いのだから、警察に行ったところでややこしいことになるだけだろうか…。
 だが、祖母を脅すには十分の言葉だったようで、自棄になったように言った。
「ああ、もう! わかったよ! お前の話を聞けばいいんだろう? 早く用を言っておくれ!」
「…さっきからずっと言ってるじゃないか…」
 皆月がポケットから取り出したハンカチを、僕の右目に押し当てる。
 左目で祖母を睨むと、僕は言った。
「僕の母さんは、どうして死んだんだっけ? 忘れちゃったんだ…」
 改めて聞くと、祖母は眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をした。
「どうして、死んだ…だと?」
「うん。恥ずかしい話…、最近、物忘れが激しくてね。母さんが死んだってことは憶えてるんだけど、どうして死んだのか、わからなくて…」
「い、いや…」
 その時、僕は祖母の身に起こった異変に気づいた。
 見開かれた目が激しく泳ぎ、呼吸が浅く、肩が激しく上下している。額の辺りにも冷や汗をかいていた。いやまあ、叫んでいた時、僕の身を傷つけた時から、その兆候はあったのだが、僕から「母」の話を出された途端、一層激しくなったような気がした。
 ごくり…と、祖母が唾を飲み込む音がする。
「お前の母親の話をするのは結構だ。私も、面倒ごとは避けたいからね」
 その割には、叫びまくって、傘で人の目を傷つけたんだな…。
「だが、お前、今まで母親のことになんて全く興味を示さなかったじゃないか。てっきり、冷たいガキに育ったのだと思っていたが、どうして今更、そんなことを私に聞きに来たんだ?」
 その言い方に、僕はまた違和感を覚えた。
 今まで、母親のことなんて全く興味を示さなかった…だと?
「さっきから、言っている意味がわからないんだけど」
「私もわからん」
 祖母は口元を歪めながら、首を横に振った。
「別に、嫌味で言っているわけじゃないぞ。お前は、私の家に越してきたときから、母親のことなんて全く口にしていなかったし、それについて聞いてみれば、まるで母親なんていなかったかのように振舞っていたじゃないか。てっきり私は、あの出来事が原因で、記憶がすっぽ抜けたと思っていた」
「……あの出来事?」
 その出来事が気になる。
 早く言ってくれ…とでも言うように、身を乗り出す。
「だから私は、お前の心を抉ってやろうと、話の中で度々、お前の母親の話を持ち出して、散々に罵倒してやったんだ」
 おい。
「なのにお前は涼しい顔をして、淡々と受け流しやがった…。だから、母親には興味が無いと思った。それなのに、なぜ今更…、私の新しい家まで出向いて、そんなことを聞く…」
 祖母の呼吸が、また逸っていくのがわかった。
「やはり、お前、私を馬鹿にしに来たのか? 子どもの面倒もまともに見れないバカ娘を育てた、私を馬鹿にしに来たのか?」
「なんでそう言う話になるんだよ」
 話が脱線しそうになったので、慌てて宥める。そう言えば、昔から祖母は、感情的になると突拍子もない妄想をして話を拗らせることが多々あったな…。
 目の感覚が段々と消え失せていくのがわかった。まずいことが起こる前に、僕は泣きそうになりながら絞り出した。
「当時の僕がどうだったかはどうでもいいんだ。とにかく、僕の母親がどうして死んだのかを教えてほしい。あと、当時住んでいた家を教えてほしい。それだけを聞いたら帰るんだ。本当に…」
 祖母は眉間に皺を寄せ、ぎりぎりと歯を食いしばっていた。黄ばんだ歯だった。
 とにかく僕の言うことを聞くのが嫌なようで、でも、僕に怪我を負わせたことは大事にしたくない。これ以上、騒ぎは起こしたくない。そんな葛藤が見て取れる顔だった。
 僕は最後のひと押しをする。
「わかったよ。じゃあ、皆月、警察に…」
「後悔するなよ」
 祖母は坂道を転がる様に言った。
「お前の母親は、事故死だよ。車に撥ねられて死んだんだ」
「……」
 いざ、祖母の口から放たれる、「母の死」。
 それを聞いた瞬間、胸の辺りに、焼けるような、凍り付くような、奇妙な熱が広がった。
 驚きはしなかった。若くして死んだんだからな…、むしろ当然と言える。それに、さっきバス停で会ったおばさんも似たようなことを言っていた。
「その、どこで、撥ねられたんだ?」
「お前が住んでいた家があるだろう? 坂を下って行ったところにある道路だ。急な飛び出しだったから、十中八九自殺だろう。全く、精神の弱い娘を持って、情けない限りさ…」
「僕の家は、何処にあったんだ?」
 続けざまにそう聞くと、祖母はまた、何か引っかかるような顔をした。
「お前、自分が住んでいた家の場所もわからないのか?」
「…うん」
「馬鹿なんだね。社会に迷惑をかける前に死んだ方が良いよ」
 いちいち嫌味を言うから、話が進まなくて、イライラした。
「お前の家は…、閼伽羽町の、A区にあったよ。小高い山があっただろう? 名前は黒明山。あそこの坂道を登っていけば、ぼろぼろの家があっただろう…」
 閼伽羽町か。やはり、あのおばさんの証言と一致する。
「住所は? もっと詳しい住所」
 食い入るようにして聞くと、祖母は盛大な舌打ちをした。
「三丁目五番地だ」
 なるほど、威武火市閼伽羽町A地区三丁目五番地か。
「ったく、あんな不気味なところに住むから、ああなるん…」
 言いかけて、祖母は固まった。そして、踵を返し、家に入っていこうとする。
 僕が呼び止めようとすると、すかさず言った。
「馬鹿だね。逃げるわけじゃないよ」
 祖母は、廊下を進んだ先にある扉を開け、入っていってしまった。しばらく、何かを動かすような物音がした後、戻ってくる。
 祖母は何かを握っていた。
 僕と目が合うや否や、その握っていた何かを、僕に向かって放る。
 弧を描きながら飛んできたそれは、床に当たって跳ね、僕の爪先まで転がってきた。
「…あ」
 それは、銀色の鍵だった。穴にボールチェーンが通されて、薄紅色で、雫型のキーホルダーが付いている。何処の鍵かはわからない。でも、話の流れ的に、なんとなく気づいた。
「これって…」
「お前が前に住んでいた家の鍵さ。そのくらいわかれ、このぼんくら」
「………」
 祖母は僕と距離を保ったまま、顎をしゃくった。
「母親が死んだ後のいざこざで、不動産屋に返す機会をすっかり失ってな、ずっと私の手にあった。忌々しいんだ。とっとと持って帰っておくれ」
「…う、うん」
 僕は急くように頷き、鍵に手を伸ばした。
「もっとも、扉の錠は交換されているだろうけどな。そもそも、もう他の人間が住んでいるだろう? 今更あそこに行って何をするのかは知らないが、馬鹿なことはしないことだな」
 祖母が早口で言う。
「…いや、お前が豚箱にぶち込まれる方が良いのか…」
「別に、あそこに行くとは言ってないだろう…」
 僕はそう言いながら鍵を拾い上げ、「興味が無い」…とでも言うように、鍵の全容を眺める前にポケットに突っ込んだ。
 用が済んだので、約束通り踵を返し、歩き出そうとする。
 だが、あることを思い出し、首だけで振り返った。
「…最後にもう一つ、いいかな?」
「なんだ。さっさと帰れ、このうすのろ」
「僕の母さんの名前は、なんていうんだっけ?」
「…………」
 祖母の目が、一瞬思考を巡らせたことを、僕は見逃さなかった。
 口を開けて、「あー」と洩らした祖母は、肩を竦め、それから馬鹿にするように鼻で笑う。
「無駄死にした娘の名前なんて、いちいち憶えてないよ」
「…そう」
 想定していた答えで、逆に笑えてくる。
「じゃあ、帰るね」
「もう二度と来るな。さっさと野垂れ死んでろ」
 別れ際、最後の最後まで、祖母の口から放たれる言葉は、僕の胸に突き刺さっていったのだった。
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