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第六章【テルミーグランマ】
第六章 その⑥
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西に傾いた日が、山際を赤くなぞっていた。昼間、あれだけ滞留していた陽気は何処かへと去って、皮膚を舐めるような寒気がやってくる。
再び祖母のアパートを訪れた僕は、階段を上り、扉の前に立った。
「ナナシさん、大丈夫?」
再三、皆月は僕の様子を心配していた。
「顔、ずっと青いよ?」
「だろうな…」
自分でもわかっている。視界がぼんやりとして、インフルエンザに罹った時のように関節がキイキイと軋んでいた。
「でも、ばあちゃんに話を聞かないことには、過去の復元は進まないだろ?」
顔を挟みこむようにして叩き、気合を入れた。
無理やりニヤリと笑い、皆月の方を見る。
「大丈夫だよ。もう十分、ばあちゃんには嫌われているんだ。今更何を言われようが変わらんよ」
「その割には泣きそうな顔してるのね」
皆月もまた、にやりと笑う。
「まあ、ここまで来たんだから、当たって砕けようか」
「砕けたくはないな」
次の瞬間、僕は勢いに身を任せ、インターフォンを押していた。キンコーン…と、扉の奥で音がする。それから、身体を緩慢に動かすような、人の気配。
ドアスコープ越しに確認されて、開ける前から拒否をされてもいけないので、僕は扉から離れた。
人の気配が、扉の前までやってくる。
十秒ほどの沈黙。次の瞬間、ガチャリ…と無機質な音がして、扉が開いた。
顔を出したのは、当然祖母だった。少し離れていたところに立っている僕を見るなり、ぎょっとした顔をする。
「…お前!」
「ごめん、ばあちゃん…」
僕は苦笑を浮かべる。
祖母は僕のことを嫌っていたけど、毎日、小言罵声侮蔑は飽きずに放っていた。きっと今回だって、わざわざやってきた獲物を前にして、すぐに扉を閉じるような真似はしないと思った。
そして、その思惑は的中する。
「この野郎!」
一瞬にして沸点に達した祖母は、皺塗れの拳で扉を殴った。
「帰ったはずじゃなかったのか! また戻ってきやがって!」
「やっぱり、引けない事情があるんだ」
僕は祖母を宥めるように言った。
「ばあちゃん、僕の母さんの話だけど…」
「うるさい! 帰れ!」
祖母は玄関にあったサンダルを掴むと、僕に向かって放り投げてきた。
一直線に飛んできたサンダルは、僕の額に命中する。大した痛みじゃなかったけど、心臓が握りつぶされるかのような屈辱が沸き上がった。
「ばあちゃん、落ち着いて…」
祖母との距離を詰めるべく、一歩踏みだす。
すかさず、祖母は扉を引いて閉めようとした。
慌てて手を伸ばし、扉の端を掴む。止めきれず挟まれ、指に鈍い激痛が走った。
「いった…」
苦痛に顔を歪める僕を見て、祖母は何を思ったのか、また扉を開けた。
僕は反射的に、また扉に手を伸ばす。
祖母は一瞬ニヤリと笑うと、再び扉を勢いよく閉めた。
そうはさせまい…と、僕は足を滑らせ、靴を扉に挟みこんだ。
激痛が走るけれど、耐えられる痛み。そのまま扉の縁を掴み、強引に開ける。
「ばあちゃん…」
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!」
言いかけた次の瞬間、祖母は天井を仰ぎ、ひび割れるような悲鳴を上げた。
僕の皮膚に、鳥肌が走る。
「ば、ばあちゃ…」
「助けてええええええっ! 不審者です! 不審者! 強盗でええええええっすっ!」
そこで僕は、祖母がせんとしていることに気づいた。
「ちょ、ちょっと…」
鳴り響く目覚まし時計を布団に突っ込むときのように、祖母の腕を掴む。
「さ、叫ぶの…」
「助けてぇええええええええええええっ! 助けてええええええええええええええっ! 殺される! 人殺しいいいいいいっ!」
僕の言葉を遮って、祖母の声はさらに甲高いものへと変わった。
祖母は叫びながら、一瞬目を動かし、僕の方を見る。
その「知性」を感じさせる所作に、僕のこめかみの辺りが痙攣するのがわかった。
「この…」
腕に熱いものが走り、祖母の腕を掴む力が強まる。
「いい加減にしてくれよ! 話が終わったらすぐに帰るんだ! もうそういう…」
「離せ!」
祖母は僕の手を払い除けようと、急に冷静になった様子で腕を振るった。だが、流石に、老婆の力じゃ僕には勝てない。抑え込む。
「ばあちゃん、いい? 聞いてくれよ?」
「うるさいうるさい!」
聞きたくない…とでも言うように、首を横に振る祖母。
次の瞬間には、また甲高い声で叫び始めた。
「いやあああああああっ! 助けてええええええええええっ! 殺されるうううううっ! 不審者に殺されるうううううううっ!」
そこで、僕の怒りも頂点に達した。
息を大きく吸い、肺を膨らませると、喉が破裂せんばかりの声で叫ぶ。
「僕の! 母さんの! 話!」
目には目を歯には歯をってやつだった。
「ばあちゃん! 知ってるんだろ! 僕の! 母さんが! どんな人だったか!」
「いやあああああああああああっ! 助けてええええええええええ!」
「僕の母さんの話が聞きたいんだよ!」
「殺されるうううううううううううううううううっ!」
夕闇が迫り一日の終わりを予感させる風が吹き始めた頃、閑静な住宅地に、狂人の声が響き渡る。片方が大きくなれば、もう片方も大きくなり、もう片方が大きくなれば、片方も大きくなる。まるで警察が来るまでのチキンレースだった。
先に限界が来たのは、祖母の方だった。
「こ、ころされ…」
どうやら肺に残った空気を使い切ったようで、途端に、胸を押さえて俯く。
次の瞬間には、喉に痰でも絡まっているかのような、痛々しい咳が祖母の口から放たれた。
これ幸い…と、僕は一気に捲し立てる。
「僕の母さんがどんな人間だったのか! 僕は昔どこに住んでいたのか! 僕の父さんは今どこにいるのかを教えてほしい!」
祖母の反応は無い。ただひたすらに、胸を押さえて咳き込んでいる。
「それで、もう一つ教えてほしいことがあるんだ! そいつを聞いたら、もう帰るよ! もう二度と、ばあちゃんの前に姿は現せない!」
再び祖母のアパートを訪れた僕は、階段を上り、扉の前に立った。
「ナナシさん、大丈夫?」
再三、皆月は僕の様子を心配していた。
「顔、ずっと青いよ?」
「だろうな…」
自分でもわかっている。視界がぼんやりとして、インフルエンザに罹った時のように関節がキイキイと軋んでいた。
「でも、ばあちゃんに話を聞かないことには、過去の復元は進まないだろ?」
顔を挟みこむようにして叩き、気合を入れた。
無理やりニヤリと笑い、皆月の方を見る。
「大丈夫だよ。もう十分、ばあちゃんには嫌われているんだ。今更何を言われようが変わらんよ」
「その割には泣きそうな顔してるのね」
皆月もまた、にやりと笑う。
「まあ、ここまで来たんだから、当たって砕けようか」
「砕けたくはないな」
次の瞬間、僕は勢いに身を任せ、インターフォンを押していた。キンコーン…と、扉の奥で音がする。それから、身体を緩慢に動かすような、人の気配。
ドアスコープ越しに確認されて、開ける前から拒否をされてもいけないので、僕は扉から離れた。
人の気配が、扉の前までやってくる。
十秒ほどの沈黙。次の瞬間、ガチャリ…と無機質な音がして、扉が開いた。
顔を出したのは、当然祖母だった。少し離れていたところに立っている僕を見るなり、ぎょっとした顔をする。
「…お前!」
「ごめん、ばあちゃん…」
僕は苦笑を浮かべる。
祖母は僕のことを嫌っていたけど、毎日、小言罵声侮蔑は飽きずに放っていた。きっと今回だって、わざわざやってきた獲物を前にして、すぐに扉を閉じるような真似はしないと思った。
そして、その思惑は的中する。
「この野郎!」
一瞬にして沸点に達した祖母は、皺塗れの拳で扉を殴った。
「帰ったはずじゃなかったのか! また戻ってきやがって!」
「やっぱり、引けない事情があるんだ」
僕は祖母を宥めるように言った。
「ばあちゃん、僕の母さんの話だけど…」
「うるさい! 帰れ!」
祖母は玄関にあったサンダルを掴むと、僕に向かって放り投げてきた。
一直線に飛んできたサンダルは、僕の額に命中する。大した痛みじゃなかったけど、心臓が握りつぶされるかのような屈辱が沸き上がった。
「ばあちゃん、落ち着いて…」
祖母との距離を詰めるべく、一歩踏みだす。
すかさず、祖母は扉を引いて閉めようとした。
慌てて手を伸ばし、扉の端を掴む。止めきれず挟まれ、指に鈍い激痛が走った。
「いった…」
苦痛に顔を歪める僕を見て、祖母は何を思ったのか、また扉を開けた。
僕は反射的に、また扉に手を伸ばす。
祖母は一瞬ニヤリと笑うと、再び扉を勢いよく閉めた。
そうはさせまい…と、僕は足を滑らせ、靴を扉に挟みこんだ。
激痛が走るけれど、耐えられる痛み。そのまま扉の縁を掴み、強引に開ける。
「ばあちゃん…」
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!」
言いかけた次の瞬間、祖母は天井を仰ぎ、ひび割れるような悲鳴を上げた。
僕の皮膚に、鳥肌が走る。
「ば、ばあちゃ…」
「助けてええええええっ! 不審者です! 不審者! 強盗でええええええっすっ!」
そこで僕は、祖母がせんとしていることに気づいた。
「ちょ、ちょっと…」
鳴り響く目覚まし時計を布団に突っ込むときのように、祖母の腕を掴む。
「さ、叫ぶの…」
「助けてぇええええええええええええっ! 助けてええええええええええええええっ! 殺される! 人殺しいいいいいいっ!」
僕の言葉を遮って、祖母の声はさらに甲高いものへと変わった。
祖母は叫びながら、一瞬目を動かし、僕の方を見る。
その「知性」を感じさせる所作に、僕のこめかみの辺りが痙攣するのがわかった。
「この…」
腕に熱いものが走り、祖母の腕を掴む力が強まる。
「いい加減にしてくれよ! 話が終わったらすぐに帰るんだ! もうそういう…」
「離せ!」
祖母は僕の手を払い除けようと、急に冷静になった様子で腕を振るった。だが、流石に、老婆の力じゃ僕には勝てない。抑え込む。
「ばあちゃん、いい? 聞いてくれよ?」
「うるさいうるさい!」
聞きたくない…とでも言うように、首を横に振る祖母。
次の瞬間には、また甲高い声で叫び始めた。
「いやあああああああっ! 助けてええええええええええっ! 殺されるうううううっ! 不審者に殺されるうううううううっ!」
そこで、僕の怒りも頂点に達した。
息を大きく吸い、肺を膨らませると、喉が破裂せんばかりの声で叫ぶ。
「僕の! 母さんの! 話!」
目には目を歯には歯をってやつだった。
「ばあちゃん! 知ってるんだろ! 僕の! 母さんが! どんな人だったか!」
「いやあああああああああああっ! 助けてええええええええええ!」
「僕の母さんの話が聞きたいんだよ!」
「殺されるうううううううううううううううううっ!」
夕闇が迫り一日の終わりを予感させる風が吹き始めた頃、閑静な住宅地に、狂人の声が響き渡る。片方が大きくなれば、もう片方も大きくなり、もう片方が大きくなれば、片方も大きくなる。まるで警察が来るまでのチキンレースだった。
先に限界が来たのは、祖母の方だった。
「こ、ころされ…」
どうやら肺に残った空気を使い切ったようで、途端に、胸を押さえて俯く。
次の瞬間には、喉に痰でも絡まっているかのような、痛々しい咳が祖母の口から放たれた。
これ幸い…と、僕は一気に捲し立てる。
「僕の母さんがどんな人間だったのか! 僕は昔どこに住んでいたのか! 僕の父さんは今どこにいるのかを教えてほしい!」
祖母の反応は無い。ただひたすらに、胸を押さえて咳き込んでいる。
「それで、もう一つ教えてほしいことがあるんだ! そいつを聞いたら、もう帰るよ! もう二度と、ばあちゃんの前に姿は現せない!」
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