僕の名は。~my name~

バーニー

文字の大きさ
上 下
71 / 75
第六章【テルミーグランマ】

第六章 その⑥

しおりを挟む
 西に傾いた日が、山際を赤くなぞっていた。昼間、あれだけ滞留していた陽気は何処かへと去って、皮膚を舐めるような寒気がやってくる。
 再び祖母のアパートを訪れた僕は、階段を上り、扉の前に立った。
「ナナシさん、大丈夫?」
 再三、皆月は僕の様子を心配していた。
「顔、ずっと青いよ?」
「だろうな…」
 自分でもわかっている。視界がぼんやりとして、インフルエンザに罹った時のように関節がキイキイと軋んでいた。
「でも、ばあちゃんに話を聞かないことには、過去の復元は進まないだろ?」
 顔を挟みこむようにして叩き、気合を入れた。
 無理やりニヤリと笑い、皆月の方を見る。
「大丈夫だよ。もう十分、ばあちゃんには嫌われているんだ。今更何を言われようが変わらんよ」
「その割には泣きそうな顔してるのね」
 皆月もまた、にやりと笑う。
「まあ、ここまで来たんだから、当たって砕けようか」
「砕けたくはないな」
 次の瞬間、僕は勢いに身を任せ、インターフォンを押していた。キンコーン…と、扉の奥で音がする。それから、身体を緩慢に動かすような、人の気配。
 ドアスコープ越しに確認されて、開ける前から拒否をされてもいけないので、僕は扉から離れた。
 人の気配が、扉の前までやってくる。
 十秒ほどの沈黙。次の瞬間、ガチャリ…と無機質な音がして、扉が開いた。
 顔を出したのは、当然祖母だった。少し離れていたところに立っている僕を見るなり、ぎょっとした顔をする。
「…お前!」
「ごめん、ばあちゃん…」
 僕は苦笑を浮かべる。
 祖母は僕のことを嫌っていたけど、毎日、小言罵声侮蔑は飽きずに放っていた。きっと今回だって、わざわざやってきた獲物を前にして、すぐに扉を閉じるような真似はしないと思った。
 そして、その思惑は的中する。
「この野郎!」
 一瞬にして沸点に達した祖母は、皺塗れの拳で扉を殴った。
「帰ったはずじゃなかったのか! また戻ってきやがって!」
「やっぱり、引けない事情があるんだ」
 僕は祖母を宥めるように言った。
「ばあちゃん、僕の母さんの話だけど…」
「うるさい! 帰れ!」
 祖母は玄関にあったサンダルを掴むと、僕に向かって放り投げてきた。
 一直線に飛んできたサンダルは、僕の額に命中する。大した痛みじゃなかったけど、心臓が握りつぶされるかのような屈辱が沸き上がった。
「ばあちゃん、落ち着いて…」
 祖母との距離を詰めるべく、一歩踏みだす。
 すかさず、祖母は扉を引いて閉めようとした。
 慌てて手を伸ばし、扉の端を掴む。止めきれず挟まれ、指に鈍い激痛が走った。
「いった…」
 苦痛に顔を歪める僕を見て、祖母は何を思ったのか、また扉を開けた。
 僕は反射的に、また扉に手を伸ばす。
 祖母は一瞬ニヤリと笑うと、再び扉を勢いよく閉めた。
 そうはさせまい…と、僕は足を滑らせ、靴を扉に挟みこんだ。
 激痛が走るけれど、耐えられる痛み。そのまま扉の縁を掴み、強引に開ける。
「ばあちゃん…」
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!」
 言いかけた次の瞬間、祖母は天井を仰ぎ、ひび割れるような悲鳴を上げた。
 僕の皮膚に、鳥肌が走る。
「ば、ばあちゃ…」
「助けてええええええっ! 不審者です! 不審者! 強盗でええええええっすっ!」
 そこで僕は、祖母がせんとしていることに気づいた。
「ちょ、ちょっと…」
 鳴り響く目覚まし時計を布団に突っ込むときのように、祖母の腕を掴む。
「さ、叫ぶの…」
「助けてぇええええええええええええっ! 助けてええええええええええええええっ! 殺される! 人殺しいいいいいいっ!」
 僕の言葉を遮って、祖母の声はさらに甲高いものへと変わった。
 祖母は叫びながら、一瞬目を動かし、僕の方を見る。
 その「知性」を感じさせる所作に、僕のこめかみの辺りが痙攣するのがわかった。
「この…」
 腕に熱いものが走り、祖母の腕を掴む力が強まる。
「いい加減にしてくれよ! 話が終わったらすぐに帰るんだ! もうそういう…」
「離せ!」
 祖母は僕の手を払い除けようと、急に冷静になった様子で腕を振るった。だが、流石に、老婆の力じゃ僕には勝てない。抑え込む。
「ばあちゃん、いい? 聞いてくれよ?」
「うるさいうるさい!」
 聞きたくない…とでも言うように、首を横に振る祖母。
 次の瞬間には、また甲高い声で叫び始めた。
「いやあああああああっ! 助けてええええええええええっ! 殺されるうううううっ! 不審者に殺されるうううううううっ!」
 そこで、僕の怒りも頂点に達した。
 息を大きく吸い、肺を膨らませると、喉が破裂せんばかりの声で叫ぶ。
「僕の! 母さんの! 話!」
 目には目を歯には歯をってやつだった。
「ばあちゃん! 知ってるんだろ! 僕の! 母さんが! どんな人だったか!」
「いやあああああああああああっ! 助けてええええええええええ!」
「僕の母さんの話が聞きたいんだよ!」
「殺されるうううううううううううううううううっ!」
 夕闇が迫り一日の終わりを予感させる風が吹き始めた頃、閑静な住宅地に、狂人の声が響き渡る。片方が大きくなれば、もう片方も大きくなり、もう片方が大きくなれば、片方も大きくなる。まるで警察が来るまでのチキンレースだった。
 先に限界が来たのは、祖母の方だった。
「こ、ころされ…」
 どうやら肺に残った空気を使い切ったようで、途端に、胸を押さえて俯く。
 次の瞬間には、喉に痰でも絡まっているかのような、痛々しい咳が祖母の口から放たれた。
 これ幸い…と、僕は一気に捲し立てる。
「僕の母さんがどんな人間だったのか! 僕は昔どこに住んでいたのか! 僕の父さんは今どこにいるのかを教えてほしい!」
 祖母の反応は無い。ただひたすらに、胸を押さえて咳き込んでいる。
「それで、もう一つ教えてほしいことがあるんだ! そいつを聞いたら、もう帰るよ! もう二度と、ばあちゃんの前に姿は現せない!」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

如月さんは なびかない。~片想い中のクラスで一番の美少女から、急に何故か告白された件~

八木崎(やぎさき)
恋愛
「ねぇ……私と、付き合って」  ある日、クラスで一番可愛い女子生徒である如月心奏に唐突に告白をされ、彼女と付き合う事になった同じクラスの平凡な高校生男子、立花蓮。  蓮は初めて出来た彼女の存在に浮かれる―――なんて事は無く、心奏から思いも寄らない頼み事をされて、それを受ける事になるのであった。  これは不器用で未熟な2人が成長をしていく物語である。彼ら彼女らの歩む物語を是非ともご覧ください。  一緒にいたい、でも近づきたくない―――臆病で内向的な少年と、偏屈で変わり者な少女との恋愛模様を描く、そんな青春物語です。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

処理中です...