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第六章【テルミーグランマ】
第六章 その① 2018年 7月4日
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【二〇一八年 七月四日】
天気予報では、今年の梅雨は長引く…なんて言っていたけれど、実際降ったのは三日くらいで、後は分厚い雲が鎮座し一週間が過ぎた。六月の下旬に入る頃には、その雲も晴れて、サイダーを傾けた青空が広がる様になっていた。
とろけるような暑さ。
僕は平気…というか耐えられるのだが、皆月が「働きやすい環境を整えろ」とうるさいので、クーラーのスイッチを入れて、温度を十六度まで下げる。すると、天井のエアコンからキンキンに冷えた風が吹き出始めた。
さすがに寒いので、ウインドブレーカーを羽織る。
丁度その時、扉が開いて皆月が入ってきた。
「おはよう、ナナシさん」
「おはよう、皆月」
なんて、いつもの挨拶。
ローファーを脱いで部屋に上がった彼女は、ぶるりと身震いをして、顔をしかめた。
「なに? 寒いんだけど」
「君が暑い暑いとうるさいからだ」
「限度があるのよ」
部屋に入ってきた彼女は、僕からリモコンをひったくり、温度を十八度まで上げた。
「これでよし」
「皆月の限度は随分と低いんだな」
僕は白けた顔で言うと、ウインドブレーカーのファスナーを閉めた。
「朝ごはん食べたの?」
「まだ」
「じゃあ、トーストで」
「トーストしか置いてないじゃん」
冷凍庫から凍ったパンを二枚取り出すと、バターを塗って焼いた。
軽くお腹を満たした後は、過去の復元に取り掛かる。と行きたかったのだが、不意に皆月がこんなことを言った。
「埃臭い」
「臭いか?」
そうとは思わず、僕は腕を組んで首を傾ける。
皆月は眉間にしわを寄せると、鼻を摘まんだ。
「窓閉めてるから特に。エアコンも掃除してないんじゃないの? カビの臭いが混じってる。私の肺が腐ったらどうするの」
「ああー」
確かに、記憶を辿ってみたが、掃除をした覚えがない。
「ごめん。またやっておくよ」
「すぐにやりなさい」
皆月に脇腹を蹴られ、僕は部屋の掃除に取り掛かることにした。
「手伝ってくれ」
「何で私が」
皆月は唇を尖らせたが、協力してくれた。
まず、窓と扉をいっぱいに開けて、空気の入れ替え。ついでにベランダに布団を干した。
不安定な椅子に足を掛け、エアコンの前面パネルを外す。現れたのは、真っ黒に汚れたフィルターだった。
埃が落ちないよう、そっと取り外す。皆月は「汚い汚い」と言いながらも受け取ってくれて、それを風呂場へと持って行った。
椅子から降りた僕は、風呂場へと向かい、フィルターに水を掛けて、汚れを洗い落とした。水が滴るそれは、ベランダに洗濯ばさみを使って干しておけば、三十分としないうちに乾いた。
「よし、取り付けるか」
「え、掃除ってそれだけでいいの?」
皆月が顔をくしゃりと歪める。
僕は首をかしげる。
「フィルター以外に何処を掃除しろって?」
「内部」
「内部って、素人でも掃除していいのか?」
「さあ?」
皆月は照れたように笑い、肩を竦めた。
「ああ、でも、良く売ってるじゃん、エアコンの内部を掃除するスプレーみたいなの」
「ああ…、そう言えばあるな」
心当たりがあった僕は、手をぽんっと叩いた。
「しかも、買った覚えがある」
「あるの?」
「というか、何処かで見た覚えがあるな。確か…、押し入れ」
エアコンの下のある、押し入れの扉を開ける。
樟脳の臭いが充満する狭い空間に身体をねじ込むと、夏服が入った段ボール箱、文庫本の収納ケース、ガラクタ入れの順に取り出した。これらの箱の中身は、過去の復元に当たって全て把握済みだった。
ガラクタ入れの段ボール箱を開けた。
中に入っていたのは、もう読まなくなった小説や、ジュースを買った時についてきたキーホルダー、朽ちかけた消しゴムに、間違えて買ってしまった〇・三ミリのボールペンなど、もう用済みではあるが、捨てるには勿体ないと思ったガラクタが詰め込まれていた。
皆月の言う、エアコンの内部クリーナーは、一番上に置いてあった。開封はされておらず、まだフィルムに覆われている。
「あったあった…」
僕はそれだけを掴んで引っ張り出すと、段ボール箱を閉じた。
目的のものは手に入れたので、箱を取り出した順に戻そうとしたのだが、その時、鼻の奥がむず痒くなり、僕は盛大にくしゃみをする。
僕は口を拭い、押し入れの中を見た。
「ついでに掃除するか」
くしゃみの原因は、十中八九、押し入れから漏れ出た埃だった。
「皆月、雑巾濡らして持ってきて」
「何で私が」
皆月はぶつぶつと言いながらも、台所へと向かい、雑巾を濡らして戻ってきた。
雑巾を受け取った僕は、また押し入れに入り、その奥に積もった埃を拭いていく。とはいえ、薄暗くて、ちゃんと綺麗になっているのかわからなかった。
鼻の奥がムズムズする。
「ああ、もう…」
耐えられなくなり、鼻を啜ると共に、顔を顰めた。
その時だった。
押し入れの床板を拭う雑巾に、何かが引っかかるような感触がした。
なんだろう…? と思い、ふと視線を落とした瞬間、僕は小さな悲鳴をあげて跳びあがる。その拍子に、中板に後頭部を打ち付けた。
ゴツン! と鈍い音。
「え、ちょっと、大丈夫? 何やってんの?」
「大丈夫…」
僕は頭を抑えながら言うと、改めて雑巾に引っ掛かっていたものを見た。
「ゴキブリかと思った…」
だが、それは何かの鍵だった。長さは五センチくらいで、朽ちかけたキーカバーに覆われている、謎の鍵だ。何の鍵だろう?
とりあえず、僕はそいつを摘まみ上げて、押し入れから出る。
窓から差し込む光に照らして、その全貌を眺めた。しかし、不親切にもその鍵には、何処の鍵であるかは書かれていない。だが、この軽さ、この小ささ、そして、押し入れの中で実に半年近く眠っていた辺り、重要なものの鍵ではないように思えた。
「なにそれ」
皆月が僕の手元を覗き込む。
「鍵? 何処の?」
「さあ…。押し入れの奥にあった」
皆月は横から手を伸ばし、鍵を摘まみ上げた。
「小さいのね。すぐに折れちゃいそう」
「ああ、うん…」
何の鍵か。まあ、大方、僕に関連する鍵だよな。
記憶を辿ってみたが、思い当たる節が無く、僕は鼻で笑った。
「なんの鍵だと思う?」
「私に聞かないで…」
皆月はそう言いかけたが、次の瞬間、何かを思い出したかのように、「あ!」と声をあげた。
「もしかして、引き出しの鍵じゃない?」
「え?」
そう言われて、僕もあのことを思い出し、「あ」と声をあげた。
二人同時に、振り返る。
そこには、机があった。年季の入った学習机で、いたるところにぶつけてできた傷がついている。その右側の引き出しには、小さな鍵穴がついていたのだ。
以前、部屋を探索していた際に、ここだけ鍵が掛かって開けることが出来なかった。そして、「そのうち開くだろう」と高を括って、以来忘れていた引き出しだった。
皆月が机に歩み寄り、持っていた鍵をその鍵穴に差し込む。
捻った瞬間、カタン…と、何かが下りるような音がした。
「あ…」
「あ…」
二人同時に、顔を見合わせる。
「この引き出しの鍵だったの?」
「みたいだな…」
何故あんな押し入れの奥に置いてあったのか?
沸き上がった疑問は置いておいて、僕はノブを掴むと、居眠りするライオンの隣を歩くかのように、そろりそろりと引っ張った。
軽い感触ともに、開かれる引き出し。
二人同時に、中を覗き込む。
「なにこれ」
そう呟いたのは、皆月だった。
遅れて僕も、「なんだこれ…」と洩らす。
だだっ広い引き出しの中にあったのは、一枚の封筒だった。ただそれだけだ。どうやら僕に宛てられた手紙のようで、表面に、アパートの住所と、認識不能な文字が並んでいる。
大きな引き出しを、たった一枚の封筒が占領している異様な光景に、皆月は手を泳がせ、掴むべきかどうか迷っていた。
僕は身震いをしつつ、手を伸ばしてそれを掴む。
裏返すと、そこには、送り主の名前と住所が書いてあった。
『大場純子』
消印は、九か月前の、二〇一七年十月十八日。
「おおば、じゅんこ?」
皆月が声を震わせた。
「なにこれ。誰からの…?」
「さ、さあ…」
そう言ったものの、後頭部に、痺れるような感覚があった。何かを思い出す感覚だ。
全身の皮膚が粟立って、本能的に、これは嫌な記憶であると悟った。そんなこといつものことなのだから、構わず思い出してしまえばよかったのだが、僕は反射的に封筒を落として、それを阻止していた。
「ナナシさん?」
皆月が何かに怯えたような顔で僕を見る。
「大丈夫? もしかして、また何か思い出しそうなの?」
「ああ、まあ、うん。でも大丈夫」
息を吸い込むと、改めて封筒を掴む。
「開けてみよう」
封筒の口に手を触れると、既に封は切られていた。
冷静に考えると、僕はこの手紙を読んで、引き出しに仕舞い、鍵を掛けて封印した…ってことだよな。簡単に取り出せないよう、鍵を押し入れに放り込んで。
一体、何が書かれていたのか…。
「よし」
何の心の準備もできないまま、封筒を逆さまにし、指を突っ込んだ。
中に入っていた便箋を掴むと、引っ張り出す。
折ってあったそれを広げ、目を通した。
※
譛晄律螂亥、乗ィケへ。
一週間以内に荷物を取りに来い。でないと捨てる。
※
「…………」
そこに書かれていたのは、手紙と呼ぶにはあまりにも粗雑で、概要を汲み取ることすらも叶わない文だった。
「なにこれ」
僕らは顔を見合わせ、首を傾げることしかできなかった。
狐に包まれたような感覚のまま、僕は便箋を隅々まで眺める。しかし、それ以上書かれているものはない。封筒を引っくり返してみても、何も出てこなかった。
ただただ、意味の分からない手紙が、僕の手の中に握られている。
「一週間以内に…」
「荷物を取りに来い…ってさ」
「どこに?」
「まあ、この住所だろうな」
僕は眉間に皺を寄せつつ、封筒の裏を眺めた。
大場純子…という送り主の名前と共に、その住所が記載されている。
「おおば…、じゅんこ」
またもや、脳裏にピリリとした感覚が走る。それから、背筋に冷や汗が滲むのが分かった。
本能的に悟る。
「…多分、この人は、僕の…」
言いかけて、首を横に振った。
「嫌だなあ…」
泣きそうな声でそう言うと、天井を仰いだ。
「でも、行くしかないか」
「まあそうだね」
皆月もため息交じりに頷く。
「これも、ナナシさんの過去を復元するために必要なことだ」
「そうだな」
僕は観念したように肩を竦めた。
臭いものに蓋をするかのように、便箋を封筒に戻し、二回折りたたむ。
そうして、この手紙を寄こしてきた者の所に向かう…と決めたわけだが、流石に、その日のうちに行動に移すのは億劫だったから、その日はのんびりと過ごすことにした。ショッピングモールに向かい、映画館で新作を二本見た。その後は、フードコートでハンバーガーを食べ、皆月が「新しいスニーカーが欲しい」と言ったので、それに付き合った。
アパートに戻ると、翌日の特急とバスの時間を確認してから、リュックに荷物を詰める。コーヒーを淹れて談笑した後は、日が暮れる前には別れた。
「また明日」
「うん、また明日」
「バイバイ」
「気をつけてな」
皆月が帰った後、だらだらと時間を潰し、九時前には布団に入った。暗闇が落ち着かなくて、豆電球は点けたままにした。
「………」
オレンジ色の光を見ながら、僕は唾を飲み込む。
「嫌だなあ…」
手紙を寄こしてきたのは、多分、僕の祖母だと思った。
天気予報では、今年の梅雨は長引く…なんて言っていたけれど、実際降ったのは三日くらいで、後は分厚い雲が鎮座し一週間が過ぎた。六月の下旬に入る頃には、その雲も晴れて、サイダーを傾けた青空が広がる様になっていた。
とろけるような暑さ。
僕は平気…というか耐えられるのだが、皆月が「働きやすい環境を整えろ」とうるさいので、クーラーのスイッチを入れて、温度を十六度まで下げる。すると、天井のエアコンからキンキンに冷えた風が吹き出始めた。
さすがに寒いので、ウインドブレーカーを羽織る。
丁度その時、扉が開いて皆月が入ってきた。
「おはよう、ナナシさん」
「おはよう、皆月」
なんて、いつもの挨拶。
ローファーを脱いで部屋に上がった彼女は、ぶるりと身震いをして、顔をしかめた。
「なに? 寒いんだけど」
「君が暑い暑いとうるさいからだ」
「限度があるのよ」
部屋に入ってきた彼女は、僕からリモコンをひったくり、温度を十八度まで上げた。
「これでよし」
「皆月の限度は随分と低いんだな」
僕は白けた顔で言うと、ウインドブレーカーのファスナーを閉めた。
「朝ごはん食べたの?」
「まだ」
「じゃあ、トーストで」
「トーストしか置いてないじゃん」
冷凍庫から凍ったパンを二枚取り出すと、バターを塗って焼いた。
軽くお腹を満たした後は、過去の復元に取り掛かる。と行きたかったのだが、不意に皆月がこんなことを言った。
「埃臭い」
「臭いか?」
そうとは思わず、僕は腕を組んで首を傾ける。
皆月は眉間にしわを寄せると、鼻を摘まんだ。
「窓閉めてるから特に。エアコンも掃除してないんじゃないの? カビの臭いが混じってる。私の肺が腐ったらどうするの」
「ああー」
確かに、記憶を辿ってみたが、掃除をした覚えがない。
「ごめん。またやっておくよ」
「すぐにやりなさい」
皆月に脇腹を蹴られ、僕は部屋の掃除に取り掛かることにした。
「手伝ってくれ」
「何で私が」
皆月は唇を尖らせたが、協力してくれた。
まず、窓と扉をいっぱいに開けて、空気の入れ替え。ついでにベランダに布団を干した。
不安定な椅子に足を掛け、エアコンの前面パネルを外す。現れたのは、真っ黒に汚れたフィルターだった。
埃が落ちないよう、そっと取り外す。皆月は「汚い汚い」と言いながらも受け取ってくれて、それを風呂場へと持って行った。
椅子から降りた僕は、風呂場へと向かい、フィルターに水を掛けて、汚れを洗い落とした。水が滴るそれは、ベランダに洗濯ばさみを使って干しておけば、三十分としないうちに乾いた。
「よし、取り付けるか」
「え、掃除ってそれだけでいいの?」
皆月が顔をくしゃりと歪める。
僕は首をかしげる。
「フィルター以外に何処を掃除しろって?」
「内部」
「内部って、素人でも掃除していいのか?」
「さあ?」
皆月は照れたように笑い、肩を竦めた。
「ああ、でも、良く売ってるじゃん、エアコンの内部を掃除するスプレーみたいなの」
「ああ…、そう言えばあるな」
心当たりがあった僕は、手をぽんっと叩いた。
「しかも、買った覚えがある」
「あるの?」
「というか、何処かで見た覚えがあるな。確か…、押し入れ」
エアコンの下のある、押し入れの扉を開ける。
樟脳の臭いが充満する狭い空間に身体をねじ込むと、夏服が入った段ボール箱、文庫本の収納ケース、ガラクタ入れの順に取り出した。これらの箱の中身は、過去の復元に当たって全て把握済みだった。
ガラクタ入れの段ボール箱を開けた。
中に入っていたのは、もう読まなくなった小説や、ジュースを買った時についてきたキーホルダー、朽ちかけた消しゴムに、間違えて買ってしまった〇・三ミリのボールペンなど、もう用済みではあるが、捨てるには勿体ないと思ったガラクタが詰め込まれていた。
皆月の言う、エアコンの内部クリーナーは、一番上に置いてあった。開封はされておらず、まだフィルムに覆われている。
「あったあった…」
僕はそれだけを掴んで引っ張り出すと、段ボール箱を閉じた。
目的のものは手に入れたので、箱を取り出した順に戻そうとしたのだが、その時、鼻の奥がむず痒くなり、僕は盛大にくしゃみをする。
僕は口を拭い、押し入れの中を見た。
「ついでに掃除するか」
くしゃみの原因は、十中八九、押し入れから漏れ出た埃だった。
「皆月、雑巾濡らして持ってきて」
「何で私が」
皆月はぶつぶつと言いながらも、台所へと向かい、雑巾を濡らして戻ってきた。
雑巾を受け取った僕は、また押し入れに入り、その奥に積もった埃を拭いていく。とはいえ、薄暗くて、ちゃんと綺麗になっているのかわからなかった。
鼻の奥がムズムズする。
「ああ、もう…」
耐えられなくなり、鼻を啜ると共に、顔を顰めた。
その時だった。
押し入れの床板を拭う雑巾に、何かが引っかかるような感触がした。
なんだろう…? と思い、ふと視線を落とした瞬間、僕は小さな悲鳴をあげて跳びあがる。その拍子に、中板に後頭部を打ち付けた。
ゴツン! と鈍い音。
「え、ちょっと、大丈夫? 何やってんの?」
「大丈夫…」
僕は頭を抑えながら言うと、改めて雑巾に引っ掛かっていたものを見た。
「ゴキブリかと思った…」
だが、それは何かの鍵だった。長さは五センチくらいで、朽ちかけたキーカバーに覆われている、謎の鍵だ。何の鍵だろう?
とりあえず、僕はそいつを摘まみ上げて、押し入れから出る。
窓から差し込む光に照らして、その全貌を眺めた。しかし、不親切にもその鍵には、何処の鍵であるかは書かれていない。だが、この軽さ、この小ささ、そして、押し入れの中で実に半年近く眠っていた辺り、重要なものの鍵ではないように思えた。
「なにそれ」
皆月が僕の手元を覗き込む。
「鍵? 何処の?」
「さあ…。押し入れの奥にあった」
皆月は横から手を伸ばし、鍵を摘まみ上げた。
「小さいのね。すぐに折れちゃいそう」
「ああ、うん…」
何の鍵か。まあ、大方、僕に関連する鍵だよな。
記憶を辿ってみたが、思い当たる節が無く、僕は鼻で笑った。
「なんの鍵だと思う?」
「私に聞かないで…」
皆月はそう言いかけたが、次の瞬間、何かを思い出したかのように、「あ!」と声をあげた。
「もしかして、引き出しの鍵じゃない?」
「え?」
そう言われて、僕もあのことを思い出し、「あ」と声をあげた。
二人同時に、振り返る。
そこには、机があった。年季の入った学習机で、いたるところにぶつけてできた傷がついている。その右側の引き出しには、小さな鍵穴がついていたのだ。
以前、部屋を探索していた際に、ここだけ鍵が掛かって開けることが出来なかった。そして、「そのうち開くだろう」と高を括って、以来忘れていた引き出しだった。
皆月が机に歩み寄り、持っていた鍵をその鍵穴に差し込む。
捻った瞬間、カタン…と、何かが下りるような音がした。
「あ…」
「あ…」
二人同時に、顔を見合わせる。
「この引き出しの鍵だったの?」
「みたいだな…」
何故あんな押し入れの奥に置いてあったのか?
沸き上がった疑問は置いておいて、僕はノブを掴むと、居眠りするライオンの隣を歩くかのように、そろりそろりと引っ張った。
軽い感触ともに、開かれる引き出し。
二人同時に、中を覗き込む。
「なにこれ」
そう呟いたのは、皆月だった。
遅れて僕も、「なんだこれ…」と洩らす。
だだっ広い引き出しの中にあったのは、一枚の封筒だった。ただそれだけだ。どうやら僕に宛てられた手紙のようで、表面に、アパートの住所と、認識不能な文字が並んでいる。
大きな引き出しを、たった一枚の封筒が占領している異様な光景に、皆月は手を泳がせ、掴むべきかどうか迷っていた。
僕は身震いをしつつ、手を伸ばしてそれを掴む。
裏返すと、そこには、送り主の名前と住所が書いてあった。
『大場純子』
消印は、九か月前の、二〇一七年十月十八日。
「おおば、じゅんこ?」
皆月が声を震わせた。
「なにこれ。誰からの…?」
「さ、さあ…」
そう言ったものの、後頭部に、痺れるような感覚があった。何かを思い出す感覚だ。
全身の皮膚が粟立って、本能的に、これは嫌な記憶であると悟った。そんなこといつものことなのだから、構わず思い出してしまえばよかったのだが、僕は反射的に封筒を落として、それを阻止していた。
「ナナシさん?」
皆月が何かに怯えたような顔で僕を見る。
「大丈夫? もしかして、また何か思い出しそうなの?」
「ああ、まあ、うん。でも大丈夫」
息を吸い込むと、改めて封筒を掴む。
「開けてみよう」
封筒の口に手を触れると、既に封は切られていた。
冷静に考えると、僕はこの手紙を読んで、引き出しに仕舞い、鍵を掛けて封印した…ってことだよな。簡単に取り出せないよう、鍵を押し入れに放り込んで。
一体、何が書かれていたのか…。
「よし」
何の心の準備もできないまま、封筒を逆さまにし、指を突っ込んだ。
中に入っていた便箋を掴むと、引っ張り出す。
折ってあったそれを広げ、目を通した。
※
譛晄律螂亥、乗ィケへ。
一週間以内に荷物を取りに来い。でないと捨てる。
※
「…………」
そこに書かれていたのは、手紙と呼ぶにはあまりにも粗雑で、概要を汲み取ることすらも叶わない文だった。
「なにこれ」
僕らは顔を見合わせ、首を傾げることしかできなかった。
狐に包まれたような感覚のまま、僕は便箋を隅々まで眺める。しかし、それ以上書かれているものはない。封筒を引っくり返してみても、何も出てこなかった。
ただただ、意味の分からない手紙が、僕の手の中に握られている。
「一週間以内に…」
「荷物を取りに来い…ってさ」
「どこに?」
「まあ、この住所だろうな」
僕は眉間に皺を寄せつつ、封筒の裏を眺めた。
大場純子…という送り主の名前と共に、その住所が記載されている。
「おおば…、じゅんこ」
またもや、脳裏にピリリとした感覚が走る。それから、背筋に冷や汗が滲むのが分かった。
本能的に悟る。
「…多分、この人は、僕の…」
言いかけて、首を横に振った。
「嫌だなあ…」
泣きそうな声でそう言うと、天井を仰いだ。
「でも、行くしかないか」
「まあそうだね」
皆月もため息交じりに頷く。
「これも、ナナシさんの過去を復元するために必要なことだ」
「そうだな」
僕は観念したように肩を竦めた。
臭いものに蓋をするかのように、便箋を封筒に戻し、二回折りたたむ。
そうして、この手紙を寄こしてきた者の所に向かう…と決めたわけだが、流石に、その日のうちに行動に移すのは億劫だったから、その日はのんびりと過ごすことにした。ショッピングモールに向かい、映画館で新作を二本見た。その後は、フードコートでハンバーガーを食べ、皆月が「新しいスニーカーが欲しい」と言ったので、それに付き合った。
アパートに戻ると、翌日の特急とバスの時間を確認してから、リュックに荷物を詰める。コーヒーを淹れて談笑した後は、日が暮れる前には別れた。
「また明日」
「うん、また明日」
「バイバイ」
「気をつけてな」
皆月が帰った後、だらだらと時間を潰し、九時前には布団に入った。暗闇が落ち着かなくて、豆電球は点けたままにした。
「………」
オレンジ色の光を見ながら、僕は唾を飲み込む。
「嫌だなあ…」
手紙を寄こしてきたのは、多分、僕の祖母だと思った。
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