僕の名は。~my name~

バーニー

文字の大きさ
上 下
66 / 75
第六章【テルミーグランマ】

第六章 その① 2018年 7月4日

しおりを挟む
【二〇一八年 七月四日】
 天気予報では、今年の梅雨は長引く…なんて言っていたけれど、実際降ったのは三日くらいで、後は分厚い雲が鎮座し一週間が過ぎた。六月の下旬に入る頃には、その雲も晴れて、サイダーを傾けた青空が広がる様になっていた。
 とろけるような暑さ。
 僕は平気…というか耐えられるのだが、皆月が「働きやすい環境を整えろ」とうるさいので、クーラーのスイッチを入れて、温度を十六度まで下げる。すると、天井のエアコンからキンキンに冷えた風が吹き出始めた。
 さすがに寒いので、ウインドブレーカーを羽織る。
 丁度その時、扉が開いて皆月が入ってきた。
「おはよう、ナナシさん」
「おはよう、皆月」
 なんて、いつもの挨拶。
 ローファーを脱いで部屋に上がった彼女は、ぶるりと身震いをして、顔をしかめた。
「なに? 寒いんだけど」
「君が暑い暑いとうるさいからだ」
「限度があるのよ」
 部屋に入ってきた彼女は、僕からリモコンをひったくり、温度を十八度まで上げた。
「これでよし」
「皆月の限度は随分と低いんだな」
 僕は白けた顔で言うと、ウインドブレーカーのファスナーを閉めた。
「朝ごはん食べたの?」
「まだ」
「じゃあ、トーストで」
「トーストしか置いてないじゃん」
 冷凍庫から凍ったパンを二枚取り出すと、バターを塗って焼いた。
 軽くお腹を満たした後は、過去の復元に取り掛かる。と行きたかったのだが、不意に皆月がこんなことを言った。
「埃臭い」
「臭いか?」
 そうとは思わず、僕は腕を組んで首を傾ける。
 皆月は眉間にしわを寄せると、鼻を摘まんだ。
「窓閉めてるから特に。エアコンも掃除してないんじゃないの? カビの臭いが混じってる。私の肺が腐ったらどうするの」
「ああー」
 確かに、記憶を辿ってみたが、掃除をした覚えがない。
「ごめん。またやっておくよ」
「すぐにやりなさい」
 皆月に脇腹を蹴られ、僕は部屋の掃除に取り掛かることにした。
「手伝ってくれ」
「何で私が」
 皆月は唇を尖らせたが、協力してくれた。
 まず、窓と扉をいっぱいに開けて、空気の入れ替え。ついでにベランダに布団を干した。
 不安定な椅子に足を掛け、エアコンの前面パネルを外す。現れたのは、真っ黒に汚れたフィルターだった。
 埃が落ちないよう、そっと取り外す。皆月は「汚い汚い」と言いながらも受け取ってくれて、それを風呂場へと持って行った。
 椅子から降りた僕は、風呂場へと向かい、フィルターに水を掛けて、汚れを洗い落とした。水が滴るそれは、ベランダに洗濯ばさみを使って干しておけば、三十分としないうちに乾いた。
「よし、取り付けるか」
「え、掃除ってそれだけでいいの?」
 皆月が顔をくしゃりと歪める。
 僕は首をかしげる。
「フィルター以外に何処を掃除しろって?」
「内部」
「内部って、素人でも掃除していいのか?」
「さあ?」
 皆月は照れたように笑い、肩を竦めた。
「ああ、でも、良く売ってるじゃん、エアコンの内部を掃除するスプレーみたいなの」
「ああ…、そう言えばあるな」
 心当たりがあった僕は、手をぽんっと叩いた。
「しかも、買った覚えがある」
「あるの?」
「というか、何処かで見た覚えがあるな。確か…、押し入れ」
 エアコンの下のある、押し入れの扉を開ける。
 樟脳の臭いが充満する狭い空間に身体をねじ込むと、夏服が入った段ボール箱、文庫本の収納ケース、ガラクタ入れの順に取り出した。これらの箱の中身は、過去の復元に当たって全て把握済みだった。
 ガラクタ入れの段ボール箱を開けた。
 中に入っていたのは、もう読まなくなった小説や、ジュースを買った時についてきたキーホルダー、朽ちかけた消しゴムに、間違えて買ってしまった〇・三ミリのボールペンなど、もう用済みではあるが、捨てるには勿体ないと思ったガラクタが詰め込まれていた。
 皆月の言う、エアコンの内部クリーナーは、一番上に置いてあった。開封はされておらず、まだフィルムに覆われている。
「あったあった…」
 僕はそれだけを掴んで引っ張り出すと、段ボール箱を閉じた。
 目的のものは手に入れたので、箱を取り出した順に戻そうとしたのだが、その時、鼻の奥がむず痒くなり、僕は盛大にくしゃみをする。
 僕は口を拭い、押し入れの中を見た。
「ついでに掃除するか」
 くしゃみの原因は、十中八九、押し入れから漏れ出た埃だった。
「皆月、雑巾濡らして持ってきて」
「何で私が」
 皆月はぶつぶつと言いながらも、台所へと向かい、雑巾を濡らして戻ってきた。
 雑巾を受け取った僕は、また押し入れに入り、その奥に積もった埃を拭いていく。とはいえ、薄暗くて、ちゃんと綺麗になっているのかわからなかった。
 鼻の奥がムズムズする。
「ああ、もう…」
 耐えられなくなり、鼻を啜ると共に、顔を顰めた。
 その時だった。
 押し入れの床板を拭う雑巾に、何かが引っかかるような感触がした。
 なんだろう…? と思い、ふと視線を落とした瞬間、僕は小さな悲鳴をあげて跳びあがる。その拍子に、中板に後頭部を打ち付けた。
 ゴツン! と鈍い音。
「え、ちょっと、大丈夫? 何やってんの?」
「大丈夫…」
 僕は頭を抑えながら言うと、改めて雑巾に引っ掛かっていたものを見た。
「ゴキブリかと思った…」
 だが、それは何かの鍵だった。長さは五センチくらいで、朽ちかけたキーカバーに覆われている、謎の鍵だ。何の鍵だろう?
 とりあえず、僕はそいつを摘まみ上げて、押し入れから出る。
 窓から差し込む光に照らして、その全貌を眺めた。しかし、不親切にもその鍵には、何処の鍵であるかは書かれていない。だが、この軽さ、この小ささ、そして、押し入れの中で実に半年近く眠っていた辺り、重要なものの鍵ではないように思えた。
「なにそれ」
 皆月が僕の手元を覗き込む。
「鍵? 何処の?」
「さあ…。押し入れの奥にあった」
 皆月は横から手を伸ばし、鍵を摘まみ上げた。
「小さいのね。すぐに折れちゃいそう」
「ああ、うん…」
 何の鍵か。まあ、大方、僕に関連する鍵だよな。
 記憶を辿ってみたが、思い当たる節が無く、僕は鼻で笑った。
「なんの鍵だと思う?」
「私に聞かないで…」
 皆月はそう言いかけたが、次の瞬間、何かを思い出したかのように、「あ!」と声をあげた。
「もしかして、引き出しの鍵じゃない?」
「え?」
 そう言われて、僕もあのことを思い出し、「あ」と声をあげた。
 二人同時に、振り返る。
 そこには、机があった。年季の入った学習机で、いたるところにぶつけてできた傷がついている。その右側の引き出しには、小さな鍵穴がついていたのだ。
 以前、部屋を探索していた際に、ここだけ鍵が掛かって開けることが出来なかった。そして、「そのうち開くだろう」と高を括って、以来忘れていた引き出しだった。
 皆月が机に歩み寄り、持っていた鍵をその鍵穴に差し込む。
 捻った瞬間、カタン…と、何かが下りるような音がした。
「あ…」
「あ…」
 二人同時に、顔を見合わせる。
「この引き出しの鍵だったの?」
「みたいだな…」
 何故あんな押し入れの奥に置いてあったのか?
 沸き上がった疑問は置いておいて、僕はノブを掴むと、居眠りするライオンの隣を歩くかのように、そろりそろりと引っ張った。
 軽い感触ともに、開かれる引き出し。
 二人同時に、中を覗き込む。
「なにこれ」
 そう呟いたのは、皆月だった。
 遅れて僕も、「なんだこれ…」と洩らす。
 だだっ広い引き出しの中にあったのは、一枚の封筒だった。ただそれだけだ。どうやら僕に宛てられた手紙のようで、表面に、アパートの住所と、認識不能な文字が並んでいる。
 大きな引き出しを、たった一枚の封筒が占領している異様な光景に、皆月は手を泳がせ、掴むべきかどうか迷っていた。
 僕は身震いをしつつ、手を伸ばしてそれを掴む。
 裏返すと、そこには、送り主の名前と住所が書いてあった。

『大場純子』

 消印は、九か月前の、二〇一七年十月十八日。
「おおば、じゅんこ?」
 皆月が声を震わせた。
「なにこれ。誰からの…?」
「さ、さあ…」
 そう言ったものの、後頭部に、痺れるような感覚があった。何かを思い出す感覚だ。
 全身の皮膚が粟立って、本能的に、これは嫌な記憶であると悟った。そんなこといつものことなのだから、構わず思い出してしまえばよかったのだが、僕は反射的に封筒を落として、それを阻止していた。
「ナナシさん?」
 皆月が何かに怯えたような顔で僕を見る。
「大丈夫? もしかして、また何か思い出しそうなの?」
「ああ、まあ、うん。でも大丈夫」
 息を吸い込むと、改めて封筒を掴む。
「開けてみよう」
 封筒の口に手を触れると、既に封は切られていた。
 冷静に考えると、僕はこの手紙を読んで、引き出しに仕舞い、鍵を掛けて封印した…ってことだよな。簡単に取り出せないよう、鍵を押し入れに放り込んで。
 一体、何が書かれていたのか…。
「よし」
 何の心の準備もできないまま、封筒を逆さまにし、指を突っ込んだ。
 中に入っていた便箋を掴むと、引っ張り出す。
 折ってあったそれを広げ、目を通した。
        ※
 譛晄律螂亥、乗ィケへ。
 一週間以内に荷物を取りに来い。でないと捨てる。
        ※
「…………」
 そこに書かれていたのは、手紙と呼ぶにはあまりにも粗雑で、概要を汲み取ることすらも叶わない文だった。
「なにこれ」
 僕らは顔を見合わせ、首を傾げることしかできなかった。
 狐に包まれたような感覚のまま、僕は便箋を隅々まで眺める。しかし、それ以上書かれているものはない。封筒を引っくり返してみても、何も出てこなかった。
 ただただ、意味の分からない手紙が、僕の手の中に握られている。
「一週間以内に…」
「荷物を取りに来い…ってさ」
「どこに?」
「まあ、この住所だろうな」
 僕は眉間に皺を寄せつつ、封筒の裏を眺めた。
 大場純子…という送り主の名前と共に、その住所が記載されている。
「おおば…、じゅんこ」
 またもや、脳裏にピリリとした感覚が走る。それから、背筋に冷や汗が滲むのが分かった。
 本能的に悟る。
「…多分、この人は、僕の…」
 言いかけて、首を横に振った。
「嫌だなあ…」
 泣きそうな声でそう言うと、天井を仰いだ。
「でも、行くしかないか」
「まあそうだね」
 皆月もため息交じりに頷く。
「これも、ナナシさんの過去を復元するために必要なことだ」
「そうだな」
 僕は観念したように肩を竦めた。
 臭いものに蓋をするかのように、便箋を封筒に戻し、二回折りたたむ。
 そうして、この手紙を寄こしてきた者の所に向かう…と決めたわけだが、流石に、その日のうちに行動に移すのは億劫だったから、その日はのんびりと過ごすことにした。ショッピングモールに向かい、映画館で新作を二本見た。その後は、フードコートでハンバーガーを食べ、皆月が「新しいスニーカーが欲しい」と言ったので、それに付き合った。
 アパートに戻ると、翌日の特急とバスの時間を確認してから、リュックに荷物を詰める。コーヒーを淹れて談笑した後は、日が暮れる前には別れた。
「また明日」
「うん、また明日」
「バイバイ」
「気をつけてな」
 皆月が帰った後、だらだらと時間を潰し、九時前には布団に入った。暗闇が落ち着かなくて、豆電球は点けたままにした。
「………」
 オレンジ色の光を見ながら、僕は唾を飲み込む。
「嫌だなあ…」
 手紙を寄こしてきたのは、多分、僕の祖母だと思った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

処理中です...