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第四章【キスの6番 惰眠に5番】
第四章 その③
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それは、本当に不思議な時間だった。
僕と皆月は、真ん中くらいの席に隣り合って腰を掛けて、スクリーン上で繰り広げられる銃撃戦を観た。カメラがぐりぐりと動き、血も激しく噴き出し、薬莢が転がる音や弾を装填する音がリアルで、見ごたえのある映像だった。でも、アメリカの映画のようで、登場人物全員が英語でしゃべるものだから、何を言っているのかさっぱりだった。唯一聞き取れたのは、おそらく最終決戦に臨む前の、ヒロインからの「Good luck」だった。
アクション映画が終わって、次に向かったスクリーンで見たのは、コメディ映画だった。僕は知らなかったのだが、どうやら人気のギャグ漫画を実写化させたものらしく、冒頭で原作コミックの紹介という、メタ的なギャグを披露していた。
CG感満載で、登場人物らが吹き飛び、睨めっこしているかのような変顔、聞いていてこっちが恥ずかしくなる演技。
これのどこがおもしろいんだ? とは思ったが、コメディ映画なんだから、笑ってなんぼだろう…と思い、わざとらしく乾いた笑みを洩らした。
視線を感じて振り返ると、白けた顔をした皆月が「こいつまじか」と言いたげに口を歪めていた。何か勘違いをされてしまったようで、結局途中で出るようなことはせず、最後まで見ることとなった。
「ナナシさんって、ああいう低俗な笑い好きなんだね」
「…そういうわけじゃないんだ」
口直しをするように、次は恋愛映画を見た。これが結構面白かった。
美しい音楽、引きこまれるような映像、そして、役者の演技。すべてが情緒を刺激してきて、ポップコーンなんて食べる余裕も無く、僕はスクリーンに釘付けだった。中盤、目を覆いたくなるような凄惨なシーンがあったものの、ラストは、しっかりとハッピーエンドに着地してくれた。ミステリー要素もあって、見応えのある良作だった。
この爽やかな気分のまま終われば良かったのだが、皆月に手を引かれ、僕はまたスクリーンを移動した。
次に見たのが、アニメ映画だった。
幼女向けのようで、登場するキャラクターは可愛らしく、実写とは違うカメラワークで、楽しめる要素はあったのだが、それまでだった。ストーリーは所詮子供向けで、緊迫感のあるものではなく、アニメ特有の演技も、さっき見たコメディ映画に通じる部分があり、どうしても見ていられなかった。何より、三回連続で映画を見たことで、僕は少し疲れていたんだ。
だから、主人公らの友達が敵に攫われてしまった時点で、僕はシートに背をもたれ、うつらうつらとしていた。
シアター全体に、彼女らが戦う声、何かが炸裂する音、気分を高揚させるようなBGMが響いていたが、それすらも聞こえないほどに、意識を失っていく。
そしてついには、夢の世界へと飛び込んでいた。
どのくらい眠っただろうか?
肩を突かれて、目を覚ました。
顔を上げると、皆月が見下ろしている。
「起きたね」
「あ…、ごめん」
口を開けていたせいで、喉が渇いて上手く声が出ない。慌ててコーラを飲んだが、氷が融けきって薄くなってしまっていた。
口の直しのためにポップコーンを…と思ったが、膝の上に置いていたはずのカップが無い。
寝ぼけ眼を凝らすと、床に大量のポップコーンが散らばっていた。
「あ…、ああ…」
やっちまったな…と思い、頭を抱える。
「ごめん」
「いいよ。吉岡さんが掃除してくれるし」
皆月はそう言うと、明るくなった入り口の方を顎でしゃくった。
「それより、帰ろう。もうすぐ閉館だから」
「あ、うん」
結局、閉館までここにいたのか。
スクリーンを出た僕たちは、吉岡さんにポップコーンを零してしまったことの謝罪と、一日居させてくれたことの礼を告げ、映画館を出た。
時間はもう九時を回っていて、専門店のシャッターは軒並み下ろされ、まるで廃墟に迷い込んだかのようだった。だが、昼間来た時よりも人は多く、出口に行くまでに、六人ほどの男性や女性とすれ違った。
「食品館は十時までなの。この時間は、仕事帰りの人が、半額の弁当を狙って買いに来るから」
「へえ…」
閉館が近くなると、息を吹き返すショッピングモールか…。
「そんなことより、ごめん」
僕は皆月の横に並んで謝った。
「せっかく誘ってくれたのに、眠っちゃって…」
「良いよ別に。私も寝てたから」
皆月のそっけない発言に、僕は耳を疑った。
「眠ってたって、皆月も?」
「そりゃもちろん。あのアニメ映画が終わって、ドキュメンタリーが始まったんだけど、冒頭なんて一ミリも覚えてないわ」
「そ、そうか…」
彼女も眠っていたことを知り、なんだか助かった気分になる。
「映画好きの皆月も、眠ること、あるんだな」
「別に、好きってわけじゃないよ」
皆月は肩を竦め、首を横に振った。
「映画のタイトルはおろか、監督の名前も、出演者の名前も、使われている曲とか、ロケの舞台とか…全く知らないし、憶えていない。ただ、面白かったなあ…、つまらなかったなあ…、良い演技だったなあ…、酷い演技だったななあ…。そのくらいの感想しか抱かないの。だから、別に、途中で眠ることに罪悪感なんてないし、眠っている人を見たところで怒らないよ。むしろ、この人も私と同じで、退屈だと思ったのかな? って思えて、ちょっと嬉しくなるから」
「その割には、常連になっているみたいだし…」
そもそも、毎週通って、一日に映画を四本も五本も見るのは、それは「映画好き」の領域に踏み込んでいるのではないか?
だが、皆月は頑なにそれを否定した。
「だから、本当に、映画は好きってわけじゃないの。ほら、暇なとき、スマホを延々と眺めたり、テレビをずっと流したりするでしょう? そんな感じ」
「だったら、スマホ延々と眺めたり、テレビをずっと流したりすればいいんじゃないか?」
言った後で、少しひねくれ過ぎた意見になってしまったのではないか? と思う。くだらない暇つぶしなんだ。誰がどう過ごそうが、それはその人の勝手じゃないか。
慌てて、撤回する。
「ごめん、変な言い方したな…。忘れてくれ」
「いや…」
皆月は歩きながら顎に手をやると、首を横に振った。
「まあ、そうなんだろうね。きっとそうするだけでも、私の休日は過ぎていくんだと思う」
でも…と呟いた彼女は立ち止まり、元来た道を振り返った。
僕も釣られて振り返る。
シャッターの降りた店が延々と続き、奥に行くにしたがって、電灯の明かりが弱くなっていた。その、靄が掛かるような影の差し方は、僕たちの胸にずっしりとした不安を抱かせた。
いつ磨いたのかわからない、くすんだ床。足を動かすと、ざらっとした感触が残る。
「このショッピングモールが、何故か放っておけなくてね…。一週間に一度は訪れないと、気が済まないの。まるで、年老いた犬に会いに来ているみたいな…」
「老犬か…」
言いえて妙な例えに、僕は感心した。
「私がここで何かを買ったところで、いずれは潰れちゃうんだろうね。きっと、取り壊しの計画はもう進んでる。でも、じゃあ、もう行かないのはちょっと違うというか…」
また、皆月は黙りこくる。下唇を湿らせると、言葉を紡いだ。
「多分、後悔するんじゃないかな…って」
彼女はそう言った。
「もし、私がここに行かなかったら、もし潰れちゃったときに、自分のせいで潰れてしまったんじゃないかな? って思うかもしれないじゃない」
そうでしょう?
同意を求めるように、皆月の眠たげな眼が僕を見た。
答えに悩み、僕は固まる。いやそもそも、いつもは現実的なことしか言わない彼女が、経営難で潰れるかもしれないショッピングモールに対し、一消費者の分際で、その行く末を憂うのが、たまらなく気持ち悪かった。
それは彼女自身も理解しているようで、視線を逸らした。
「わかってるよ。そんなことはないって。別に、私のせいでここが潰れるわけじゃない。でも、私にできることと言えば、これくらいしかないでしょ」
僕を見る。
「やることやって、潰れたなら、後悔は無いんじゃない?」
歩いていると、出口が見えた。言わずもがな外は真っ暗になっていた。
暖房が効いた店内から、凍り付くような外へと出ることを思うと、腕の辺りに鳥肌が立つ。それを振り払うようにドアノブに手を伸ばした時、ガラスの部分に、皆月の顔が反射して見えた。ガラスを通して見た彼女の顔は、初めて見るものだった。
言葉が、口を衝いて出た。
「…なあ、皆月、お前、照れてるのか?」
「は?」
ガラスに映った皆月が、本調子を取り戻したかのように、般若の顔となる。
「何言ってんの? 照れてないし」
そして、ガラス戸を押して開けると、僕を外に押し出した。
「ほら、帰るよ」
「いやいや…」
もうすっかり慣れた僕は振り返って、皆月の額を小突いた。
「目が泳いでたし…、口元がワカメみたいになってた」
「なによ、ワカメって…」
そう言った皆月は、また口を一文字に結び、水底で揺らめくワカメのように、もごもごと動かした。心なしか、頬が赤くなっている。ここから小一時間はちょっかいを掛けてやってもよかったのだが、流石の僕も、そこまでは捻くれていない。
「だから私は…」
「それで…、過去を書き換える話だけど…」
彼女の面目を保つためにも、話を変えた。
「昨日言った通りだよ。このまま、書き換えておくれ。内容は、君に任せる。僕が救われるストーリーを書いてくれ」
そう言ったのだが、皆月は返事をすることなく、僕の横を通り過ぎた。
聞こえなかったのかと思い、僕は乾いた空気を吸い込んだのだが、彼女はさっさと駅の方へと歩いて行こうとする。慌てて追いかけ、建物から離れた途端、切りつけるような寒風が吹きつけた。
目に染みるような痛みが走り、涙が滲む。
頬を伝った涙を拭い、顔を上げると、皆月が前に立っていた。
「皆月…」
戻ってきてくれたことに安堵し、さっきの言葉を放とうと息を吸い込む。
が、皆月は再び踵を返し、歩き始めた。
三歩進んで立ち止まり、首だけで、振り返る。
「休みの日は、仕事の話、したくないから」
「わかったよ」
ああ、そういうことか…って思い、頷く。
「じゃあ、また明日、話すよ」
「嫌よ。聞きたくない」
風で掻き消えそうな僕の声に重ねて、皆月は言った。
僕は顔を上げ、耳を疑う。北風のせいで、聞き間違えたのだと思った。
皆月はなびく髪を鬱陶しそうに掻き上げると、歩いてきて、僕の胸倉を掴んだ。
「聞きたくない」
僕を引き寄せ、キスをするんじゃないか? ってくらい顔を近づけた皆月は、そう言った。
でも僕は、聞き取れなかった。
心臓が、耳の奥で大暴れをしていたからだ。
「あ…」
その猫のような目を見ていられず、半歩下がる。
「私が、さっき言いたくて、でも、恥ずかしくなって言えなかったこと」
皆月は半歩近づき、言った。
「後悔の無い道を選んだって、悪くないんじゃないかって」
「…後悔の、無い道?」
一瞬は何言っているんだ? と首を傾げたが、耳の奥で、さっきの彼女の言葉が再生された。
『やることやって、潰れたなら、後悔はないじゃない?』
まさか…。
「おいおい、皆月、お前…」
彼女が言いたかったことを悟った僕は、脱力するとともに苦笑した。
皆月はばつが悪そうに首を横に振る。
「別に、これを言うために、あんたをここに連れてきたわけじゃないから」
そして、赤く染まった頬を掻きながら、言葉を紡いだ。
「私だって、もう潰れる運命のショッピングモールを、細やかに応援しているからね…。理屈で動いているわけじゃないの。だから、ナナシさんも、過去の復元も、そうやって動けばいのかな? って…」
僕は最初、「新しい過去を書く」という皆月の提案を無視して、過去の復元をすることを選んだ。結果は悲惨なものだった。復元されたものは、どれも忌まわしい記憶で、藻掻けば藻掻くほど、惨めになっていく。
だからもう、すべて諦めて、新しい過去を書くという選択をしたのに…、最初に言った君が、それを言うのか。
「とりあえずさ、過去、全部復元してみようよ。まあ多分、嫌なことばっかりなんだろうね。でも、もしかしたら、素敵なものも残っているかもしれないじゃない?」
「…それは」
そんなの、絶対にありえない…と言う言葉が、出なかった。そう言いきるに足る証拠が見つからなかったわけではなく、多分、僕もまだ期待をしていたのだと思う。
当たらないに決まっている宝くじを買うような、ほんのちょっとした、余興。
「もし、素敵なものが残っていたら、それは残しておいてあげる。後の嫌なことは、全部消してあげる。それでいいんじゃない?」
そこまで言った皆月は、白い息を吐き、乾き始めた唇を濡らした。
そして、風が途切れたタイミングで、言った。
「その方が、後悔は無いでしょ。いや、どうせ上書きして忘れるんだから、後悔するもしないも関係ないんだけど…、それでも、心に優しいっていうか…。いや、これから、嫌な過去ばかり復元していくから、こっちのほうが心に来るっていうか…」
「もういいよ」
みるみるしどろもどろになっていく皆月を、僕は手で制した。
そのまま、彼女の肩に触れる。
「…ありがとう。わかったよ」
「いや、だから、その…、ちょっと待ってね」
皆月は、このまま過去の復元を再開するに足る理由を探し、必死に頭を回転させていた。
だが、どう転んでも、今すぐに新しい過去を上書きした方が良い…という結論に至ってしまったのか、項垂れた。
諦めた彼女は、強引に話を進めた。
「とにかく、私は、あんたの過去を、復元したいの…」
「うん」
「あんたが、どんな人生送ってきたのか、知りたいの」
「うん」
「きっと、一つくらいは、素敵なものがあるかもしれないからさ…」
「わかってるよ」
狼狽して必死に言葉を絞り出す皆月を見ていられなくなって、僕は彼女の腕を掴み、引っ張った。
皆月は「あ…」と声を洩らしたが、すぐにそのスカートの裾から覗く足を動かし、僕の横に並ぶ。決して、僕の手を振り払おうとはしなかった。
「また明日からも、よろしくな」
「うん、よろしく」
駐車場の出口に差し掛かった時、街灯の光に照らされて、白い雪がちらつくのがわかった。
鼻先に触れたそれは一瞬で水となる。
僕たちは、今日の映画の感想を言い合った。
「ねえ、どれがおもしろかった?」
「そうだな、大体は面白かったけど、あの恋愛映画、良かったな」
「ああ、やっぱり? 良かったよね。特に、ヒロインの秘密が明かされるところ」
「冗長なシーンが多かったけど、全部あのためにあったんだな」
「ただ、主人公の男があんまり好きじゃない」
「そうかな? あの主人公にしてあのヒロインだと思うけど」
「俳優よ。俳優。この前は、コメディ映画に出てて、うるさい演技してたのに、今回はあんなしっとりとした役になっちゃって」
「演技の幅が広いことは良いことだよ」
「コメディの方に引っ張られて、ちょっと集中しきれなかったの…」
「そうなのか…。名前、なんて言うんだっけか」
「知らない。俳優に興味持つほど、映画好きじゃないし」
「それでも、演技云々は言うんだな」
「やっぱり見やすい方が良いもの」
僕たちは人気の無い道を歩く。
ふと目を動かすと、皆月の横顔が見えるわけだが、心なしか口角が上がっていた。きっとそれを指摘すると彼女は怒って、への字に歪めるだろうから、敢えて指摘しない。
まるで、目覚めた朝に虹を発見した時のような、些細な喜びを抱きしめて、僕は歩を進める。
相変わらず過去は悲惨だけど、僕の中で、何かが変わり始めた気がした。
僕と皆月は、真ん中くらいの席に隣り合って腰を掛けて、スクリーン上で繰り広げられる銃撃戦を観た。カメラがぐりぐりと動き、血も激しく噴き出し、薬莢が転がる音や弾を装填する音がリアルで、見ごたえのある映像だった。でも、アメリカの映画のようで、登場人物全員が英語でしゃべるものだから、何を言っているのかさっぱりだった。唯一聞き取れたのは、おそらく最終決戦に臨む前の、ヒロインからの「Good luck」だった。
アクション映画が終わって、次に向かったスクリーンで見たのは、コメディ映画だった。僕は知らなかったのだが、どうやら人気のギャグ漫画を実写化させたものらしく、冒頭で原作コミックの紹介という、メタ的なギャグを披露していた。
CG感満載で、登場人物らが吹き飛び、睨めっこしているかのような変顔、聞いていてこっちが恥ずかしくなる演技。
これのどこがおもしろいんだ? とは思ったが、コメディ映画なんだから、笑ってなんぼだろう…と思い、わざとらしく乾いた笑みを洩らした。
視線を感じて振り返ると、白けた顔をした皆月が「こいつまじか」と言いたげに口を歪めていた。何か勘違いをされてしまったようで、結局途中で出るようなことはせず、最後まで見ることとなった。
「ナナシさんって、ああいう低俗な笑い好きなんだね」
「…そういうわけじゃないんだ」
口直しをするように、次は恋愛映画を見た。これが結構面白かった。
美しい音楽、引きこまれるような映像、そして、役者の演技。すべてが情緒を刺激してきて、ポップコーンなんて食べる余裕も無く、僕はスクリーンに釘付けだった。中盤、目を覆いたくなるような凄惨なシーンがあったものの、ラストは、しっかりとハッピーエンドに着地してくれた。ミステリー要素もあって、見応えのある良作だった。
この爽やかな気分のまま終われば良かったのだが、皆月に手を引かれ、僕はまたスクリーンを移動した。
次に見たのが、アニメ映画だった。
幼女向けのようで、登場するキャラクターは可愛らしく、実写とは違うカメラワークで、楽しめる要素はあったのだが、それまでだった。ストーリーは所詮子供向けで、緊迫感のあるものではなく、アニメ特有の演技も、さっき見たコメディ映画に通じる部分があり、どうしても見ていられなかった。何より、三回連続で映画を見たことで、僕は少し疲れていたんだ。
だから、主人公らの友達が敵に攫われてしまった時点で、僕はシートに背をもたれ、うつらうつらとしていた。
シアター全体に、彼女らが戦う声、何かが炸裂する音、気分を高揚させるようなBGMが響いていたが、それすらも聞こえないほどに、意識を失っていく。
そしてついには、夢の世界へと飛び込んでいた。
どのくらい眠っただろうか?
肩を突かれて、目を覚ました。
顔を上げると、皆月が見下ろしている。
「起きたね」
「あ…、ごめん」
口を開けていたせいで、喉が渇いて上手く声が出ない。慌ててコーラを飲んだが、氷が融けきって薄くなってしまっていた。
口の直しのためにポップコーンを…と思ったが、膝の上に置いていたはずのカップが無い。
寝ぼけ眼を凝らすと、床に大量のポップコーンが散らばっていた。
「あ…、ああ…」
やっちまったな…と思い、頭を抱える。
「ごめん」
「いいよ。吉岡さんが掃除してくれるし」
皆月はそう言うと、明るくなった入り口の方を顎でしゃくった。
「それより、帰ろう。もうすぐ閉館だから」
「あ、うん」
結局、閉館までここにいたのか。
スクリーンを出た僕たちは、吉岡さんにポップコーンを零してしまったことの謝罪と、一日居させてくれたことの礼を告げ、映画館を出た。
時間はもう九時を回っていて、専門店のシャッターは軒並み下ろされ、まるで廃墟に迷い込んだかのようだった。だが、昼間来た時よりも人は多く、出口に行くまでに、六人ほどの男性や女性とすれ違った。
「食品館は十時までなの。この時間は、仕事帰りの人が、半額の弁当を狙って買いに来るから」
「へえ…」
閉館が近くなると、息を吹き返すショッピングモールか…。
「そんなことより、ごめん」
僕は皆月の横に並んで謝った。
「せっかく誘ってくれたのに、眠っちゃって…」
「良いよ別に。私も寝てたから」
皆月のそっけない発言に、僕は耳を疑った。
「眠ってたって、皆月も?」
「そりゃもちろん。あのアニメ映画が終わって、ドキュメンタリーが始まったんだけど、冒頭なんて一ミリも覚えてないわ」
「そ、そうか…」
彼女も眠っていたことを知り、なんだか助かった気分になる。
「映画好きの皆月も、眠ること、あるんだな」
「別に、好きってわけじゃないよ」
皆月は肩を竦め、首を横に振った。
「映画のタイトルはおろか、監督の名前も、出演者の名前も、使われている曲とか、ロケの舞台とか…全く知らないし、憶えていない。ただ、面白かったなあ…、つまらなかったなあ…、良い演技だったなあ…、酷い演技だったななあ…。そのくらいの感想しか抱かないの。だから、別に、途中で眠ることに罪悪感なんてないし、眠っている人を見たところで怒らないよ。むしろ、この人も私と同じで、退屈だと思ったのかな? って思えて、ちょっと嬉しくなるから」
「その割には、常連になっているみたいだし…」
そもそも、毎週通って、一日に映画を四本も五本も見るのは、それは「映画好き」の領域に踏み込んでいるのではないか?
だが、皆月は頑なにそれを否定した。
「だから、本当に、映画は好きってわけじゃないの。ほら、暇なとき、スマホを延々と眺めたり、テレビをずっと流したりするでしょう? そんな感じ」
「だったら、スマホ延々と眺めたり、テレビをずっと流したりすればいいんじゃないか?」
言った後で、少しひねくれ過ぎた意見になってしまったのではないか? と思う。くだらない暇つぶしなんだ。誰がどう過ごそうが、それはその人の勝手じゃないか。
慌てて、撤回する。
「ごめん、変な言い方したな…。忘れてくれ」
「いや…」
皆月は歩きながら顎に手をやると、首を横に振った。
「まあ、そうなんだろうね。きっとそうするだけでも、私の休日は過ぎていくんだと思う」
でも…と呟いた彼女は立ち止まり、元来た道を振り返った。
僕も釣られて振り返る。
シャッターの降りた店が延々と続き、奥に行くにしたがって、電灯の明かりが弱くなっていた。その、靄が掛かるような影の差し方は、僕たちの胸にずっしりとした不安を抱かせた。
いつ磨いたのかわからない、くすんだ床。足を動かすと、ざらっとした感触が残る。
「このショッピングモールが、何故か放っておけなくてね…。一週間に一度は訪れないと、気が済まないの。まるで、年老いた犬に会いに来ているみたいな…」
「老犬か…」
言いえて妙な例えに、僕は感心した。
「私がここで何かを買ったところで、いずれは潰れちゃうんだろうね。きっと、取り壊しの計画はもう進んでる。でも、じゃあ、もう行かないのはちょっと違うというか…」
また、皆月は黙りこくる。下唇を湿らせると、言葉を紡いだ。
「多分、後悔するんじゃないかな…って」
彼女はそう言った。
「もし、私がここに行かなかったら、もし潰れちゃったときに、自分のせいで潰れてしまったんじゃないかな? って思うかもしれないじゃない」
そうでしょう?
同意を求めるように、皆月の眠たげな眼が僕を見た。
答えに悩み、僕は固まる。いやそもそも、いつもは現実的なことしか言わない彼女が、経営難で潰れるかもしれないショッピングモールに対し、一消費者の分際で、その行く末を憂うのが、たまらなく気持ち悪かった。
それは彼女自身も理解しているようで、視線を逸らした。
「わかってるよ。そんなことはないって。別に、私のせいでここが潰れるわけじゃない。でも、私にできることと言えば、これくらいしかないでしょ」
僕を見る。
「やることやって、潰れたなら、後悔は無いんじゃない?」
歩いていると、出口が見えた。言わずもがな外は真っ暗になっていた。
暖房が効いた店内から、凍り付くような外へと出ることを思うと、腕の辺りに鳥肌が立つ。それを振り払うようにドアノブに手を伸ばした時、ガラスの部分に、皆月の顔が反射して見えた。ガラスを通して見た彼女の顔は、初めて見るものだった。
言葉が、口を衝いて出た。
「…なあ、皆月、お前、照れてるのか?」
「は?」
ガラスに映った皆月が、本調子を取り戻したかのように、般若の顔となる。
「何言ってんの? 照れてないし」
そして、ガラス戸を押して開けると、僕を外に押し出した。
「ほら、帰るよ」
「いやいや…」
もうすっかり慣れた僕は振り返って、皆月の額を小突いた。
「目が泳いでたし…、口元がワカメみたいになってた」
「なによ、ワカメって…」
そう言った皆月は、また口を一文字に結び、水底で揺らめくワカメのように、もごもごと動かした。心なしか、頬が赤くなっている。ここから小一時間はちょっかいを掛けてやってもよかったのだが、流石の僕も、そこまでは捻くれていない。
「だから私は…」
「それで…、過去を書き換える話だけど…」
彼女の面目を保つためにも、話を変えた。
「昨日言った通りだよ。このまま、書き換えておくれ。内容は、君に任せる。僕が救われるストーリーを書いてくれ」
そう言ったのだが、皆月は返事をすることなく、僕の横を通り過ぎた。
聞こえなかったのかと思い、僕は乾いた空気を吸い込んだのだが、彼女はさっさと駅の方へと歩いて行こうとする。慌てて追いかけ、建物から離れた途端、切りつけるような寒風が吹きつけた。
目に染みるような痛みが走り、涙が滲む。
頬を伝った涙を拭い、顔を上げると、皆月が前に立っていた。
「皆月…」
戻ってきてくれたことに安堵し、さっきの言葉を放とうと息を吸い込む。
が、皆月は再び踵を返し、歩き始めた。
三歩進んで立ち止まり、首だけで、振り返る。
「休みの日は、仕事の話、したくないから」
「わかったよ」
ああ、そういうことか…って思い、頷く。
「じゃあ、また明日、話すよ」
「嫌よ。聞きたくない」
風で掻き消えそうな僕の声に重ねて、皆月は言った。
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「聞きたくない」
僕を引き寄せ、キスをするんじゃないか? ってくらい顔を近づけた皆月は、そう言った。
でも僕は、聞き取れなかった。
心臓が、耳の奥で大暴れをしていたからだ。
「あ…」
その猫のような目を見ていられず、半歩下がる。
「私が、さっき言いたくて、でも、恥ずかしくなって言えなかったこと」
皆月は半歩近づき、言った。
「後悔の無い道を選んだって、悪くないんじゃないかって」
「…後悔の、無い道?」
一瞬は何言っているんだ? と首を傾げたが、耳の奥で、さっきの彼女の言葉が再生された。
『やることやって、潰れたなら、後悔はないじゃない?』
まさか…。
「おいおい、皆月、お前…」
彼女が言いたかったことを悟った僕は、脱力するとともに苦笑した。
皆月はばつが悪そうに首を横に振る。
「別に、これを言うために、あんたをここに連れてきたわけじゃないから」
そして、赤く染まった頬を掻きながら、言葉を紡いだ。
「私だって、もう潰れる運命のショッピングモールを、細やかに応援しているからね…。理屈で動いているわけじゃないの。だから、ナナシさんも、過去の復元も、そうやって動けばいのかな? って…」
僕は最初、「新しい過去を書く」という皆月の提案を無視して、過去の復元をすることを選んだ。結果は悲惨なものだった。復元されたものは、どれも忌まわしい記憶で、藻掻けば藻掻くほど、惨めになっていく。
だからもう、すべて諦めて、新しい過去を書くという選択をしたのに…、最初に言った君が、それを言うのか。
「とりあえずさ、過去、全部復元してみようよ。まあ多分、嫌なことばっかりなんだろうね。でも、もしかしたら、素敵なものも残っているかもしれないじゃない?」
「…それは」
そんなの、絶対にありえない…と言う言葉が、出なかった。そう言いきるに足る証拠が見つからなかったわけではなく、多分、僕もまだ期待をしていたのだと思う。
当たらないに決まっている宝くじを買うような、ほんのちょっとした、余興。
「もし、素敵なものが残っていたら、それは残しておいてあげる。後の嫌なことは、全部消してあげる。それでいいんじゃない?」
そこまで言った皆月は、白い息を吐き、乾き始めた唇を濡らした。
そして、風が途切れたタイミングで、言った。
「その方が、後悔は無いでしょ。いや、どうせ上書きして忘れるんだから、後悔するもしないも関係ないんだけど…、それでも、心に優しいっていうか…。いや、これから、嫌な過去ばかり復元していくから、こっちのほうが心に来るっていうか…」
「もういいよ」
みるみるしどろもどろになっていく皆月を、僕は手で制した。
そのまま、彼女の肩に触れる。
「…ありがとう。わかったよ」
「いや、だから、その…、ちょっと待ってね」
皆月は、このまま過去の復元を再開するに足る理由を探し、必死に頭を回転させていた。
だが、どう転んでも、今すぐに新しい過去を上書きした方が良い…という結論に至ってしまったのか、項垂れた。
諦めた彼女は、強引に話を進めた。
「とにかく、私は、あんたの過去を、復元したいの…」
「うん」
「あんたが、どんな人生送ってきたのか、知りたいの」
「うん」
「きっと、一つくらいは、素敵なものがあるかもしれないからさ…」
「わかってるよ」
狼狽して必死に言葉を絞り出す皆月を見ていられなくなって、僕は彼女の腕を掴み、引っ張った。
皆月は「あ…」と声を洩らしたが、すぐにそのスカートの裾から覗く足を動かし、僕の横に並ぶ。決して、僕の手を振り払おうとはしなかった。
「また明日からも、よろしくな」
「うん、よろしく」
駐車場の出口に差し掛かった時、街灯の光に照らされて、白い雪がちらつくのがわかった。
鼻先に触れたそれは一瞬で水となる。
僕たちは、今日の映画の感想を言い合った。
「ねえ、どれがおもしろかった?」
「そうだな、大体は面白かったけど、あの恋愛映画、良かったな」
「ああ、やっぱり? 良かったよね。特に、ヒロインの秘密が明かされるところ」
「冗長なシーンが多かったけど、全部あのためにあったんだな」
「ただ、主人公の男があんまり好きじゃない」
「そうかな? あの主人公にしてあのヒロインだと思うけど」
「俳優よ。俳優。この前は、コメディ映画に出てて、うるさい演技してたのに、今回はあんなしっとりとした役になっちゃって」
「演技の幅が広いことは良いことだよ」
「コメディの方に引っ張られて、ちょっと集中しきれなかったの…」
「そうなのか…。名前、なんて言うんだっけか」
「知らない。俳優に興味持つほど、映画好きじゃないし」
「それでも、演技云々は言うんだな」
「やっぱり見やすい方が良いもの」
僕たちは人気の無い道を歩く。
ふと目を動かすと、皆月の横顔が見えるわけだが、心なしか口角が上がっていた。きっとそれを指摘すると彼女は怒って、への字に歪めるだろうから、敢えて指摘しない。
まるで、目覚めた朝に虹を発見した時のような、些細な喜びを抱きしめて、僕は歩を進める。
相変わらず過去は悲惨だけど、僕の中で、何かが変わり始めた気がした。
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須藤はそんな黒蜜先生に小説を書いていることがバレてしまう。リアルの世界でファン第1号となった黒蜜先生。須藤は先生でありファンでもある彼女と、小説を介して良い関係を築きつつあった。
だが、その裏側で黒蜜先生の人気をよく思わない女子たちが、陰湿な嫌がらせをやりはじめる。解決策を模索する過程で、須藤は黒蜜先生のヤバい過去を知ることになる……。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。
体育座りでスカートを汚してしまったあの日々
yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
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表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
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