僕の名は。~my name~

バーニー

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第四章【キスの6番 惰眠に5番】

第四章 その③

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 それは、本当に不思議な時間だった。
 僕と皆月は、真ん中くらいの席に隣り合って腰を掛けて、スクリーン上で繰り広げられる銃撃戦を観た。カメラがぐりぐりと動き、血も激しく噴き出し、薬莢が転がる音や弾を装填する音がリアルで、見ごたえのある映像だった。でも、アメリカの映画のようで、登場人物全員が英語でしゃべるものだから、何を言っているのかさっぱりだった。唯一聞き取れたのは、おそらく最終決戦に臨む前の、ヒロインからの「Good luck」だった。
 アクション映画が終わって、次に向かったスクリーンで見たのは、コメディ映画だった。僕は知らなかったのだが、どうやら人気のギャグ漫画を実写化させたものらしく、冒頭で原作コミックの紹介という、メタ的なギャグを披露していた。
 CG感満載で、登場人物らが吹き飛び、睨めっこしているかのような変顔、聞いていてこっちが恥ずかしくなる演技。
 これのどこがおもしろいんだ? とは思ったが、コメディ映画なんだから、笑ってなんぼだろう…と思い、わざとらしく乾いた笑みを洩らした。
 視線を感じて振り返ると、白けた顔をした皆月が「こいつまじか」と言いたげに口を歪めていた。何か勘違いをされてしまったようで、結局途中で出るようなことはせず、最後まで見ることとなった。
「ナナシさんって、ああいう低俗な笑い好きなんだね」
「…そういうわけじゃないんだ」
 口直しをするように、次は恋愛映画を見た。これが結構面白かった。
 美しい音楽、引きこまれるような映像、そして、役者の演技。すべてが情緒を刺激してきて、ポップコーンなんて食べる余裕も無く、僕はスクリーンに釘付けだった。中盤、目を覆いたくなるような凄惨なシーンがあったものの、ラストは、しっかりとハッピーエンドに着地してくれた。ミステリー要素もあって、見応えのある良作だった。
 この爽やかな気分のまま終われば良かったのだが、皆月に手を引かれ、僕はまたスクリーンを移動した。
 次に見たのが、アニメ映画だった。
 幼女向けのようで、登場するキャラクターは可愛らしく、実写とは違うカメラワークで、楽しめる要素はあったのだが、それまでだった。ストーリーは所詮子供向けで、緊迫感のあるものではなく、アニメ特有の演技も、さっき見たコメディ映画に通じる部分があり、どうしても見ていられなかった。何より、三回連続で映画を見たことで、僕は少し疲れていたんだ。
 だから、主人公らの友達が敵に攫われてしまった時点で、僕はシートに背をもたれ、うつらうつらとしていた。
 シアター全体に、彼女らが戦う声、何かが炸裂する音、気分を高揚させるようなBGMが響いていたが、それすらも聞こえないほどに、意識を失っていく。
 そしてついには、夢の世界へと飛び込んでいた。
 どのくらい眠っただろうか?
 肩を突かれて、目を覚ました。
 顔を上げると、皆月が見下ろしている。
「起きたね」
「あ…、ごめん」
 口を開けていたせいで、喉が渇いて上手く声が出ない。慌ててコーラを飲んだが、氷が融けきって薄くなってしまっていた。
 口の直しのためにポップコーンを…と思ったが、膝の上に置いていたはずのカップが無い。
 寝ぼけ眼を凝らすと、床に大量のポップコーンが散らばっていた。
「あ…、ああ…」
 やっちまったな…と思い、頭を抱える。
「ごめん」
「いいよ。吉岡さんが掃除してくれるし」
 皆月はそう言うと、明るくなった入り口の方を顎でしゃくった。
「それより、帰ろう。もうすぐ閉館だから」
「あ、うん」
 結局、閉館までここにいたのか。
 スクリーンを出た僕たちは、吉岡さんにポップコーンを零してしまったことの謝罪と、一日居させてくれたことの礼を告げ、映画館を出た。
 時間はもう九時を回っていて、専門店のシャッターは軒並み下ろされ、まるで廃墟に迷い込んだかのようだった。だが、昼間来た時よりも人は多く、出口に行くまでに、六人ほどの男性や女性とすれ違った。
「食品館は十時までなの。この時間は、仕事帰りの人が、半額の弁当を狙って買いに来るから」
「へえ…」
 閉館が近くなると、息を吹き返すショッピングモールか…。
「そんなことより、ごめん」
 僕は皆月の横に並んで謝った。
「せっかく誘ってくれたのに、眠っちゃって…」
「良いよ別に。私も寝てたから」
 皆月のそっけない発言に、僕は耳を疑った。
「眠ってたって、皆月も?」
「そりゃもちろん。あのアニメ映画が終わって、ドキュメンタリーが始まったんだけど、冒頭なんて一ミリも覚えてないわ」
「そ、そうか…」
 彼女も眠っていたことを知り、なんだか助かった気分になる。
「映画好きの皆月も、眠ること、あるんだな」
「別に、好きってわけじゃないよ」
 皆月は肩を竦め、首を横に振った。
「映画のタイトルはおろか、監督の名前も、出演者の名前も、使われている曲とか、ロケの舞台とか…全く知らないし、憶えていない。ただ、面白かったなあ…、つまらなかったなあ…、良い演技だったなあ…、酷い演技だったななあ…。そのくらいの感想しか抱かないの。だから、別に、途中で眠ることに罪悪感なんてないし、眠っている人を見たところで怒らないよ。むしろ、この人も私と同じで、退屈だと思ったのかな? って思えて、ちょっと嬉しくなるから」
「その割には、常連になっているみたいだし…」
 そもそも、毎週通って、一日に映画を四本も五本も見るのは、それは「映画好き」の領域に踏み込んでいるのではないか?
 だが、皆月は頑なにそれを否定した。
「だから、本当に、映画は好きってわけじゃないの。ほら、暇なとき、スマホを延々と眺めたり、テレビをずっと流したりするでしょう? そんな感じ」
「だったら、スマホ延々と眺めたり、テレビをずっと流したりすればいいんじゃないか?」
 言った後で、少しひねくれ過ぎた意見になってしまったのではないか? と思う。くだらない暇つぶしなんだ。誰がどう過ごそうが、それはその人の勝手じゃないか。
 慌てて、撤回する。
「ごめん、変な言い方したな…。忘れてくれ」
「いや…」
 皆月は歩きながら顎に手をやると、首を横に振った。
「まあ、そうなんだろうね。きっとそうするだけでも、私の休日は過ぎていくんだと思う」
 でも…と呟いた彼女は立ち止まり、元来た道を振り返った。
 僕も釣られて振り返る。
 シャッターの降りた店が延々と続き、奥に行くにしたがって、電灯の明かりが弱くなっていた。その、靄が掛かるような影の差し方は、僕たちの胸にずっしりとした不安を抱かせた。
 いつ磨いたのかわからない、くすんだ床。足を動かすと、ざらっとした感触が残る。
「このショッピングモールが、何故か放っておけなくてね…。一週間に一度は訪れないと、気が済まないの。まるで、年老いた犬に会いに来ているみたいな…」
「老犬か…」
 言いえて妙な例えに、僕は感心した。
「私がここで何かを買ったところで、いずれは潰れちゃうんだろうね。きっと、取り壊しの計画はもう進んでる。でも、じゃあ、もう行かないのはちょっと違うというか…」
 また、皆月は黙りこくる。下唇を湿らせると、言葉を紡いだ。
「多分、後悔するんじゃないかな…って」
 彼女はそう言った。
「もし、私がここに行かなかったら、もし潰れちゃったときに、自分のせいで潰れてしまったんじゃないかな? って思うかもしれないじゃない」
 そうでしょう?
 同意を求めるように、皆月の眠たげな眼が僕を見た。
 答えに悩み、僕は固まる。いやそもそも、いつもは現実的なことしか言わない彼女が、経営難で潰れるかもしれないショッピングモールに対し、一消費者の分際で、その行く末を憂うのが、たまらなく気持ち悪かった。
 それは彼女自身も理解しているようで、視線を逸らした。
「わかってるよ。そんなことはないって。別に、私のせいでここが潰れるわけじゃない。でも、私にできることと言えば、これくらいしかないでしょ」
 僕を見る。
「やることやって、潰れたなら、後悔は無いんじゃない?」
 歩いていると、出口が見えた。言わずもがな外は真っ暗になっていた。
 暖房が効いた店内から、凍り付くような外へと出ることを思うと、腕の辺りに鳥肌が立つ。それを振り払うようにドアノブに手を伸ばした時、ガラスの部分に、皆月の顔が反射して見えた。ガラスを通して見た彼女の顔は、初めて見るものだった。
 言葉が、口を衝いて出た。
「…なあ、皆月、お前、照れてるのか?」
「は?」
 ガラスに映った皆月が、本調子を取り戻したかのように、般若の顔となる。
「何言ってんの? 照れてないし」
 そして、ガラス戸を押して開けると、僕を外に押し出した。
「ほら、帰るよ」
「いやいや…」
 もうすっかり慣れた僕は振り返って、皆月の額を小突いた。
「目が泳いでたし…、口元がワカメみたいになってた」
「なによ、ワカメって…」
 そう言った皆月は、また口を一文字に結び、水底で揺らめくワカメのように、もごもごと動かした。心なしか、頬が赤くなっている。ここから小一時間はちょっかいを掛けてやってもよかったのだが、流石の僕も、そこまでは捻くれていない。
「だから私は…」
「それで…、過去を書き換える話だけど…」
 彼女の面目を保つためにも、話を変えた。
「昨日言った通りだよ。このまま、書き換えておくれ。内容は、君に任せる。僕が救われるストーリーを書いてくれ」
 そう言ったのだが、皆月は返事をすることなく、僕の横を通り過ぎた。
 聞こえなかったのかと思い、僕は乾いた空気を吸い込んだのだが、彼女はさっさと駅の方へと歩いて行こうとする。慌てて追いかけ、建物から離れた途端、切りつけるような寒風が吹きつけた。
 目に染みるような痛みが走り、涙が滲む。
 頬を伝った涙を拭い、顔を上げると、皆月が前に立っていた。
「皆月…」
 戻ってきてくれたことに安堵し、さっきの言葉を放とうと息を吸い込む。
 が、皆月は再び踵を返し、歩き始めた。
 三歩進んで立ち止まり、首だけで、振り返る。
「休みの日は、仕事の話、したくないから」
「わかったよ」
 ああ、そういうことか…って思い、頷く。
「じゃあ、また明日、話すよ」
「嫌よ。聞きたくない」
 風で掻き消えそうな僕の声に重ねて、皆月は言った。
 僕は顔を上げ、耳を疑う。北風のせいで、聞き間違えたのだと思った。
 皆月はなびく髪を鬱陶しそうに掻き上げると、歩いてきて、僕の胸倉を掴んだ。
「聞きたくない」
 僕を引き寄せ、キスをするんじゃないか? ってくらい顔を近づけた皆月は、そう言った。
 でも僕は、聞き取れなかった。
 心臓が、耳の奥で大暴れをしていたからだ。
「あ…」
 その猫のような目を見ていられず、半歩下がる。
「私が、さっき言いたくて、でも、恥ずかしくなって言えなかったこと」
 皆月は半歩近づき、言った。
「後悔の無い道を選んだって、悪くないんじゃないかって」
「…後悔の、無い道?」
 一瞬は何言っているんだ? と首を傾げたが、耳の奥で、さっきの彼女の言葉が再生された。
『やることやって、潰れたなら、後悔はないじゃない?』
 まさか…。
「おいおい、皆月、お前…」
 彼女が言いたかったことを悟った僕は、脱力するとともに苦笑した。
 皆月はばつが悪そうに首を横に振る。
「別に、これを言うために、あんたをここに連れてきたわけじゃないから」
 そして、赤く染まった頬を掻きながら、言葉を紡いだ。
「私だって、もう潰れる運命のショッピングモールを、細やかに応援しているからね…。理屈で動いているわけじゃないの。だから、ナナシさんも、過去の復元も、そうやって動けばいのかな? って…」
 僕は最初、「新しい過去を書く」という皆月の提案を無視して、過去の復元をすることを選んだ。結果は悲惨なものだった。復元されたものは、どれも忌まわしい記憶で、藻掻けば藻掻くほど、惨めになっていく。
 だからもう、すべて諦めて、新しい過去を書くという選択をしたのに…、最初に言った君が、それを言うのか。
「とりあえずさ、過去、全部復元してみようよ。まあ多分、嫌なことばっかりなんだろうね。でも、もしかしたら、素敵なものも残っているかもしれないじゃない?」
「…それは」
 そんなの、絶対にありえない…と言う言葉が、出なかった。そう言いきるに足る証拠が見つからなかったわけではなく、多分、僕もまだ期待をしていたのだと思う。
 当たらないに決まっている宝くじを買うような、ほんのちょっとした、余興。
「もし、素敵なものが残っていたら、それは残しておいてあげる。後の嫌なことは、全部消してあげる。それでいいんじゃない?」
 そこまで言った皆月は、白い息を吐き、乾き始めた唇を濡らした。
 そして、風が途切れたタイミングで、言った。
「その方が、後悔は無いでしょ。いや、どうせ上書きして忘れるんだから、後悔するもしないも関係ないんだけど…、それでも、心に優しいっていうか…。いや、これから、嫌な過去ばかり復元していくから、こっちのほうが心に来るっていうか…」
「もういいよ」
 みるみるしどろもどろになっていく皆月を、僕は手で制した。
 そのまま、彼女の肩に触れる。
「…ありがとう。わかったよ」
「いや、だから、その…、ちょっと待ってね」
 皆月は、このまま過去の復元を再開するに足る理由を探し、必死に頭を回転させていた。
 だが、どう転んでも、今すぐに新しい過去を上書きした方が良い…という結論に至ってしまったのか、項垂れた。
 諦めた彼女は、強引に話を進めた。
「とにかく、私は、あんたの過去を、復元したいの…」
「うん」
「あんたが、どんな人生送ってきたのか、知りたいの」
「うん」
「きっと、一つくらいは、素敵なものがあるかもしれないからさ…」
「わかってるよ」
 狼狽して必死に言葉を絞り出す皆月を見ていられなくなって、僕は彼女の腕を掴み、引っ張った。
 皆月は「あ…」と声を洩らしたが、すぐにそのスカートの裾から覗く足を動かし、僕の横に並ぶ。決して、僕の手を振り払おうとはしなかった。
「また明日からも、よろしくな」
「うん、よろしく」
 駐車場の出口に差し掛かった時、街灯の光に照らされて、白い雪がちらつくのがわかった。
 鼻先に触れたそれは一瞬で水となる。
 僕たちは、今日の映画の感想を言い合った。
「ねえ、どれがおもしろかった?」
「そうだな、大体は面白かったけど、あの恋愛映画、良かったな」
「ああ、やっぱり? 良かったよね。特に、ヒロインの秘密が明かされるところ」
「冗長なシーンが多かったけど、全部あのためにあったんだな」
「ただ、主人公の男があんまり好きじゃない」
「そうかな? あの主人公にしてあのヒロインだと思うけど」
「俳優よ。俳優。この前は、コメディ映画に出てて、うるさい演技してたのに、今回はあんなしっとりとした役になっちゃって」
「演技の幅が広いことは良いことだよ」
「コメディの方に引っ張られて、ちょっと集中しきれなかったの…」
「そうなのか…。名前、なんて言うんだっけか」
「知らない。俳優に興味持つほど、映画好きじゃないし」
「それでも、演技云々は言うんだな」
「やっぱり見やすい方が良いもの」
 僕たちは人気の無い道を歩く。
 ふと目を動かすと、皆月の横顔が見えるわけだが、心なしか口角が上がっていた。きっとそれを指摘すると彼女は怒って、への字に歪めるだろうから、敢えて指摘しない。
 まるで、目覚めた朝に虹を発見した時のような、些細な喜びを抱きしめて、僕は歩を進める。
 相変わらず過去は悲惨だけど、僕の中で、何かが変わり始めた気がした。
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