僕の名は。~my name~

バーニー

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第三章 【変われなかった者 変わり果てた者】

第三章 その⑪

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 お金を取ってくるから、一度、俺の部屋まで来てほしい。
 東条健斗はそう言うと、その太った身体を揺らしながら歩き出す。
 僕と皆月は顔を見合わせると、なんとなく頷き合って、その皺だらけの背中を追って歩き出した。
「この近くに住んでいるのか?」
「うん。あんまり良いところじゃないよ」
 そう言った途端、角を曲がり、日当たりの悪いじめっとした道に入る。
「今は何やっているんだ?」
「工場でアルバイトしてる」
 東条健斗は、僕の方を振り返らず、頭を掻いた。
「安月給で毎日大変だよ。まあ、全部自業自得なんだけどね」
 あっはっは…と、乾いた自虐。
「ええと…、その…、君は?」
「僕か?」
 僕は視線を足元に落とした。
「まあ、それなりに、だらだら過ごしてるよ」
「そうか…、お互い、大変だね」
 そう言った瞬間、乾いた風が吹いてきて、僕たちの頬を撫でていった。
 寒いな…そうだな…のやり取りくらいあっても良かったのに、音さえも凍り付かされたかのように、静寂が辺りを包み込んだ。
 東条健斗は、そそくさと歩く。僕はその背中を追う。皆月は、まるで関わり合いになりたくない…とでも言うように、十メートルくらいの間を開けて歩いていた。
 そうして、僕たちは言葉を交わすことなく歩き、あるアパートに辿り着いた。
 宣言通り、酷いアパートだった。
 木造二階。屋根瓦の数枚が落ちて、地面で粉々になっている。屋根の棟の部分は、心なしか歪んでいた。一階の三部屋は空き部屋。窓ガラスは割られ、壁は雨風に晒されて灰色にくすんでいる。駐車場はあるのだが、雑草が生え散らかし、おばあさんのものと思われる、汚い下着が風に揺れていた。
「俺の部屋は、二階の端」
 東条健斗は苦笑しながら言うと、今に落ちそうな階段へと歩いていく。
 途中で立ち止まり、僕の方を振り返った。
「せっかくだから、見て行けよ。俺の部屋。惨めで笑えるよ」
「…そうだな」
 正直どうでもよかった僕は、反射で頷いた。
 その時皆月が追い付いてきたので、僕は彼女に言った。
「部屋を見せてくれるってよ」
「なんでまた。興味無いんだけど」
「嘲笑えってことだよ」
 二人で一緒に階段を上り、東条健斗を追った。
 そして、砂埃が降り積もった通路に出ると、一番奥にあった扉の前に立った。
 先に入った東条健斗が、すりガラスの向こうで、ごそごそと動いている。
「開けるぞ」
 そう言ってドアノブに手を掛けた。
 捻り、引っ張った瞬間、蝶番が化け物のような悲鳴を上げる。
 扉がゆっくりと開き、現れたのは、ゴミ屋敷だった。
 玄関らしきところに、白いゴミ袋が三つ積み上がっている。その先は台所となっているのだが、コンロには黒く汚れた鍋が置いてあり、シンクは底が見えないほど、皿やら弁当箱の空やらが積み上がっている。しばらく水を流していないのか、下水の臭いが鼻を突いた。
「うわ…」
 皆月は素直に顔を顰めると、後退った。
「何この部屋。こんなところに人を呼ぼうとしたわけ?」
「ごめんごめん」
 東条健斗が、短い廊下に積み上がったゴミ袋を避けながら言う。
「笑えるだろう? すぐにお金をとるから、その辺りで待っていてよ」
「ああ、うん」
 ゴミ袋を端に追いやり、足の踏み場を作った彼は、そのまま奥の居間に入っていった。
 居間もまた、玄関や台所のように、ゴミ袋が大量に積み上がっていて、彼はその中を泳ぐように移動していた。
「ねえ。ナナシさん…」
 隣にいた皆月が、僕の手をついた。
「帰らない? 私、こういう人間嫌いなんだけど」
「じゃあ、君だけでも帰りなよ。付き合わせて悪いな」
「そういう問題じゃないの」
 皆月はもどかしそうな顔をして首を横に振る。
「…こんな得体のしれない男のもとに、女の子にフラれて傷心中のナナシさんを置いて帰れるわけないじゃん」
「心配してくれるのか? 優しいことだな」
 皆月からそういう言葉が飛び出すとは思っていなかった僕は、からかいの意味を込めて、彼女の肩を突いた。
 どうせすぐに反撃してくる…と思い、身構える。
 だが皆月は横目で僕の方を一瞥すると、ため息をついた。
「…まあ、嫌な目に遭うといいよ。人間性ってのはね、部屋に出るから」
 その時だった。
「ごめん、ちょっと入って来てくれないか?」
 部屋の奥から、東条健斗の呼ぶ声が聴こえた。
「お金を入れた袋を、壁と机の隙間に落としちゃったんだ…」
「え…」
 それはつまり、「取るのを手伝ってくれ」ということか。
「わかったよ」
 僕は何気に頷くと、玄関に踏み入れる。
 だが、生ごみの臭いが鼻を突いた瞬間、これから靴を脱いで部屋に上がり、廊下を通って居間に入った後に、ゴミの山の中から金の入った封筒を回収する…という作業が、とんでもなく億劫に思えてしまった。
 踏み出したまま固まった僕は、なんとなく、皆月の方を振り返る。
「どうする、皆月?」
「どうするもこうするも、返事したんだから行かないと」
「まあ、そうだよな」
「まあ、この人にタダ飯を奢られたいと思うほど、私、落ちぶれていないから」
「とはいえ、誠意を見せようとしている相手を放って帰るほど、僕も落ちぶれたくはないよな」
 いやまあ、まじで、こいつに虐められていた…という記憶は無いのだが…。
 入っていくしか選択肢が無かった僕は、腹を括って靴を脱いだ。
 心なしか、床がべたべたとしているから、指を折って、親指と踵だけで身体を支えると、そろそろと廊下を進んだ。
 半開きになった扉を押して、居間に入る。
 案の定酷い部屋だ。ゴミ袋は縛ってそのまま壁際に追いやられ、一つの山を形成している。それを覆い隠すように掛けられた衣類の数々。奥の窓にはカーテンがされているのだが、サイズが合っておらず、下から陽光が差し込んでいた。
 横を見ると、机と壁の隙間を覗き込んでいる東条健斗がいた。
 封筒を取ることに必死になっている彼は、僕が入ってきたことに気づいていない。当然、ズボンがずれてパンツとお尻の割れ目が見えていることにも気づいていない。
「僕はどうすればいい?」
 そう聞いて初めて、僕の方を振り返った。
「ああ…、ありがとう。じゃあ、机をずらすのを手伝ってくれないかな? 多少、上のものが落ちても構わないから」
「わかったよ」
 見上げると、机の引き出しには大量の本が収納されていた。と言っても、そのほとんどが週刊誌。下世話な話に興味があるのか、それとも、収録されているヌードグラビアに興味があるのか…。個人的には後者であってほしい。その方が、人間的に好感を抱けた。
「じゃあ、ここを持つよ」
 そう言った僕は、なんとなく、机の右端を掴んだ。
「君は左側を持って…、手前側に引っ張り出す感じでいいかな?」
 そう提案したのだが、東条健斗からの返答は無かった。
「東条…?」
 机の端は持ったまま、首だけで振り返ろうとした…。
 その時だった。
「うわっ!」
 背後から、東条健斗の情けない悲鳴が聴こえた。
 それから、ドンッ! と、何か重いものが床に転がる音。
 夢から覚めたような気分になった僕は、机から手を離し、身体ごと振り返った。
 舞い散る埃の中、ゴミ袋の山の傍に、東条健斗が横たわっていた。
 苦痛に顔を歪めた彼は、脂肪まみれの横腹を抑えて、殺虫剤を掛けられたゴキブリのようにのたうち回っている。
「おい…、どうした?」
 何かに躓いて、転んだのか?
 そう聞こうとしたとき、傍に皆月が立っていることに気づく。
 彼女は目を見開き、頬には玉の冷や汗をかいていた。うまく息が吸えないのか、肩が大きく上下し、右脚がほんの少し上がったまま固まっている。
 よく見れば、靴も履いたまま。
 明らかに、異常事態。
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