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第三章 【変われなかった者 変わり果てた者】
第三章 その④
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「最悪の気分だ」
そう吐き捨てると、皆月の横に座る。そして、膝に顔を埋めた。
「くそ、嫌なこと、思い出した…」
「じゃあ、それ教えて。メモとるから」
皆月は淡々と言うと、ボールペンをノックする。
「ええと、二人くらいと話してたよね? あの最初の女の人は誰なの? ナナシさんとどういう関係なの?」
「ちょっと、今は無理」
嫌な過去を思い出して、気分が悪くなっているんだ。今、アウトプットなんてしようものなら、ゲロどころか内臓が吐き出されてしまうような気がした。
「少し、休む」
「休む時間なんて無いでしょ。できる限り全員と話して、それから、全員の名前と、どういう関係だったかを思い出して」
「無理、行きたくない」
僕はガキみたいに首を横に振った。
そんな僕に、皆月は呆れたようなため息をついた。
「わかり切ったことでしょ。ナナシさんあんた、治安の悪い場所とわかっていて行ったくせに、いざ刺されたら悲劇のヒロインぶるタイプ?」
「わかっていても、心に来るものだよ」
顔を上げた僕は、涙が滲んだ目を拭い、離れたところで和気藹々とする級友らの様子を見た。
「まあ、こんなものだろうな」
僕は中学時代から、周りの者に邪険に扱われていた…というわけだ。
「ああ、そうだ…、どんどん思い出してきた…」
確か二年の春くらいに、僕は伊村にこんなことを言われたんだっけか…。
『死人みたいな顔をしているね』って。
何のタイミングで言われたんだっけ? 確か、何気ない日常会話の中だった。本当に、ふとしたタイミングで、そう言われたんだ。今思えば、それはイジリで笑いを取るようなものだったのかもしれないが、当時の僕にはかなり堪えて、以来あいつのことが大っ嫌いになったんだ。
それだけじゃない。伊村と話していた女…、藤宮志保にも、こんなことを言われた。
『貧乏が移る』って…。
「…………」
伊村に言われたことはどうでもいい。もう笑い飛ばしてやるよ。
でも、藤宮志保に言われた言葉、「貧乏が移る」って、どういうことだ? そのまま捉えるとしたならば、当時の僕が、みすぼらしい貧乏人だったってことなんだが…。
そう言えば、僕の幼少期って…、どんなものだったんだっけ…?
確か…。
「それで? ナナシさんにしつこく話しかけていた人は誰?」
記憶の糸を辿ろうとした瞬間、皆月の声が割り込んできた。
「あの身体つきの良い人。あの人だけは、なんか、ナナシさんのことをよく知っている風だったね。ってか、今も見てきているし…」
顔を上げると、人混みの隙間から、島田はまだこちらの様子をチラチラと伺っていた。
「島田啓馬ね…」
僕は彼の方を見ながらそう言った。
「僕のことをサンドバックだと思ってたやつ」
「サンドバック…」
皆月は一瞬固まったが、意味を理解したのか、「ああ…」と洩らした。
「そんな回りくどい言い方しなくたって、『虐められていた』で十分よ。それで? いつ頃から虐められてたの? どんな感じの虐められ方をしてたの? それはどのくらいまで続いていたの? あと、さっきの会話の内容も教えて」
僕はため息をつくと、頬を掻いた。
「よくもまあ、心に傷を負ったやつにそうずけずけと尋ねられるよな」
「仕事だから」
「あのなあ…」
まあ、いいや…。
喉の奥に苦いものがこみ上げるような気がしたが、唾と一緒に呑みこみ、言った。
「あいつ、結構上手いサッカー選手だったんだ。代表選手にも選ばれて、みんなの尊敬の的になる奴…。それを鼻にかけて、好き勝手やってたんだよ。人のこと蹴って、パシリに使ってた」
「ナナシさんってパシリだったんだね。何円むしり取られたの?」
「いや…、あいつは、金持ちのボンボンしか狙わなかったから、僕から金は取られてない。でも…、よく蹴られたり、殴られたりした。担ぎ上げられて、真冬の濁ったプールに突き落とされたり…」
そこで、言葉が途切れる。
「なになに?」
皆月が耳を寄せてきた。
僕は仕方なく言った。
「その…、一回、裸に剥かれて、女子の前に放り出されたことあったわ…」
「へえ…」
恥ずかしくて皆月の顔は見なかったけれど、きっと空を貫くくらいに、口角が上がっているのだと思った。
僕は頭を掻いて、無理やり話を終わらせる。
「もういいだろ。とにかくあいつには、嫌なことばっかりされてきた。二年と三年の間はずっと…」
「それで? さっきは何の話をしていたって?」
「…………」
もう口を開きたくなかったが、鬱憤晴らしのつもりで言った。
「僕に、謝りたいんだとよ」
「へえ」
皆月の顔を見ると、やっぱり、その口元は三日月のように歪んでいた。
「良かったじゃん。もう苦しめられることは無いね」
心にも思っていないことを、彼女は明瞭に放つ。
僕はため息をつき、頬杖をついた。
「天罰の一つでも落ちたらよかったのにな…」
僕の一言に、皆月は耐えきれなくなって吹き出す。
「なにそれ」
僕は気にせず続けた。
「あいつ、スポーツ推薦で中心大学に行ったんだとよ。有名大学。小豆島のことを『アズキトウ』って読んでたやつがだ。楽でいいよな。玉遊びしてるだけで、有名企業への就職も決まってるって。まあ、それだけ恵まれているからこそ、クズで、人間だとも思っていない男に謝ろう…っていう心の余裕ができるんだろうけど…」
「九十分走り続ける地獄にぴったりの待遇だと思うけどね」
皆月はそう乾いた声で言いながら、左手のメモに何やら書き綴った。それから、僕の真似をするように頬杖をついて、島田の方を見る。
「良い名前だね。あの人」
「え…」
「運のいい名前だ。あの名前にはきっと、栄えある過去が保存されてるんだろうね。そして、そういう過去を持つ人は大体、これからの未来も保証されている…」
ペンを耳に掛けた皆月は、空いた手を掲げ、閉じたり開いたり、開いたり閉じたり。
「きっと、途切れることなく、幸運があの人にはやってくるんだよ」
「…そう」
「そしてナナシさんには、惨めな人生が待っていると」
「うん、知ってる」
「別に不平等じゃない。これが世界の仕組み。不平等が平等なんだと、私は思うけどね」
「よせよ」
僕は皆月を手で制した。
「別に、世の条理を憎んでるわけじゃない。そう話を壮大にしないでくれ。気分が悪い」
「じゃあ何が言いたいの? さっきから恨めしそうに、周りを見ちゃって」
皆月は仕返し…と言わんばかりに、僕の脇腹を小突いた。
僕は横目で彼女を睨みながら、ぽつりと言った。
「ただ、あの中に入って見たくなっただけだよ…」
別に、世の中が不平等だって構わないさ。幸せな奴がいれば、そうじゃない奴がいたってもいい。そうしないと、成り立たないんだろう? でも、僕一人くらい、「あっち側」に立ったって、変わらないと思うんだけどな…。
当たりの多いくじを引いて、「アタリ」を引くだけ。
綺麗な水で満たされた湖に、一滴だけ、泥水が落ちるようなもの。
ただそれだけのことが出来ず、過去改変…だなんて脆弱な行為に走った過去の自分に腹が立つ…ただそれだけだ。
「ああ、帰りたい…」
膝に顔を埋め、そう洩らした。
その時だった。
そう吐き捨てると、皆月の横に座る。そして、膝に顔を埋めた。
「くそ、嫌なこと、思い出した…」
「じゃあ、それ教えて。メモとるから」
皆月は淡々と言うと、ボールペンをノックする。
「ええと、二人くらいと話してたよね? あの最初の女の人は誰なの? ナナシさんとどういう関係なの?」
「ちょっと、今は無理」
嫌な過去を思い出して、気分が悪くなっているんだ。今、アウトプットなんてしようものなら、ゲロどころか内臓が吐き出されてしまうような気がした。
「少し、休む」
「休む時間なんて無いでしょ。できる限り全員と話して、それから、全員の名前と、どういう関係だったかを思い出して」
「無理、行きたくない」
僕はガキみたいに首を横に振った。
そんな僕に、皆月は呆れたようなため息をついた。
「わかり切ったことでしょ。ナナシさんあんた、治安の悪い場所とわかっていて行ったくせに、いざ刺されたら悲劇のヒロインぶるタイプ?」
「わかっていても、心に来るものだよ」
顔を上げた僕は、涙が滲んだ目を拭い、離れたところで和気藹々とする級友らの様子を見た。
「まあ、こんなものだろうな」
僕は中学時代から、周りの者に邪険に扱われていた…というわけだ。
「ああ、そうだ…、どんどん思い出してきた…」
確か二年の春くらいに、僕は伊村にこんなことを言われたんだっけか…。
『死人みたいな顔をしているね』って。
何のタイミングで言われたんだっけ? 確か、何気ない日常会話の中だった。本当に、ふとしたタイミングで、そう言われたんだ。今思えば、それはイジリで笑いを取るようなものだったのかもしれないが、当時の僕にはかなり堪えて、以来あいつのことが大っ嫌いになったんだ。
それだけじゃない。伊村と話していた女…、藤宮志保にも、こんなことを言われた。
『貧乏が移る』って…。
「…………」
伊村に言われたことはどうでもいい。もう笑い飛ばしてやるよ。
でも、藤宮志保に言われた言葉、「貧乏が移る」って、どういうことだ? そのまま捉えるとしたならば、当時の僕が、みすぼらしい貧乏人だったってことなんだが…。
そう言えば、僕の幼少期って…、どんなものだったんだっけ…?
確か…。
「それで? ナナシさんにしつこく話しかけていた人は誰?」
記憶の糸を辿ろうとした瞬間、皆月の声が割り込んできた。
「あの身体つきの良い人。あの人だけは、なんか、ナナシさんのことをよく知っている風だったね。ってか、今も見てきているし…」
顔を上げると、人混みの隙間から、島田はまだこちらの様子をチラチラと伺っていた。
「島田啓馬ね…」
僕は彼の方を見ながらそう言った。
「僕のことをサンドバックだと思ってたやつ」
「サンドバック…」
皆月は一瞬固まったが、意味を理解したのか、「ああ…」と洩らした。
「そんな回りくどい言い方しなくたって、『虐められていた』で十分よ。それで? いつ頃から虐められてたの? どんな感じの虐められ方をしてたの? それはどのくらいまで続いていたの? あと、さっきの会話の内容も教えて」
僕はため息をつくと、頬を掻いた。
「よくもまあ、心に傷を負ったやつにそうずけずけと尋ねられるよな」
「仕事だから」
「あのなあ…」
まあ、いいや…。
喉の奥に苦いものがこみ上げるような気がしたが、唾と一緒に呑みこみ、言った。
「あいつ、結構上手いサッカー選手だったんだ。代表選手にも選ばれて、みんなの尊敬の的になる奴…。それを鼻にかけて、好き勝手やってたんだよ。人のこと蹴って、パシリに使ってた」
「ナナシさんってパシリだったんだね。何円むしり取られたの?」
「いや…、あいつは、金持ちのボンボンしか狙わなかったから、僕から金は取られてない。でも…、よく蹴られたり、殴られたりした。担ぎ上げられて、真冬の濁ったプールに突き落とされたり…」
そこで、言葉が途切れる。
「なになに?」
皆月が耳を寄せてきた。
僕は仕方なく言った。
「その…、一回、裸に剥かれて、女子の前に放り出されたことあったわ…」
「へえ…」
恥ずかしくて皆月の顔は見なかったけれど、きっと空を貫くくらいに、口角が上がっているのだと思った。
僕は頭を掻いて、無理やり話を終わらせる。
「もういいだろ。とにかくあいつには、嫌なことばっかりされてきた。二年と三年の間はずっと…」
「それで? さっきは何の話をしていたって?」
「…………」
もう口を開きたくなかったが、鬱憤晴らしのつもりで言った。
「僕に、謝りたいんだとよ」
「へえ」
皆月の顔を見ると、やっぱり、その口元は三日月のように歪んでいた。
「良かったじゃん。もう苦しめられることは無いね」
心にも思っていないことを、彼女は明瞭に放つ。
僕はため息をつき、頬杖をついた。
「天罰の一つでも落ちたらよかったのにな…」
僕の一言に、皆月は耐えきれなくなって吹き出す。
「なにそれ」
僕は気にせず続けた。
「あいつ、スポーツ推薦で中心大学に行ったんだとよ。有名大学。小豆島のことを『アズキトウ』って読んでたやつがだ。楽でいいよな。玉遊びしてるだけで、有名企業への就職も決まってるって。まあ、それだけ恵まれているからこそ、クズで、人間だとも思っていない男に謝ろう…っていう心の余裕ができるんだろうけど…」
「九十分走り続ける地獄にぴったりの待遇だと思うけどね」
皆月はそう乾いた声で言いながら、左手のメモに何やら書き綴った。それから、僕の真似をするように頬杖をついて、島田の方を見る。
「良い名前だね。あの人」
「え…」
「運のいい名前だ。あの名前にはきっと、栄えある過去が保存されてるんだろうね。そして、そういう過去を持つ人は大体、これからの未来も保証されている…」
ペンを耳に掛けた皆月は、空いた手を掲げ、閉じたり開いたり、開いたり閉じたり。
「きっと、途切れることなく、幸運があの人にはやってくるんだよ」
「…そう」
「そしてナナシさんには、惨めな人生が待っていると」
「うん、知ってる」
「別に不平等じゃない。これが世界の仕組み。不平等が平等なんだと、私は思うけどね」
「よせよ」
僕は皆月を手で制した。
「別に、世の条理を憎んでるわけじゃない。そう話を壮大にしないでくれ。気分が悪い」
「じゃあ何が言いたいの? さっきから恨めしそうに、周りを見ちゃって」
皆月は仕返し…と言わんばかりに、僕の脇腹を小突いた。
僕は横目で彼女を睨みながら、ぽつりと言った。
「ただ、あの中に入って見たくなっただけだよ…」
別に、世の中が不平等だって構わないさ。幸せな奴がいれば、そうじゃない奴がいたってもいい。そうしないと、成り立たないんだろう? でも、僕一人くらい、「あっち側」に立ったって、変わらないと思うんだけどな…。
当たりの多いくじを引いて、「アタリ」を引くだけ。
綺麗な水で満たされた湖に、一滴だけ、泥水が落ちるようなもの。
ただそれだけのことが出来ず、過去改変…だなんて脆弱な行為に走った過去の自分に腹が立つ…ただそれだけだ。
「ああ、帰りたい…」
膝に顔を埋め、そう洩らした。
その時だった。
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