僕の名は。~my name~

バーニー

文字の大きさ
上 下
24 / 75
第二章【青春盗掘】

第二章 その⑭

しおりを挟む
 四時間後…。
「良かったね。二時間もかからなくて」「これで単位は安泰だね」「それじゃあ、私はバイトがあるから」「あんたシフト入れすぎ」
 資料を完成させた僕たち…ではなく、彼らは、昼下がりの図書館の前で別れることとなった。
「もう迷惑かけんなよ」
 トシキがそう言って、僕の背中を叩く。
「…うん」
 痺れるような痛みを感じながら僕は頷くと、彼らに背を向け、逃げるように歩いて行った。
 何あいつ? 最後まで感じの悪い奴だったね。マジできもいわ…。
 カクテルパーティー効果って奴だろうか? 彼らが話す声が、ちくちくと首筋に突き刺さるのが分かった。
 拭うようにうなじを掻き、校門を潜って道路に出ると、アパートの方へとつま先を向けた。
「ねえ!」
 歩き出そうとした瞬間、高い声が僕を呼び止める。
 振り返ると、息を切らした綾瀬さんが立っていた。
 黒髪で眼鏡をかけた綾瀬さん。吹き付けた風が彼女のロングスカートを揺らし、陽光が頬を白くなぞっている。
 綾瀬さんは息を吸い込み、唾を飲み込むと、言った。
「さっきはごめんね。私の友達が。嫌だよね。頑張って作ったのに、否定されたら…」
「………ああ」
 何を言うのかと思えば、そんなことか。
「ええと…、その…、な、ナナシくん?」
 確かめるように言うから、頷く。
 綾瀬さんはほっとした顔をして続けた。
「ナナシくんの発表資料、良かったよ。凄く、見やすかった…」
 それはお世辞だろうか? それとも皮肉か? 見やすいくらいに、スッカスカだったって。
「どっちかの資料を選んで使おう…だなんて、意地悪なこと言っちゃってごめんね。まだ時間あるんだから、十分作り直す時間はあるよね。原稿なんて読むだけなんだから、リハーサルなんて時間かける必要ないし…」
 コツコツ…と、ブーツを踏み鳴らし、綾瀬さんが僕の方へと歩いてくる。
「本当にごめんなさい。あなたのこと勘違いしていたの。ちゃんと動いてくれているって、知らなかったから…」
 白い息を吐いた彼女は、僕が持っていた鞄を指さした。
「今からでもいいなら、一緒に資料、完成させない? やっぱり二人でやった方が良いと思うの。図書館も開いてるし…、別に、カフェでもいいし…」
 ナイフでも仕込んでいるかのような冷たい風が吹きつける。
 舞い上がった塵が目に入り、一瞬、薄暗闇が広がった。
 目を擦って顔を上げると、そこに立っていたのは、綾瀬さん。
 彼女は力を抜くように、ふっと笑った。
「だから…」
「その必要はない」
 その可愛らしい顔面を殴りつけるように、僕はそう言っていた。
「もう、あの資料で行こう」
 髪をかき上げたついでに、なんだか痒くなった額をガリガリと掻く。
「あの資料で良いよ。あれでいい」
 綾瀬さんは少し面食らったような顔をしたが、気を取り直した。
「それでいいの?」
「うん」
「そっか…」
 太陽の光が強い。おかげで、彼女の残念そうな顔がはっきりと見える。
「じゃあ、それで行こうか。本番、頑張ろうね!」
「いや、本番…。僕はいかない」
 俯いたまま、消え入るような声で言った。
 爪は皮膚に押し当てたままで、ガリガリ…ガリガリ…ガリガリ…と、掻き続ける。そのうち、焼けるような感覚が広がっていき、ようやく手を離す。
「どうでもいい。僕はやらない」
 顔を上げると、綾瀬さんは目を丸くし、固まっていた。
 我に返ったように瞳孔を動かすと、首を傾げてほほ笑んだ。
「え、どういうこと?」
「これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかないからね。本番、僕は授業に出ない」
「いや、ちょっと待ってよ。発表は二人一組で…」
「当日、体調不良だ…とでも言って休むよ。さすがに先生も、ペアがいないからって点数を与えないことなんてしないだろ? 貰えなかったら、僕が徹底的に抗議するから。君だけが単位を取れればいい」
「そんな、回りくどい…」
「そうだな、回りくどいよな…」
「だったら、一緒に、発表をしようよ」
 落ちたものを掴むみたいに、綾瀬さんが言った。
 僕は首を横に振る。
「気分が悪い。もう帰る」
「ちょっと!」
 彼女の冷えた手が、僕の腕を掴んだ。
「ごめんね! 私もあの子たちにきつく言えなかったから…。本当にごめん。こんなことで自暴自棄にならないでよ…」
 その手を、振り払う。
「事実だよ」
 視界に白く霞がかる。
「あいつらの言った通りだ。君に声を掛けなかった僕が悪い。勝手に資料を作り始めた僕が悪い。その資料の出来が悪かった僕が悪い」
「それは…」
 心のどこかで、「まだ否定してくれるだろうか?」と期待したが、そんなことは無く、綾瀬さんは言葉を詰まらせ、たじろいだ。
 自分が全部悪い癖に、まるで人を責めるような口調。そして、勝手に期待して、勝手に失望している。
 チッ! と、唾を含んだ舌打ちが、白い空に吸い込まれていった。
「それじゃあね。頑張って」
 綾瀬さんは「あ、ちょっと」と、まだ引き留めようと声をあげたが、僕は走り出し、角を曲がった。軋む脚に、羞恥心と後悔が纏わりついていた。それを踏み潰すように、振り払うように、歯を食いしばって加速する。
 走って、走って、走って…。
 まるで、水底に潜る様に、静かな路地を駆け抜けた。
 どのくらい、走っただろうか?
 十字路を横切ろうとしたとき、横から車が走って来た。
 あ…と思った瞬間、空間が裂けるような甲高い音が響き渡る。
 足が竦み、躓いた。
 そのままの勢いで転んだ僕は、電柱の傍にあったゴミ回収スペースに、頭から突っ込む。
 どすんっ! と鈍い衝撃が全身を走り、鼻の奥を生ごみの臭いが貫いた。
「…………」
 静まり返る路地。僕の心音だけが、激しく頭蓋骨の内側で響いている。
 助かった…と安堵した瞬間、罵声が聴こえた。
「このクソ野郎! 気を付けろや!」
 顔を上げると、軽トラックの窓が開いて、四十代くらいの男が顔を出した。
「死にたいなら迷惑かけずに死にやがれ!」
 顔を真っ赤にしてそう叫んだ男は、アクセルを強く踏み込むと、人を跳ねんとする勢いで走り出した。
 生ごみと排気ガスの入り混じった悪臭が、その場に残る。
「…………」
 小さくなっていくナンバープレートを眺めながら、僕は鼻で笑い、ゴミ袋にもたれかかった。
 柔らかくて、案外心地よかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...