僕の名は。~my name~

バーニー

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第一章【拝啓 忘れられた僕へ】

第一章 その④

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 確か僕はあの店を訪れて、担当してくれた真崎さんに過去の改変をお願いした。
 だというのに、目が覚めて以降、自分のことも、自分の名前も、この状況も、一切のことを覚えていないのは何故なのか…。
 その理由が判明したのは、それから五時間後のことだった。
「大変、申し訳ございませんでした」
 姓名変更師の真崎さんは、シャツのボタンをすべて止め、改まって僕に土下座をした。
 きつく縛った後ろ髪。馬の尻尾のように前に垂れて、白いうなじが見えた。
「お客様に使用したビタースイートを確かめたところ、データの破損が確認されました…」
 『ビタースイート』。かっこいい名前をしているけれど、要は記憶媒体。主に、過去改変を希望する人の名前を読み込み、改変後の過去を記録するために使われる。
 その記憶媒体に保存されたデータが、破損していただと?
 真崎さんは顔を上げると、手をついたまま言った。
「本来、出力機を通して、改変した過去をお客様の肉体に上書きするはずだったのですが…、何らかのトラブルが発生して、ビタースイートに保存されたデータの殆どが消滅してしまっていたようで…」
「消滅…、それで?」
 続きを促すと、真崎さんは頷く息を吸い込み、言った。
「破損したデータを出力してしまったために、お客様の肉体に、『無』が書き込まれたようなのです…」
「無が、書き込まれた…?」
 意味が分からない…、というよりも、いまいちぴんと来ない。
 真崎さん自身もあまり理解できていないのか、彼女は言葉を選びながら言った。
「はっきりしたことはお伝えにくいのですが…、今のお客様は、『名前が無い』状態にあるようです…」
「名前が、ない…」
 さっきから僕は、真崎さんが言うことを反復する人形となりつつあった。
「名前が無いって、どういうことだよ」
「あの…、お財布の中に、保険証か、運転免許証はございますか…」
「え…」
 そう言われて、僕は反射的に、ジーパンのポケットに触れていた。
 取り出したのは、折り畳み式の財布。開けて探して見ると、あった、保険証。
「ああ、そうだよ…」
 名前がわからなくなったって、こいつを確認すればいいんだよ。
 僕は鼻で笑いながら保険証を取り出した。だが、保険証の左上にある名前を確認した瞬間、眉を潜める。
 真崎さんが立ちあがり、僕の肩越しに保険証を覗き込んだ。
「ああ、やっぱり」
 真崎さんはそう洩らしたが、やはり僕には、何が起こっているのかわからなかった。
「名前が、認識できなくなっていますね」
 保険証に書かれていた名前…。それは、「譛晄律螂亥、乗ィケ」…と意味のわからないものだった。実際にそう印刷されているわけではなく、じっと見つめていると、「×××××」、「○○〇〇〇」…と変化する。どうやら、僕たちの目に問題があるようだった。
 認識、できない。
「調べてみたところ、お客様に本来書き込むはずだった過去の八十五パーセントが破損しておりました。厳密に言うと違いますが…、あなたの過去の八十五パーセントは『無』になったわけです。起こらなかった…ということです。起こらなかった…ということは、存在しなかった…ということです」
「存在しなかった…ということは、名前も付けられない…ってわけか」
 理解した僕は、真崎さんの言葉を遮って頷いた。
「だから、こうやって保険証を確認しても、認識できないわけだ。つまり、今の僕には、名前が無い…。ゲームのバグみたいな存在になったってわけか」
 まだぴんと来ていない部分はあったが、大体のことはわかった。
 僕たちは、名前に記録された過去から自己を認識する。名前に何も記録されていないから、いや、名前が無いから、こうやって記憶喪失みたいな状態になっているのだ。
 僕は頬を掻き、真崎さんを見た。
「それで、僕はどうすればいい? ビタースイートを作成したのはあんただ。あんたの失敗だ。責めるつもりは無いが、失敗したことへの責任は取ってもらわないと」
「…はい、それはもちろん」
 真崎さんは深々と頭を下げる。
「必ず、何とかして見せます」
 そういう抽象的な言葉は嫌いだよ。
「消えてしまった名前と過去の復元はできるのか?」
「ええ、それはおそらく可能です」
 真崎さんの言葉に、僕の心臓の熱が一度あがるような気がした。
「…そうか、よかった、できるのか…」
「ですが、申し上げにくいのですが…」
 その言葉に、僕の心臓の熱が二度下がるような気がした。
「データの破損なんて滅多に起こることじゃなく…、いや、初めて起こったことでして…」
「おい…」
 じゃあなんで今、「おそらく可能です」って言おうとしたんだ? というツッコミが出かかる。
「原理はわかっているので、復元は可能です」
 僕の口から放たれんとする言葉を察知してか、女性は捲し立てた。
「ですが、復元をするには、莫大な時間とそれ相応の技術が必要です。私は姓名変更師の資格は持っておりますが、今回のこの状況、胸を張ってお客様の消えてしまったデータを復元する自信があるとは言えません…」
 なるほど、技術の問題か。
「理論上は可能だけど、それを実際にやるのは現実的じゃないと」
 そう理解した僕は、顎に手をやり、考えた後に顔を上げた。
「じゃあ、どうする?」
「私の知り合いに、個人でやっている姓名判断師がおります」
 そう言った真崎さんは、海から上がったかのように息を吸い込んだ。
「彼女に頼もうと考えております」
「個人…? なんだ、過去改変サービスって、あの店に限らずできるのか…」
 真崎さんは頷いた。
「もともとはうちで働いていた者なのですが、三年前に独立しました。素晴らしい技術の持ち主でして、彼女が制作したビタースイートは、多くのお客様から高い評価を得ています。彼女の腕なら、おそらく、お客様の過去を復元できるのではないか…と」
 真崎さんは「おそらく」と言った。断言しなかった。
 だから僕も、ぬか喜びはしない。
「手配、してるの?」
「もちろんです。話は通しているので、お客様がよろしいのであれば、すぐにでも派遣します」
「わかった、じゃあ、それで頼むよ」
 己の尻を拭えないのはプロとしていかがなものか…と思いつつも、他の人に頼らなければ復元できないのなら仕方がない。僕は頷いた。
「僕の名前と、過去が元に戻ることを、祈っておくよ」
 そうして、僕のもとに、過去の復元が可能な姓名変更師が派遣されることとなった。
 そうして、その日は帰ることとなったわけだが、真崎さんは、「お詫びです」と言って、五万円の入った封筒と、五種の香りが楽しめるアロマセット、それから、東京の高級菓子の箱を僕に渡した。
 お詫びの品を受け取っても、真崎さんは何度も何度も謝り続けた。
 居心地が悪くなって、僕は直ぐに店を出た。そこは、大通りに面したマンションの三階で、通路は夕暮れの赤い光に満たされていた。向かいでは、車が騒々しく行き交っている。
 はあ…と吐いた息が白い。恥ずかしい話、僕はこの瞬間、今が冬であることを思い出した。
「下まで送ります」
 真崎さんが出て来て、扉の方を手で指した。
 二人で一緒に階段を降り、歩道に出る。途端に容赦ない冬の風が吹いてきて、僕の頬を引っ掻いた。
 真崎さんの髪が、風で揺れる。
「本当に申し訳ございませんでした。話がつき次第、お客様のお家に派遣しますので…、大体、三日後にはなると思います」
「わかった。頼むよ」
 それしか言うことができなかった。
 それじゃあ…。そう言って、僕は歩き出す。振り返ってもまだ、彼女は頭を下げ続けていた。
 僕は小さなため息をつき、前を向き直る。
 夕日を浴びながら歩いていると、なんだか、頬がむず痒くなった。
 僕は、何のためらいもなく皮膚に爪を立てて、ぽりぽりと掻く。すると、今度は日焼けをした後のような、ひりひりとした感覚が宿った。
 何かのアレルギー反応だろうか? 過去が消えた後だから、細かな事象にさえ不安を抱いてしまう。
「……いやいや」
 僕は首を横に振った。
「まあ、大丈夫だろ」
 不安になったって息苦しいだけだ。楽観的に考えるのがいい。きっと大丈夫。消えてしまった僕の過去は、ちゃんと元に戻る…。
 そう思った僕は、歩きながら、もらったばかりの箱を開けた。中に入っていたのは、バター香るラングドシャ。
「うん、美味い」
 独り言をつぶやきながら、さくさくと齧る。
 とろけるような甘みとか、鼻から脳天を貫くまろやかな香りを楽しんでいる間にも、僕の心臓の中には、ガラス片のような不安が残っていて、脈動するたびに、ちくりとした痛みを宿す。それでも、もう仕方がないことだと割り切って歩を進めた。
 その後、自分の家がわからなくなった僕は、再び真崎さんの世話になるのだった。
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