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第十七章

スパイダーキーパー

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『リーシャ姉様! いっけー!』
 アローズのキックオフで試合が再開し、交代が取りやめになってベンチ前へ戻ってきたエルエルさんが尊敬する先輩へ声援を送った。
 リトルリーシャ、小さなリーシャ転じてエルエル。本来はラッコという名の彼女につけたあだ名だが、性格プレイスタイル共にリーシャさんに憧れていたラッコさんにとってそれは、むしろ名誉な事だったらしい。
 当のリーシャさんも現在はFWに転向しそのプレイスタイルは変わりつつあるが、今だけはかつての姿に戻っていた。
 つまり猛スピードでサイドを駆け上がり、DFを一気に抜き去るスピードスターウイングプレイヤーのスタイルに、だ。
『ただいまのゴールは背番号8、ケンバ選手!』
「「カチッ! カチッ! カチッ!」」
 その背に場内アナウンスが重なる。恐らくゴールを決めた選手名を告げ、インセクターの観客達が顎を鳴らして応えているのだ。
「普通なら声援なのにインセクターは顎の音なんだ……」
「ええ。独特の応援スタイルでありますね!」
 あーでも虫が顎を鳴らすのって威嚇じゃなかったっけ? と説明してくれたナリンさんには言えず、俺はリーシャさんの果敢なアタックを見ていた。
 仮に威嚇だとしても、彼女はそんなもの意にも介さなかっただろう。対面のSBをぶち抜き、先程アシストを上げたバッタのWGが守備に戻るのを置き去りにしてペナルティエリアへ進入する。
「角度無いけど……うわあ、ナイスキャッチ!」
 リーシャさんはカバーに入るCBの足が届く寸前にシュートを放った。しかし自らのドリブルとCBの寄せでコースが限定されていたボールは、蜘蛛のような外見のGKに難なくキャッチされてしまった。
「確かに狭かったけど弱いシュートじゃなかったよ!? アレをパンチングじゃなくてキャッチしてしまうのかー」
「流石です! アロンゾ選手はリーグ屈指のGKでありますからね!」
 ナリンさんは手の平をグーパーと握り開きしながら言う。それを聞いて改めて見るとアロンゾ選手はGKグローブを付けていない。だがその状態で軽々と片手でボールを握り――相当、握力が無いとできない行為だ。たまに空気が抜けたボールでそれをやって格好つけるヤツがいたな――パントキックの為のポジションチェンジの指示を出している。
「いや、もしかして手先に繊毛でもあるのか? 狡いなあ!」
 蜘蛛や蠅は足先に繊毛があり、それを使って人間の目には見えないような凹凸と摩擦面を増やし壁や天井に張り付く。どうやら彼女はそれと同じ様な事をしてボールをしっかりとホールドしているようだった。
「そもそも蜘蛛は昆虫なのかどうかというのも狡いし……」
 いやインセクターを『昆虫人間』と勝手に定義したのは俺の方で、向こうは知ったこっちゃないが。ただそうでなくとも『蜘蛛』と言えばしばしば名GKにつけられる異名である。リーチの長さや俊敏性もそうだが、獲物をからめ取ってしまう様がそのポジションを彷彿させるからだ。
 だからと言って……本物の蜘蛛を連れてくるヤツがおるか!
「あ、でもキックは下手なんすね」
 俺が愚痴る間に行われたアロンゾ選手のパントキックは全く飛距離が出ず、しかも味方を大きく外れて俺たちの左サイドのラインを割った。この世界のGK及びインセクター全般に言えるが、キックの技術は本当にお粗末だ。足の形も向いてないからだろうが。
『よっしゃ! これじゃぞ!』
 そんなかけ声と共にジノリコーチが台の上でボードを振った。その表面にはフードを被った骸骨の魔王――この世界の誰もその意味は分かるまい――とユイノさんの背番号21が描かれている。
 その意味はこうだ。ユイノさんがボールを保持したら、オーバーロード作戦、開始。

 どうせならとっとと始めてしまおう、という意図があったのかダリオさんがスローインしたボールをマイラさんがバックパスし、ユイノさんの足がしっかりと止めた。
 見ようによっては消極的なプレイで逆に俺たちならプレスをかけるトリガーきっかけにする所だが、先制している上にそういう練習をしていないであろうインセクターはボールを奪いにいかない。
「やっぱ来ないかー」
 俺は納得しつつ呟く。まあこっちにしたらこれも別のトリガーなんですけどね。ユイノさんがボールの上にスパイクを置いたのを見て全員がちょっとづつポジションを変え、右サイドへ寄って行く。
 今更ではあるがメインスタンド貴賓席は当然ベンチの後方上部にあり、ボクシー女王の様子は伺えない。もちろんもっと前に出て振り返れば見えるが、それはもう、
「何かしかけてまっせ」
と自分で相手に教えてしまうのと同じだ。出来ない。
 ただ彼女からもボードのあちら側を見ることは出来ないので、俺たちがどんな合図を送ったかも分からないだろう。
 そして恐らくインセクターはボクシー女王もフィールドの選手達も、アローズが全体的に右に寄っている事にも気付いていないだろう。俺たちはそこへ、更なる目隠しも仕組んでいた。
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