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第六章 学園カウンシル

6-8. 過去の裏切り

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「落ち着いた……?」

 マグカップを両手で包み、真っ赤な目でコクリと頷いたユウリに、ヴァネッサは溜息を付いた。
 寮の中庭で彼女を見つけたのが自分で良かったと思う。
 偶々通りかかったヴァネッサは、紅い瞳で泣きじゃくっているユウリと、その足元で眠る女生徒を発見した。
 女生徒は、最近リュカの親衛隊をになった娘で、ヴァネッサは何となく起こったことを理解したのだ。
 女生徒を部屋まで運んだ後、まだ泣くユウリを自室へと連れ帰ってきて、泣き止むのを待っていた。

「大体想像はつくんだけど、何があったのかしら?」
「リュカさんが、悲しいんです」
「え?」

 想定外の返事に、ヴァネッサは怪訝な顔をする。
 マグカップの中の液体を見つめたまま、ユウリは鼻をすすりながら呟いた。

「リュカさんは……どうして、あんなに求めてるのに、全部を突き放すんですか」

 自分の中まで見透かされたのかと、どきりとする。
 そして、ユウリがそう零した理由わけに気付いて、ヴァネッサは苦笑した。

「リュカ様が……何か言ったのね」

 憂いを含んだ声音に、ユウリは顔を上げ、頷く。

「はい……『どんなに慕い焦がれても、誠実に誓っても、それが報われない絶望』って。そんなこと、知らなくって」

 ヴァネッサは、ふう、と息を吐いた。
 話さないわけには、いかないのかもしれない。

 ——ふわふわして、可愛らしくて、純粋で
 ——だからこそ、その感情に正直で
 ——ずっと一緒だった、大好きで、許せない人

「ユウリは、少し似ているの——私の、姉に」
「ヴァネッサさんの、お姉さん?」
「ええ。リュカ様の、婚約者」
「もと……?」

 ヴァネッサと姉——クリスティーナ=ワルターは、メイユール家従者長の家に生まれ、リュカとともに兄妹のように育った。ヴァネッサにとって、二人は一番親しい友人であり、また、頼れる兄と優しい姉であった。
 成長するにつれ、ワルター姉妹はその美しさで有名となる。
 やんちゃでお転婆なヴァネッサと違い、クリスティーナはいつもニコニコと穏やかで、天真爛漫を体現したような女性だった。
 純粋で天然でおっとりと、それでいて自分に正直で、ヴァネッサなら言い淀んでしまうようなことでも、事も無げに口にした。
 だから、誠実で自分の感情を隠さないリュカが、姉に惹かれるのは当然だと思った。
 クリスティーナをリュカの正妃候補として、国王陛下が正式に婚約を申し入れた時、悩む姉を説得したのもヴァネッサだ。
 大好きな二人が結ばれて、本当の家族になれる。
 何よりも嬉しくて、自分のことのように喜んだ。

「だけど、姉は違ったようなの」
「え?」

 お互いに好きだと交わした約束の筈なのに、しばらくすると、クリスティーナは何処と無く上の空のように見えた。
 お茶会や夜会と、リュカと共に婚約者として出席する場は何度も訪れ、それが重なるたびに、彼女は心ここに在らず、といった様子で、ヴァネッサは何度もどうしたのかと尋ねたのだ。

「姉は……恋をしていると頬を染めて」

 恋煩い。
 何だ、とヴァネッサは笑い飛ばした。
 ずっと愛し合っていた二人が認められて、幸せを感じていただけだったのだ。
 こっそりとリュカに進言すると、彼も頬を染めて、嬉しそうに微笑んだ。

「馬鹿よね。私は、てっきりリュカ様のことだと思って」
「まさか……」
「そうね。姉は、あくまでも自分に正直だった。他の誰でもなく、自分だけに」

 血相を変えた母が、ヴァネッサに尋ねたのは、よく晴れた春の昼下がりだった。
 クリスティーナが何処へ行ったか知らないか、と。
 昨夜、夜会の後帰らなかったと言うならば、リュカのところではないのか。
 母は、真っ青な顔で首を振った。
 ジャン様も夜会の後から姿が見えないらしいが、何か聞いているかと言われ、ヴァネッサの息が詰まった。
 ジャンは、リュカの親友だった。公爵家の嫡男で、公務の際はリュカの右腕的存在。
 その彼が、姉と、昨日から帰らない。

「心変わりの末の、駆け落ち……だったの。ジャン様の居室に、リュカ様が姉に贈ったドレスや宝石が残されていて」
「そんな……」
「半分は、私のせい。姉の、あの甘く溶けるような視線は、リュカ様でなくて、その隣にいたジャン様へ注がれていた。それに気付いていれば、あの方は、あそこまで傷つかずに済んだかもしれない」

 数日後に伝達鳩が運んできた手紙には、謝罪の言葉が短く書かれているだけだった。
 ヴァネッサがそれを持って慌ててリュカの元へ走ると、彼も受け取った手紙を手に泣いていた。
 いや、泣き笑っていた。

「信じられる? 姉からリュカ様へ宛てられた手紙には……謝罪と、、と綴られていたの」
「そんなの……酷すぎます!」
「ええ、本当に残酷。でも、リュカ様は」

 ヴァネッサを見つけたリュカは、泣き笑いのまま、よかった、と言った。
 無理に連れ去られたんじゃなくて、よかった。
 泣き喚きながら謝るヴァネッサに、リュカはそう言ったのだ。

 それを聞いて、ユウリは口元を手で覆ったまま、ぽろぽろと涙を零す。
 何にも執着を見せない今のリュカからは想像できない、踏みにじられてもなお、想い人を気遣う純粋な優しさ。
 あのユウリに向けられた苛立ちが、そんなものから来ていたなんて、余りに悲しすぎる。

「大切にしていた二人が居なくなって……リュカ様は変わってしまった。誠実だったはずのあの方が、誰彼構わず寝室に引き入れるようになって、誤魔化して、戯けて、決して本気にならず……」

 それは、裏切られたことへの恐怖。
 失ってしまったことへの絶望。
 そして、それでも想う失った女性ひとの隙間を埋めるピースを探して。

「ユウリが、姉に似ているというのはね。その柔らかな純粋さ。可愛らしい正直さ。だから多分、リュカ様は、貴女には誤魔化せなかったのだと思う」

 ユウリは、自分がリュカに対していった言葉を思い出す。
 一度酷く裏切られた彼が、大切な人を作ることがどれ程恐ろしいことか。
 失うことの恐怖は知っていたのに、そのリュカの傷には気付けなかった。
 自己嫌悪と後悔で、ユウリの瞳が揺れる。

「ユウリ。リュカ様を悲しいと思うなら、ただ一つだけ約束してくれる?」
「……はい」
「誠実さを忘れずに、決してあの方を裏切らないで」

 側にいろとは言わない。
 ただ、心に留めるだけでいい。
 その悲しさを嘆いてくれる誰かがいることが、彼の救いになるのではないだろうか。

「ごめんね、ユウリ。貴女は、姉とは違うとわかってる。それに……リュカ様が貴女の一番になれないことも」
「ヴァネッサさん、なんで」
「私では、駄目だから……」

 震える睫毛を伏せるヴァネッサに、ユウリは顔を上げた。

「駄目じゃないです」
「ユウリ、私は……クリスの、妹なのよ」
「だから、何ですか! 私なんかより、ヴァネッサさんの方がリュカさんのこと心配していますよね? 何で、リュカさんにもっと」
「ごめんね——今は貴女の、その真っ直ぐさが痛いの」

 微笑むヴァネッサの目尻に滲むものに気付いて、ユウリはそれっきり何も言えなくなってしまったのだった。
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