真夜中の片隅で、ずっと君の声を探していた

風久 晶

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目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて

20.目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて⑦

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 優の肩に、震える唇をうずめて泣いた後、俺はしばらくぼんやりとしていた。
 なんだかとても疲れていて、体が重くて、意識が時折おぼろげになっていく。
「本当は、瑠奈に会うのもいけないんだ」
 ぽつりと言った俺の言葉を、聞いているよ、とでも言いたいかのように、優は俺の頭を撫でた。
 その仕種が心地良くて、俺は優の肩に頬をもたせかけた。
「瑠奈の両親に頼まれたんだ。どうにか忘れていることを思い出させないでくれって。ようやく退院して、忘れているなら、そのまま平穏にさせてくれって。俺に会うと思い出すかもしれないから……でも、俺にはそれが出来なくて――俺には瑠奈の笑顔と言葉が必要で――」
「うん――」
 優の掌が、俺の手を握ったままでいて、見下ろしてふと気が付いた。
「優、手が、汚れるよ」
「え?」
 その掌を広げさせて、ベッドサイドにあるティッシュを取った。
 俺の指は、自分で叫んで噛んだ時に、肌を破ってうっすらと血が滲んでいた。
「ご、ごめん!痛かった?葉司――」
「俺は、痛くない。優が、汚れるよ」
 俺の血で汚れてしまった優の掌を、俺は何度もティッシュでぬぐった。
「もう大丈夫だって――葉司ってば!」
 肩を揺すぶられて、はっと顔を上げた。
「朝になったら、絆創膏でももらおう」
 長い指が、ティッシュを取って、俺の指を包むように握った。
「大丈夫……そんなに血が出てるわけでもないし。触ってたら、優が汚れるよ」
 手を引っ込めようとしたけど、優は手を離さなかった。
「汚れるよ?俺は汚いから」
「葉……」
 優はびっくりしたように、瞳を大きく見開いた。
「葉司……何……?」
「こんな事件に遭って。被害者でも加害者でもあって。父親は俺についての噂を恐れて、遠くへと逃げた。母親は帰って来ない。祖父は事件の後に道場をたたんで亡くなった。祖母は腫れものに触るように遠まきにしてる」
「そんな――だって、葉司のせいじゃないじゃないか!」
「俺……は……」
「葉司のせいじゃない!」
「俺は……だって……」
「綺麗だなぁって、ずっと見てたよ?あんまり笑わない葉司が、俺に笑ってくれたら、どんなに綺麗だろうって思ってた」
 両手が、ゆっくりと俺の頬を包んだ。
「これからは、俺といよう」
 俺は不思議なものを見るかのように、首を傾げて優を見上げた。
「俺の葉司を、そんな――そんな風に言わないでよ。俺にとっては、葉司は、これまでも、今も、ずっと綺麗」
 ふわりと温かな腕が、俺の頭を抱いて、優しい掌が背中をさすっていく。
 そうされると、疲れと眠さがどっと体に押し寄せて、知らずに優に体重を預けていた。
「ごめん……こんな話をして。優に、重荷を背負わせて。嫌なことばかり……話して」
 繰り返し、背中をさすっていく掌。
「葉司は、つよいよ。その心に――俺を入れてくれて、ありがとう」
 囁く声は、深い波間に聞くようで、とても優しく穏やかに響いて、俺はふらりと意識が遠のいてくのを感じた。
 最後に覚えているのは、優が体ごと俺を抱きしめてくれたことだった。


 夢を見ていた。
 白いスニーカーは、十歳のあの頃のまま、薄汚れてくたびれている。
 月の光もない、人の気配もない山道を、十歳の自分が、ただ上へ上へと、歩いて登っている。
 振り返ると、下の方には町のオレンジ色の灯りがともっていて、ただその景色は遠い。
 かすかなざわめきのような音が聴こえて、それは町からの祭囃子だと知る。
 そのお祭りには、行けない。
 くるりと背を向けて、捧げられた生贄のように、俺は一人この山道にいて、歩き続ける。
 黒くぽっかりと開いたトンネルの前に差しかかった時だった。
 この向こうへと行けば、もう終わり、なんだ。
 だけど、遠くから声がした。
 それは幻聴に違いない。
 だって、ここには誰もいないもの。
(……葉司……)
 どこか懐かしい響きで名前を呼んだ。
 はっとして期待を込めて呼び返した。
「おかあさん……!」
「葉司!」
 ざあっと強い西風のように突然に、大きな翼にくるまれて、その金色の光の渦の中へと巻き込まれた。
 俺の名前を呼んだ顔を知った。


「優!」


 ガバッと起き上がって、はぁはぁと息をついた。
 つもりだったけど、俺の体は起き上がれなかった。
「……っ!」
 俺の体は、目の前で眠りこんでいる優の体にすっぽりと抱きしめられて、俺の腰には優の長い脚が乗っかっていた。
 窓のカーテンの向こうは白々としていて、朝の世界は明るく照らされている。
「お、重い……っ」
 腕を突っ張ってみたけど、安らかさそのもののように眠る優を起こすのは忍びなくなって、俺は諦めた。
「葉司……」
 眠る優に、抱きすくめられたままに、名前を呼ばれて、頬が熱くなった。
 優という存在の不思議。
 ただ憧れて、好きになったその時から、ずっと力をくれていた。
 その首筋に、そっと鼻先を押し当ててみた。
 これほど近くに寄らなければ分からない、優の匂い。
 胸がどきどきと高鳴って、頬が紅潮して、うっとりと目を閉じる。
「んー……」
 優が身じろぎして、俺は慌てて鼻を引っ込めた。
「あー、おはよう」
 二重瞼の瞳がぱっちりと目覚めて、すぐに俺を見た。
「あ……おは、よう……」
 目覚めて誰かがいることも、おはようと言うことも、どれくらいぶりなのか、覚えていない。
 まさか抱きしめられて目覚めるなんて、あるわけがなくて。
 ただ、不思議な安らかさに包まれていて、意識はふわふわと漂うようだった。
「あー、なんか幸せ」
 優がそう言いながら、俺の髪に鼻をつっこんでぐりぐりと押し付けてきて、くすぐったくて笑ってしまった。
「俺も……」
 優は、ぴたりと止まった。
「えっ、本当?」
「それは――うん。優がいるから……」
 優はベッドに仰向けになると、両手で顔を覆って、足をジタバタとさせた。
「まじで!」
「な、何?急に――」
「やばい!すんげぇキスしたい」
 ガバッと起き上がると、優は俺の肩を両手でつかんだ。
「ちゅってして良い?おはようって」
 俺は頭がぐらぐらと沸騰するみたいに熱くなって、戸惑いの中で、小さく頷くのが精一杯だった。
 優の腕が限りない優しさで、俺の背中に回されて、長い指が俺のあごを捉えて――
 柔らかな唇が降りてきて、俺の唇に羽根のように触れた。
 それだけで心臓は早鐘のように鳴って、温もりがじんわりと唇に残っているようで、俺は指先で唇を押さえた。
「葉司って可愛いのな」
「ど、どこが……」
「えっ、ナイショ」
 くすくすと、いたずらっぽく笑う、優の目じりの下がった人好きのする笑顔を見ながら、ふっと気が付いた。
「あ――来ない、かも」
「えっ?何っ?」
 優はびっくりしたように瞳を開いて俺を見る。
「あの――嫌な感じが」
「えっ、まじか!俺ってちょっと進んだ?キス、大丈夫?」
「そう……かも?」
 答えた俺に、にこーっと無邪気に笑った優に、俺は心を決めた。
「優」
「ん?」
 笑ったまま顔を上げた優の前で、俺はカットソーの裾をつかんだ。
「えっ?」
 そのまま引き上げると、カットソーを脱ぎ捨てて、それから引っ張るようにしてズボンを脱ぎ捨てた。
「優、これが」
 ヘソの横から下腹にかけて走る傷と。
 それから、脚をひらいて、脚の付け根の内腿に走る傷と。
 ボクサーパンツをずらして、俺は自分から初めて人に傷を見せた。
「俺の心と傷痕のすべて」
 何針にも縫われた傷痕を、優は黙って見ていたが、やがて口を開いた。
「はい――葉司」
 優は、静かに、聖なる誓いでもするみたいに、唇を引き結んだ。
 朝の陽射しに照らされたその姿は、西洋の宗教画のようで、静謐さと、神聖さに包まれていて、眩しかった。
 それから俺の両手を取ると、ゆっくりと引き寄せた。
「葉司の体、ぜんぶ綺麗」
「ゆ……」
 優の指が、俺の唇をそっと押さえてしまって、それから優の顔が降りてきて――
 その時、部屋のドアがノックされた。
「おーい、優!起きてっかー?朝だぞー」
 原の声だった。
「わっ、やばい」
 優は、俺の服を手でつかんで、俺に向き直った。
「俺が脱がせたみたいじゃん!はい、バンザイ!」
「え……っ」
 反射的に言われるままに両手を上げてバンザイすると、優がカットソーをすぽっと頭から着せた。
「はい、ズボン!」
「は、履く、自分で」
 俺が慌ててズボンを履き終わると、優がぐいーっと俺の腕を引っ張るから、優のほうへとよろめいた。
 指であごを捉えて上げられて、そこへ優の唇が降りてきた。
 ちゅっと音がして、離れて行ったあとに、キスされたんだと気付いた。
 優はドアへと向かう途中で、くるりと振り返って俺に笑った。
「いってきますのキス。ま、一緒に出るけど」
 いたずらっぽく笑われて、俺は頬が赤らむのがわかった。
 優がドアを開けると、原と剛田と、その向こうに和田たちがいて、優は朝からわいわいと喋っている。
 俺は指先で唇を押さえると、ドアのほうへと向かった。

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