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第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)
第五章 ニアネス・オブ・ユー(music by Sarah Vaughan)3
しおりを挟む淳史が帰宅したのは、空がラベンダーと珊瑚色にやんわりと溶け合う、翌日の夕刻の頃だった。
「ただいま。文彦?」
部屋ももう薄暗くなっていて、照明の点いていない部屋へと入ってきて、淳史は荷物を下ろしながら文彦の姿を探してあたりを見回す。
一つの人影が、窓際の一番隅で床に座り込んで、膝に本をひらいている。
「文彦」
淳史は安堵した表情を浮かべて、リビングの電気をパチリと点けた。
パッと明るくなった部屋で、文彦はゆっくりと顔を上げて、首を少し傾けた。ボルドーのシャツの袖をまくり、紺色のズボンを履いて、栗色の髪はやや乱れて頬に首筋に落ちている。
「ああ――淳史」
「何か不便はなかったか?」
「何も」
文彦の姿を目にして微笑みながら、淳史はジャケットをハンガーにかけ、手早く荷物を片付けていく。淳史が部屋を見回ると、テレビもオーディオのリモコンも置いてからまったく位置が動いていなかった。もちろんカードも一ミリも動いてない。
ミネラルウォーターを出そうとしたキッチンでは、フォークを一本使ってから洗った形跡があるだけで、コップも食器も出した感じはしない。
唯一、壁に据え付けてあるリビングの白い本棚がやや乱れているだけだった。
淳史は急いで冷蔵庫をひらくと、そこには淳史が揃えて並べていた惣菜のプラスチック容器が、ほぼ手つかずでずらりと並んでいた。
手に取ると、幾らかは食べられていたが、大した量でもない。ピンチョス、カルパッチョ、生春巻き、シーフードピラフ、アラビアータのペンネ、マーケットサラダと残っている。
「あの、淳史」
「え?」
淳史は振り返って、すぐ近くに文彦が立っていたことに驚いた。
「ありがとう。こんなに用意してくれてたんだね。冷蔵庫を開けた時にびっくりした」
軽く肩をすくめて、文彦は笑った。
「いや……」
「これ、まだ食べられる?」
瞳を瞬いて見上げた文彦へ、質問の返事はせずに、淳史はそっとその肩を叩いた。
「今日はもう夕飯は済んだのか?」
「え? まだだよ」
「そうか。今から何か、食べやすいものでも作ろう。俺も温かいものが食べたいし」
「え、俺のはいいよ」
「ついでだ」
淳史はシンクでザッと手指を洗うと、まな板やボウルを取り出し、迷いなく食材を選んで、手慣れた様子で進めていく。前髪がはらりと額にかかり、高い鼻梁の横顔が真剣な面差しになって、長い指が心地よいリズムをくり返して米を研ぎ、それが終わると野菜をトントンと切り分けていく。
「料理って――なんだか、不思議」
「え?」
淳史は、文彦の声に面食らって振り返った。ゆるやかに微笑んで、キッチンを見ている眼差しは夢見るようで、淳史はそれ以上、言葉を返すことができなかった。
「色んな匂いがして、色んな音がする。それで、魔法みたいに料理ができる。不思議」
「文彦にもできるさ」
「えぇ? 俺は無理だな、きっと」
苦笑して首を横に振る文彦へ、淳史はふっと笑った。
「そんなことないさ。一緒に買い物をして、一緒に料理しよう――きっと、できる。怪我が良くなったら」
「そうだね――いつか……」
唇をほとんど動かさないままに文彦は答え、ふいと視線を逸らして遠くを見やる。
淳史は少し眉をよせて文彦を見据えていたが、話題を変えた。
「文彦といても、あまり人と過ごしている感じがしないな」
「じゃあ、いったい何と部屋にいるわけよ」
文彦は可笑しそうに喉の奥でくっくっと笑って、片手を軽く振った。
「さあ、俺はいったい何と今、部屋で過ごしてるんだろう?生活感もないし、存在感もないし」
「それ、ほのかにけなしてるよね」
「褒めてるよ。このまま過ごしても、たぶん文彦なら気にならなさそうだ。あまり人間といる気がしないから」
「それは喜んでいいことなの?」
文彦が呆れた顔でそう言うのへ淳史は楽し気に笑い、やがて料理へと意識を戻していった。
淳史に促されてテーブルにつき、文彦は椅子を引く途中で動きを止めた。
テーブルには、炭酸水のガラスボトル、流線型のデザインのグラス、皿の両側に並べられた銀色のカトラリー、細かい野菜の入った黄金色のコンソメスープ、それから――
「あの……」
「これなら食べやすいだろうと思って」
そう言いながら真正面に座った淳史に、文彦は何も言えなくなった。今も帰宅したシャツのままで、すぐにキッチンに立った長身の姿が脳裏をかすめていく。料理などしなさそうな冷たい端正な顔立ちなのに、長い指はいつもこまやかに動いていく。
「オムライスなら食べられるだろう?」
その口調に、文彦は顔を上げた。淳史の表情を見て、文彦は何となく思った――淳史は、あの惣菜が文彦の口に合わなかったから残してあったと思ったのだろうと。
「そういえば、好きなものを聞けば良かった。誰かに料理をするのはあまりにも久しぶりで――文彦は、何が好きなんだ?」
「え……」
文彦は何度か瞳を瞬いて、何かを答えようと淡紅色の舌で唇を湿した。まだ文彦に味覚があった頃、何をよく食べていたのか思い出そうと、睫毛を伏せる。
「パン……だったかな」
転がっている袋をバサリと開けて、いつもその手につかんでいたのは。
「じゃあ、にでも何か買って来よう。駅のそばに有名なブーランジェリーがあって、確か雑誌にも載ってたと思う。そこなら美味しいだろう」
「そう……なんだ」
淳史は少し嬉しそうに微笑んで、いただきます、と言ってから、グラスに静かに炭酸水を注ぎ、スプーンを手に取った。スープを口にして、何の斟酌もなく食べていく。
音楽に向かっている時の淳史は、いつもは鋭い眼差しが冷たくさえあるのに、生活の中ではこまやかな気遣いとともにやわらかな眼差しを見せる。
文彦は慣れないような、所在のないような心持ちになって、パッと炭酸水のボトルをつかんで、そのまま口をつけて飲もうとした。
「文彦」
少し立ち上がった淳史が、テーブル越しに腕を伸ばして、文彦の手を止めた。
「グラスに、注いでみたら? 綺麗になる」
文彦は怪訝そうな顔をしたが、淳史が静かに微笑んでグラスを滑らしたのを見て、言う通りに大人しく炭酸水をグラスへと注いでいく。
グラスの流線形に沿って、液体は泡立ちながら流れ落ちていき、底で静かに渦巻きながら嵩を増していく。泡の弾け続けるちいさな音、グラスの中で泡は幾度も昇っては消え、多角のきらめきがグラスの中で踊っている。ボトルがグラスのふちに当たれば、硬質な音が鳴って、食卓に響いていく。文彦は束の間、その光景と音に心を奪われ、瞳をきらめかせて無心に見つめた。
「あ、ほんとだ。すごく綺麗」
ちいさく笑った白い顔に、淳史は切れ長の眼を少し細めて見つめている。
「水も、グラスで変わっていく」
「そうだね」
文彦はパチパチと弾ける透明な液体のみなぎったグラスを手にして光にかざし、眺めた後に満足そうにグラスに唇をあてた。
淳史はそれを見ながら、さくりとオムライスへと銀色のスプーンを差し込み、すくっていく。
文彦はスプーンを手に取ったものの、しばらく動かずにいたが、やがてゆっくりとスープを食べだした。顔をしかめて、のろのろと口へと運び、なかなか飲み込まない。淳史は視線を伏せて、何も言わなかった。
時間をかけてスープを食べ切った頃には、淳史の食事はおおかた終わっていた。
文彦はそれにも気付かずに、スプーンを握りしめて、じっとオムライスを見ていた。
綺麗に赤みを帯びた、細かな野菜の混ぜられたチキンライスの上に、鮮やかな黄色のふわふわとした卵が乗せられている。ラインになって横切っている真っ赤なケチャップソース、散らされたパセリの緑が美しいコントラストになっている。どこか幸せとやさしさを含んだメニューは、食卓の上で当然のように文彦の目の前にあった。
文彦の視線は揺らぎ、スプーンを持った指先は、かすかにふるえている。
ずっと見ることも避けてきたメニューが目の前にあって、しかしそれは、文彦にとって、ずっと見たかったものでもある。
それは遠い過去に約束したあの日にかえって。
文彦は舌の奥が痺れるような感覚に襲われて、ぎゅっと唇を引き結んだ。目のふちはやや赤く染まり、呼吸は乱れている。
無表情になって、そっとスプーンを入れていく。
ふわふわと黄色い卵はくずれていって、チキンライスとともに抵抗なく、文彦のスプーンの上に乗っていく。文彦は目を瞑って、ぐいとスプーンを口の中へと押し込んだ。
どちらにせよ、味は感じられなかった。やわらかな舌触りと、ライスや野菜の触感が混じっていって、文彦はのろのろと噛んだ。
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