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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 

第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 4

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 瞼が重いのか、うっすらとしか開かない、ミチルの榛色の両目。
 目の前には文彦と、それから淳史がいるはずなのに、ミチルはどちらをも認識しているとは思えなかった。

(何か……)

 応えがあったことに、文彦は内心ほっとしたが、さっき文彦の胸に兆した違和感が、文彦の体を黒く覆っていくように反芻して、波打ちながら広がっていった。
 半眼になったミチルの、よりどころのないような眼、尋ねるように開けられた唇。

「ミチル」

 淳史が呼んでいるのにも、相手が誰の声かわかっていないに違いない。焦点の合わない視線は、ゆらゆらと淳史と文彦の間で揺れているだけだった。

「あ……」

 文彦の白い横顔は無心に、ただかすかな悲しみを広げていった。
 感じた違和感は、デジャヴュによるものだったと、文彦ははっきりとわかった。

(これは……ラリった顔じゃない)

 そんなことをも目にするのに珍しくない環境で育っていた。

「どうして……?」

 ミチルの額に手を伸ばして、兄のような優しさで、文彦はそっと汚れを拭っていった。
 ただ慈愛のような、悲哀のような、複雑に入り混じった表情で、細い溜め息をついた。

(この店で売ってるしな。葉っぱくらいならマシだけどね。注射までいってないといいけど)

 そう思いながら、それも時間の問題だ、ということも文彦は知っている。
 この町と、ミチルはあまりにも、そぐわない。
 その似つかわしくない組み合わせが、文彦の心をさざめかせた。

(俺も騙されるみたいなことがあったしな――このままいったら、金も搾り取られるだろうな。これじゃ)

 この界隈のからくりは、よく心得ている。
 そして、人を堕としていくことの容易さも。
 指先は優しく、ただ青ざめた頬を擦っている。

(どう――する?)

 自分では対応しきれないかもしれない、と文彦は感じた。

「何かに巻き込まれていなければ良いけれど……武藤さんにでも連絡を――」
「止めてくれ」

 はっきりとした、有無を言わさない強い口調だった。
 淳史が横目で文彦を見やった冷たい眼差しに、文彦は押し黙った。

「……あの男は。ミチルは、今すぐ俺の家に連れて帰る」
「そう」

 文彦は、無表情に短く答えた。
 このまま関わらないことが、すべては自分のためでも、そしてミチルのためでもあると、そう思ったからだった。
 この先をどうしようとも、それは文彦には関わり合いのない問題で、首を突っ込むべきことでもなかったし、むしろ文彦はもう関わらないほうが良いはずだった。

「じゃあ、車に。さっきの待ち合わせた場所に――いや、家まで送るよ。嫌じゃなければね」

 文彦は、軽い仕草で肩をすくめて、いつもの調子でうっすらと微笑した。
 脱力してぐったりしたミチルは、淳史に抱えられたまま、ぼんやりとしている。

「ありがとう」

 淳史の答えは早く簡潔だったが、複雑な色合いで文彦に向けられた。
 それを意外そうな表情で受け止めると、文彦は片手をひらりと振って立ち上がった。

「ミチル、立てるか?」

 静かに声をかけた淳史を見上げたミチルの目は、まるで誰だか知覚していない。
 地面に座り込んで、自失しているようだった。
 淳史がその腕を肩にかつぎ、引き上げた時だった。

「う……ッ」
「あ!」

 ミチルの目にぐるりと白目があらわれ、身をくの字に急に折った。
 素早くその体を支えたのは、文彦だった。
 ミチルは体を支えた文彦にしがみつくようにして、その肩に抱きついた。
 急な重みによろめきながら、文彦は足を踏ん張って痩せた体を抱き止めた。

「うぅッ」

 大きく呻きながら、ミチルは吐いた。
 大して胃には何も入っていなかったのだろう、黄色い胃液だけが、ミチルと文彦のシャツに吐き出されて、染みを作っていった。

「早く運ぼう」

 吐かれたことを嫌がることも、咎めることもなく、ただ文彦は生真面目な表情でミチルを抱え直した。
 淳史が強い力でミチルの脱力した体を引き受けて、もうすっかり夜となった道を戻った。
 ツードアのビートルのドアを限界まで大きく開けて、文彦は後部座席にミチルを押し込もうとした。
 意志のない体は重く、文彦では扱いかねて、淳史が文彦の後ろから手助けてようやく座席に寝かすように乗せることができた。

「すまない」

 道路に転がっていたミチルの汚れや異臭は、車内へと同時に運ばれてしまっていた。
 文彦は少し首を傾げて、肩をすくめただけで、特に何かを気にするようでもなかった。

「俺が運転して行こう」
「どうして?」

 わからないことを言われたかのように、文彦は眉を寄せた。

「ほら」

 淳史が指で示してから、文彦は初めて自分のなりに気付いた。
 両手をひらいて見ると、シャツの胸から腕、掌まで、ミチルの嘔吐や汚れでじっとりと濡れたようになっている。

「あ……」

 その様子を横目で見ながら、淳史はすべるように運転席へと乗り込んでしまった。
 文彦はそれを追うように急いで助手席へと座り、無言でキーを手渡した。
 たった一瞬、かすめるように、淳史の指先が文彦の手に触れた。
 手の上で、何かが小さくハレーションするようで、文彦は不思議な感覚にとらわれて、大きな瞳を見開いて淳史を見上げた。
 淳史もまた、うすい唇を引き結びながら、文彦と同じ感覚を持ったように、驚いた表情で文彦を正面から見据えていた。
 視線が合った数瞬、二人の動きは止まっていた。
 淳史は何かを振り切るように、サッと前を見るとハンドルを握った。
 手荒にエンジンを吹かし、急発進したために、車は一度ガクンと揺れた。
 ギアチェンジし、夜の通りを抜けて、車通りの少ない海沿いの道を飛ばしていく。
 小さく嘆息して、首をねじって後ろを見やる。
 ミチルは、ぐったりと青ざめたまま、瞼を下ろしたままだった。
 文彦は、淳史の運転のスピードに身を任せて、助手席の窓に気だるげに頬杖をついた。
 ガラスのような瞳で、表情を変えないまま、じっと流れていく夜景の羅列する白い光を眺めている。
 うねる髪がかかる頬は白く、唇も心なしか白い。

(厄日だね――今日は)

 淳史の家へと向かう車の中で、文彦は一人でふっと沈んでいった。

 


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