上 下
11 / 80
第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 

第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 2

しおりを挟む

 この界隈へと入ってしまえば、あまり安全ではない、どちらかといえば物騒な区域になっていく。

(また――望みもしないのに)

 この一帯こそが、本来は「ストリート」とだけ呼ばれている場所だ。
 竜野や文彦がいるミスティなどのジャズバーが並ぶ通りは、区別されて「リフレイン・ストリート」と総称されている。
 この雑多な区域から、文彦の生まれた町も遠くない。
 治安の悪さは、文彦の育った町のほうが悪いくらいだったろうが、その代わりにストリートでは大きな抗争がよくあった。
 絶えない抗争は、町を疲弊させ、荒廃させていった。
 当たり屋にからまれる面倒を避けて、文彦はなるべく表通りを選んで、ゆっくりと車を走らせていく。
 とある低いビルの前で、文彦は車を寄せた。
 地下へと続く階段、道端に散らばったゴミ、一階に設置された看板は傾きかかっていて、かろうじて「ルナ・ロッサ」と判別できるペイント。

「ここだ」
「ミチルは、こんな――」

 こんなところに、と言いかけたのだろう淳史は、途中で声を低めて途切れさせた。

(そりゃそうだろうな)

 文彦は真顔でそう思ったが、途中で言葉を切った淳史にむしろ少しの感嘆を覚えた。
 以前よりも荒廃した雰囲気がビルを覆っていて、文彦の記憶の中よりも、どこか禍々しい雰囲気が漂っていた。

「こんな……」

 ふっと文彦は囁くように言った。それを取り落とさずに、淳史は文彦を横目で見た。

「何だ?」
「こんな……ところだったんだろうかと、思って」

 文彦はハンドルの上で手を組んで、その上に顎を乗せた。視線は淳史を見ることもなく、けぶるような眼差しで正面を眺めていた。
 文彦のいつかの記憶――その中では、もっとあやしく派手でさえあった店。
 町の荒廃はこうして現れていて、過去とは違う景色を映している。
 雑居ビルの前には地下への矢印。
 階下へと続く階段の先は、ぽっかりと暗い。
 それは冥府にでも続いているかのように闇色で、まるで何も見えない。
 文彦はぼんやりとちいさく唇を開いて、その階段の先の暗闇を見た。
 夕刻が過ぎてラベンダーに空が染まる時間は、何かに出遭う、逢魔ケ刻。

「今井ミチルがいないか見に行って来る?もし彼がいたら、連れて帰るんだろう――待ってるよ」
「ああ」

 淳史の応えは、簡潔で明瞭だった。
 文彦は細い溜め息をついた。
 待ってるよ――そんな言葉を、二度も繰り返した日。

(調子が――狂う……)

 ハンドルを握った手の甲に、文彦は白い額を落として、疲れたように瞳を閉じた。
 文彦は、うすい色の唇をほとんど動かさずに、囁くように歌った。

「I`ll sing to the sun in the sky……」

 ドアに手をかけて開けようとしていた淳史が、急な物憂い歌声に思わず振り返った。
 しん、と静まり返った狭い車内に、「カーニバルの朝」だけが美しく、どこか胸狂おしく、かすかなBGⅯのように響いている。
 それは昼間に文彦がピアノで弾いたボサノヴァだ。
 美しい朝。それはただ、あなたの瞳、あなたの微笑み、あなたの両手を歌っている――

(俺を、俺をどうか、安らかにさせて)

 淳史は、目の前で、長い睫毛が紫色の影を刷く、閉ざされた瞳の青白くさえある横顔を見た。
 日本人にしては珍しく、ボサノヴァもフォービートも体感して表現できるリズム感、正確でいて微細にあえて揺らぐ響き、圧倒的に空気を持っていってしまう強さを秘めて、淳史の手の届くすぐそばで、歌は啼いている。
 文彦はしかし、その淳史の視線を気に留めることもなかった。
 音の他のすべては、文彦の意識の外に押し出されて、色を失っていく。
 文彦は、ただ己の心だけに沈んで、戻れない海の底へと落ちていく。

(どうして、ここへ来たんだろう……)

 その答えは、文彦自身でも判然としない。
 いかなる場所でも、人は、どこかで過去へと振り戻りたいものなのか?

(勝手に探すに任せておけば良かった)

 引き受けてしまったのは、何のせい?
 淳史のためなのか? 自分のためなのか?

(どちらにせよ――)

 ブレスはわずかに乱れて、その心を透かしたようだった。
 舌打ちしたくなる思いを、文彦は噛み殺した。
 セイがフラッシュバックに倒れたこと、淳史がやって来て再びこの町へと訪れる扉となったこと。

(今日は、厄日だね――ああ、そう、厄日だ)

 歌は、苦しいようにぷつりと途切れた。文彦は、そのまま息を止めた。

「Will love come my way……」

 思いがけず、艶のある低い声だった。
 文彦は驚いて、伏せていた顔をハッと上げた。
 わずかに息を漏らせて広がっていく歌声、精確なリズム、遊びはないが風景画のように浮かび上がっていく言葉。

(え――違う)

 ジャズフェスで聴いた淳史の、ドライさと奇妙な切なさの混ざり合う超絶技巧の音楽と。
CMでアルバムで、収録された音源として文彦が聴いた、緊張を伴う均衡の攻撃的でさえあった音楽と。
 文彦が途切れさせたところから、正確にすくい取って、淳史は静かに終わらせた。
 その余韻は、何かをなだめるようで、隠し事を共有するように神秘的にさえ感じられた。

(どうして?)

 文彦の大きく見開いた瞳がくるりと回り、唇が息を求めてわずかにひらく。

「その――それは、どうして……?」
「え?」

 淳史は突然の文彦の言葉に、理解しかねて、問うように眉を寄せた。
 文彦は、何かを反芻したいかのように、無心に指先でリズムと取っている。

「ひとり、だから……?誰かと、演ってるんじゃないから……?あ、うん。誰をも引っ張らなくても良いから。だから、俺はフェスで、孤高の――と思った……?」
「何を、言ってるんだ?」

 文彦の呟きを、淳史はわかりかねて、呆れたように溜め息をついた。

「いつも、そうなのか?」
「え?」

 今度は、文彦が淳史の言葉を理解しかねて、視線を投げた。

「音と本人が違う」
「本人……俺のこと? そう?」
「演ってる時は圧倒的なのに――色気と心地良い安堵とアンニュイさ――それに時折の不安定さが人の心を惹く」
「何? 俺のこと評価してくれてた?」

 文彦は悪戯そうに微笑すると、白い首筋を指先で撫でた。

「本人は、不安定さに時折の安堵、だ。逆だ」
「それはどうもありがとう」

 文彦は大人びた微笑を浮かべて、それから鳩のように咽喉でくっくっと笑った。

「意外と、面白い言い方するね」
「そんなに頭が飛んで、しんどくないのか?」
「……?」

 文彦は、掌をひらりと軽く振って、言葉を紡いだ。

「この世界と、半音高いところに扉はあって。そこに行くんだよ」

 文彦の囁きを、淳史はただ黙って、じっと聞いた。それから、おもむろに口を開いた。

「何だか、ある日ふらっといなくなりそうな気がする。音楽の中では、人と演り合って、確かで、愉悦さえ感じるのに――現実では誰を見て生きてるんだ」
「え……?」

 戸惑うように、文彦は瞳を大きく開いて、淳史を見上げた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

愛玩人形

誠奈
BL
そろそろ季節も春を迎えようとしていたある夜、僕の前に突然天使が現れた。 父様はその子を僕の妹だと言った。 僕は妹を……智子をとても可愛がり、智子も僕に懐いてくれた。 僕は智子に「兄ちゃま」と呼ばれることが、むず痒くもあり、また嬉しくもあった。 智子は僕の宝物だった。 でも思春期を迎える頃、智子に対する僕の感情は変化を始め…… やがて智子の身体と、そして両親の秘密を知ることになる。 ※この作品は、過去に他サイトにて公開したものを、加筆修正及び、作者名を変更して公開しております。

さよならの合図は、

15
BL
君の声。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

からっぽを満たせ

ゆきうさぎ
BL
両親を失ってから、叔父に引き取られていた柳要は、邪魔者として虐げられていた。 そんな要は大学に入るタイミングを機に叔父の家から出て一人暮らしを始めることで虐げられる日々から逃れることに成功する。 しかし、長く叔父一族から非人間的扱いを受けていたことで感情や感覚が鈍り、ただただ、生きるだけの日々を送る要……。 そんな時、バイト先のオーナーの友人、風間幸久に出会いーー

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

林檎を並べても、

ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。 二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。 ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。 彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。

水色と恋

和栗
BL
男子高校生の恋のお話。 登場人物は「水出透吾(みずいで とうご)」「成瀬真喜雄(なるせ まきお)」と読みます。 本編は全9話です。そのあとは1話完結の短編をつらつらと載せていきます。 ※印は性描写ありです。基本的にぬるいです。 ☆スポーツに詳しくないので大会時期とかよく分かってません。激しいツッコミや時系列のご指摘は何卒ご遠慮いただきますようお願いいたします。 こちらは愉快な仲間たちの話です。 群青色の約束 #アルファポリス https://www.alphapolis.co.jp/novel/389502078/435292725

処理中です...