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人斬りの夜

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 ちゃぷん、ちゃぷんっと小舟が起こす波が岸にぶつかり音をたてている。
 聞きなれた水音は眠気を誘い、先ほど受けた拷問の数々は、やはり夢だったのだと庄之助は安堵する。
 それにしても、酷い夢だった。地獄の鬼はかくもあろうかという残虐な仕打ちを与えるのは、容姿だけは鬼とは正反対の天女を思わせる美しい男であった。
 男は妖しい笑みを浮かべながら、庄之助の着物を剥いでいく。抵抗しようにも手足は縛られており、男の手に握られた出刃が怖くて身動き一つ出来なかった。帯を切られ着物を捲られると、せりだした腹が呼吸に合わせぶるぶるっと震えた。
 細くて長い男の指がふんどしを一撫ですると、中に収まっている一物が庄之助の意思とは関係無しに起ち上った。何故こんな事になってしまったのか、己の身体に何をされるのか解らぬ恐怖に、色欲とは異なる興奮を覚えていた。その明らかに盛り上っている部分を、容赦なく踏みつけられ、脳天を貫く衝撃が庄之助を襲う。痛みに叫び声を上げるが、猿轡をされているせいで、くぐもった呻き声しか漏れない。海老のように腰を丸め痛みを堪える庄之助に、男の責めは次々と降り掛かっていくのであった。

※ ※ ※

 男は致命傷にならないよう、少しずつ執拗に庄之助の体を傷付けていった。
 爪先に出刃の切っ先を潜り込ませ、生爪を剥ぎ取る。数枚剥がしたところで、面倒になり、親指以外は指毎切り落とした。
 今日の出刃は、切れ味はいいが薄いため、太い骨を切ると歯こぼれするだろうと考えたからだ。
 ただ単調に切り刻んだ所で、痛がるばかりで面白味がない。恐怖に震え、命を乞うて身悶える様が見たかった。
 愚かな人間共が、しがみつく生から引き剥がされ、畜生のようにほふられる。そうして彼の糧となるために、ただの肉へと変わるその瞬間が、己が生きてここにあると実感できる瞬間だった。

「何があっても生きるのですよ」

 その悲壮な声が、男を支配していた。

※ ※ ※

 庄之助が福耳と自慢していた耳たぶが、噛みちぎられる。
 痛みに歪む庄之助の顔に、男は耳たぶを咀嚼しながら血の臭いのする息を吹き掛けた。
「なかなか旨いぞ」
 そう言うと男は、庄之助の腹を撫でまわし、出刃を煌めかせる。
 喰われる!!
 これまでの責め苦にも、己の命が潰えるはずがないと、麻痺した心の何処かで庄之助は思っていた。しかし、この人外の美しさを持つ男の前では、己はあまりにも無力で神仏に供えられた鶏のように、絞められ毛をむしられ、腹をかっさばかれる存在でしかないのだ。そして己の肉が、男の糧となりその体を巡り蔓延り取り込まれ、男の一部になるのだと思い至った瞬間、身内を貫く放出の快感に襲われ、意識を手放していたのであった。

※ ※ ※

 そうだ、あれは夢ではない。あいつらに騙され、こんなひどい目にあっているのだ。

 ある大店のご新造と手代に呼び出され、二、三杯の酒を飲んだだけで意識が無くなった。きっと薬が盛られていたのだろう。
 気がつけば漁師小屋とおぼしき場所に転がされ、手足は縄で括られていた。助けを求め辺りを見回したが、女も定吉も見当たらない。
 今のうちに逃げ出さねばと這いずって戸口に近寄ったところで、小屋の中に一人の男が入って来たのだ。
 息を飲むほど美しい男の顔は間違いなく、あの女と同じものであった。
 全てが偽りだったのだ、お千鶴の旦那が大店の主であることも、定吉とご新造の仲も、何もかも……
 そう気付いたものの、どうすることも出来ず、男の拷問を受けるはめになってしまったのだ。

 夢うつつから、ようやく意識を取り戻した庄之助は、嫌々ながら目を開いた。すると忘れていた痛みが、一気に身体中を掛け巡る。
「うっ、ぐぅ。ふぅ ぐふっ」
 相変わらず猿轡が嵌められ、助けを呼ぶことは出来ない。首を動かして、己の生命を握っている男の姿を探す。
 淡い月の光が、それを照らし出していた。
 暗闇を纏い、青白い顔を天に向け、神仏の声を聞き取ってでもいるかのように、彼は佇んでいた。
「起きたのか? そのまま寝ておけば良いものを」
 庄之助が意識を取り戻したことに気付いた男は、以外にも優しい声色で話し掛けてくれた。
 何故か、今の彼なら助けてくれるかもしれない、生死の境で庄之助はそう確信した。
 今を逃せばもう機会はなかった。涙を流し、鼻をすすり、哀願の意味を込めて首を打ち振った。
 すると彼は、困ったというように首を傾げ、自らの体を抱き締める。
 ああ、助けて貰えるのなら、今後一生良い行いをしよう。
 己の格など真に選ばれた者らからすれば、虫けらも同然だったのだ。
 ごく普通の、当たり前の生活を、精一杯生きる事、それが幸せだったのだと、庄之助はようやく悟っていた。
 痛みからではない悔悟の涙が、庄之助の頬を濡らす。
 男は庄之助の様子を静かに見つめていた。庄之助を地獄に追いたてる鬼と同じ顔だが、明らかに別人である男はすまなさそうに、かぶりを振った。
「すまない。今の私には、彼を止める事は……」

 望みの綱は途切れた。
 絶望に打ちひしがれる庄之助の精神は、再び闇の中へ滑り落ちて行った。

※ ※ ※
 投げ込まれた水の中、庄之助は三度みたび意識を取り戻した。
 前回目を覚ました時に、腹を数ヵ所切り裂かれたはずだが、苛まれ続けた体の感覚は殆ど無くなり、新たに加えられた「冷たい」という感覚だけが、己が生きているという現実を教えてくれた。

「さぁ、生き永らえたければ、これをくわえろ」
 そう言って、男は庄之助の口に短く切った芦を突っ込んだ。
 いつの間にか猿轡は、取り外されていたが、助けを求めるべく大声を出す気力は、最早残っていなかった。
 戒められた両腕を引き摺られ、今よりも水かさの多い方へと運ばれる。
 このまま顔が沈む程の深みに引き摺られてしまえば、くわえた芦を通じて息をするしかない。
 必死に顔を上向けるも、男が手を放すと同時に頭が水に沈んだ。
 頼みの芦を吸い込んだところで、思いきり水を飲み込んだ。息ができずもがいていると、髷を掴まれ引き上げられる。
 空気を求め喘ぐ庄之助に、もう一度芦をくわえさせ、男は手を放した。
 庄之助は必死に顔を上げていたが、すぐに力尽き水の中へ沈んでいった。

 水から突き出した芦が揺れ動く様を、刀夜は見つめていた。
 やがてその芦が静かな波にさらわれるのを見届けると、全ての興味を無くした様子で、その場を立ち去ったのである。
 
※ ※ ※ ※ ※
「すぐに湯の準備をして参ります」
 そう声を掛け、政司は足早に屋敷の中に入って行った。
 玄関に取り残された刀夜であったが、ぼんやりとした意識のままその後を追った。
 深夜のせいもあるが、住み込みの使用人は最小限にしていた為、殆ど人の気配はしなかった。
 そんな薄暗がりの中、小さな影が廊下を横切り藤也の私室に入って行くのに、刀夜は気がついた。
 部屋の前で立ち止まる。
 あれは何故ここにやってくるのだろうか?
 障子を開き中へ入る、躊躇うことは何もなかった。
 藤也のために敷かれた布団に、美羽は潜り込んでいた。
 寝惚けているのだろうか?
 己の存在を隠す気など毛頭ない刀夜は、布団をめくる。
 いきなり己の在処を暴かれた美羽は、驚いた様子で刀夜を見つめていた。 
 母を守った幼子と、母を喰らった鬼の密かな邂逅の時であった。

「あなた……だれ?」
 不思議そうに尋ねる美羽を、じっと見つめる刀夜であったが、やがて懐を探り一本の簪を取り出した。
「あっ、それ」
 思わず身を起こした美羽に、微かな笑みを見せた刀夜は、その簪を美羽の髪に差してやる。
「お前のだろう」
「そーだけど、何であなたが持ってるの」
 その問いにも答えず、刀夜は美羽を抱き上げる。
「ねぇ、あなたは、とーさまじゃないでしょ」
 もう一度、美羽は尋ねた。
「私の事が知りたいのか?」
 美羽の顔を覗き混んで、刀夜が聞いた。
「うん」
 無邪気に頷く美羽に、刀夜の瞳が愉快そうにきらめく。
「お前が大きくなったら教えてやろう。だから早く大きくおなり…」
 そう言うと、美羽の柔らかな頬を、刀夜は一舐めしたのであった。

※ ※ ※ ※ ※
ー 七年後 ー

 金を気にせず手を掛け形作られた庭で、絢爛と咲き誇る牡丹を美羽は眺めていた。
 通常であれば美羽のような庶民が、足を踏み入れることは叶わない場所だ。藤也兄さまに拾われ、竹風荘に引き取ってもらったおかげで、己がどれ程幸運であるか、美羽はこれまで疑った事がなかった。
 幼い頃に両親と死に別れ天涯孤独の身の上となったが、縁もゆかりもない、ましてや武家としても有力な家柄の藤也に引き取られ、不自由なく育ててもらったのだ。誰に聞いても間違いなく好運だと言われるはずである。
 それにしても、この花は何と綺麗で艶やかなんだろう。美羽は無意識に、牡丹に手を伸ばした。
「汚らわしい手で、触らないで」
 掛けられた厳しい声に、美羽は身を縮める。
 恐る恐る振り返る美羽の目に映ったのは、牡丹の花のように美しい少女の姿であった。
 若葉色の振り袖姿、結い上げた髪を花簪が彩る。
 その印象的な大きな目が美羽を睨み付けていた。
「申し訳ございません。早百合さま」
 詫びる美羽を、早百合は「どうしてお前が此処にいるの」と、きつい口調で問い質す。
「はい、藤也兄さまの御用について参りました」
  その答えにいっそう激怒した様子で小百合は罵った。
「藤也兄さまですって! 何を身の程知らずに兄さま等と。兄上の妹は私ただ一人、お前など勿体なくも情けを掛けられ、拾われただけの犬畜生ではないか」
 激しい蔑みの言葉に、美羽は返す言葉もなく動けなくなる。
 藤也の異母妹である早百合に気に入られていない事は、承知していたが、こうまであからさまに感情をぶつけられたのは始めてであったからだ。
「さっさと出てお行き。この屋敷からも、兄上の竹風荘からも。もう子供ではないのだから、何処かで働きなさい。そうすれば同じ身分の者とも知り合えるでしょうから、そうして所帯でも持てばいいのです」
 それ以外の人生が許されるはずがないと言うように告げられる言葉に、思わず美羽は言い返していた。
「そんな、藤也兄さまと離れるなんて……」
「兄さまと呼ばないで」
 怒りに震える早百合が、手を振り上げる。『ぶたれる』と思った美羽であったが、抵抗するわけにもいかず、痛みに備えぎゅっと目を瞑った。
 しかし与えられるはずの痛みはなく、そっと目を開いた美羽が目にしたのは、振り上げた早百合の手首を誰かがしっかりと捕らえている様子であった。背後から抱き締めるようにして、行動を封じられた早百合は、怒りの形相で振り返ったが、相手が誰だかわかると驚きに目を見開いた。
「兄上……」
 呆然と呟く妹には構わず「帰るよ、美羽」と声を掛け、藤也は早百合から離れる。
 慌てる美羽であったが、唇を噛み締めその場に佇む早百合に頭を下げてから、歩き出した藤也の後を追いかけた。

「……許さないっ」
 屋敷を後にする二人の後ろ姿を見つめる早百合の目には、どちらへ向けたものか激しい憎しみの炎が燃え上がっていた。

※ ※ ※
 藤也の二、三歩後を、俯いたまま美羽は歩いていた。先ほど早百合に言われた事が頭から離れなかった。
 早百合の言うとおり、何処かに奉公に出て、これ以上ご迷惑を掛けないようにした方がいいのではないだろうか。
 貧しい暮らしの中で、子供が幼い頃に奉公に出るのは当たり前の事で、十三になる自分は丁稚奉公に上がるにしては薹が立ちすぎているぐらいだ。
 いつか恩返しをと思ってはいたが、お屋敷では使用人扱いされるどころか、彼女付きの使用人もおり、習い事までさせて貰っている。まるで良家のお嬢様のような暮らしぶりで、この恩に報いるにはどうすれば良いかと途方にくれる。
 そんな風に考え込んでいたせいで、美羽は先を歩く藤也が立ち止まった事に気づかず、その背中にぶつかってしまった。
「申し訳ありません。藤也兄さま」
「大丈夫か」
 振り返った藤也は、笑って美羽の鼻を撫でる。ぶつかって赤くなった鼻と同じくらい顔を真っ赤にして、美羽はうんうんと頷いた。
「ねぇ、美羽」
 笑いをおさめた藤也が、美羽の顔を見つめている。子供の頃から側にいて、その美しさを知っている美羽であったが、それでもじっと見つめられれば、心の臓が高鳴ってしまう。
 何を言われるのかと、緊張しているところに告げられたのは、美羽の想像もしない言葉であった。
「早百合が言っていたように、もう兄さまとは呼ばないでくれるか」
「えっ!」
 早百合に敵意を向けられた時のように、いやそれ以上の衝撃に美羽は息を呑んだ。
 自然に悪い想像ばかりが、膨らんでいく。
 ああ、やはり私はもう藤也兄さまの側にいてはいけないのだ。そろそろ兄さまも、私のお守りから解放されたいと思っているのかもしれないと美羽は思った。
 泣き出しそうになるのを堪え、「あの、いつまでに出て行けばいいでしょうか。出来れば住む所と働かせて貰える所を探すまでは、置いていただけないでしょうか」と頼んだ。
 すると、その言葉に藤也の目がすっと細められる。
「美羽は何を言っているの」
 あまり感情を表に出さない藤也であるが、そこは長年一緒に暮らしてきた美羽である、彼がかなり不機嫌、いや怒っている事に気が付いた。
「すみません、我が儘を言いました。すぐに出て行きます」
 いたたまれず屋敷に向かって、歩き出した美羽の腕を藤也が掴んで引き寄せる。
「美羽は屋敷を出て行きたいの?」
 何故か責めるように、問い詰められる。
「いえ、そんな。美羽は藤也兄さまと、ずっと一緒にいたいです」
 嘘偽りない気持ちを告げる。
「ならどうして、出て行くなんて言うの」
「だって私、兄さまとは血縁でもないのに、ここまで育ててもらって。もう一人で生きていける年になったのだから、このままお屋敷に置いて貰うわけには…」
 言いながら、藤也の顔を見上げる。こうして藤也の顔を近くで見ることも叶わなくなるのだ。これが最後になるなら怒った顔ではなく、優しく微笑む顔が見たかった、そう美羽は思った。
 そんな美羽の心を読んだのか、藤也は優しく微笑んだ。
「そんな事を気にしてたの? 確かに美羽は私の妹ではないが、それでも大事な家族には違いないんだよ。それに言ったろ、竹風荘にずっと居ていいって」
 確かに幼い美羽に藤也は同じことを言ってくれた。それは今も変わっていないと言うことなのだろうか?
「じゃあ、何故兄さまって呼ぶななんて」
「だって私に取って美羽は妹じゃないからね」と、楽しそうに藤也は笑ったが、それがどういう意味なのか、この時の美羽にはわからなかった。
「では、これから何とお呼びすればいいいのでしょうか?」
 美羽の問いに、「ただ藤也と、呼び捨ててくれればいいよ」と言われたが、だからと言って、呼び捨てになど出来るわけもない。
「藤也にぃ……、えっと、藤也さま」
 呼び慣れずにいる美羽を、笑いながら見ていた藤也であったが、日の暮れる気配に美羽の手を取って歩きだした。
「さぁ、うちへ帰ろう」
 仲睦まじい二人の姿が遠ざかってゆく。
 誰もいなくなった川縁は、あの日二人が出会った時と同じ景色であったが、これ以降二人の物語は大きく変化していくのであった。


                       了
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