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○月×日『下心』
しおりを挟む「……あの、」
この一言を発するのに、何十分もかかった。
今、人生で一番緊張している気さえする。
「ん?」
目の前にいる一条寿志という男は、こっちの気も知らず呑気にディナーを楽しんでいる。
「……、」
この人、緊張感なさすぎ。
どこまであの人に似てるんだろ…。
僕一人でこんなに緊張して、馬鹿みたいじゃないか……。
せっかく発した一言も、言葉を続ける気になれずに口を閉じた。
一緒に飯でもどうか、と誘われた時、少し期待してしまった。
今まで恋愛に前向きになれなかったけど、この人にはなにか感じるものがあったから…。
先輩の代わりにしたいわけじゃない。
代わりがほしいわけじゃない。
けど、人並みに恋愛がしたかった。
始まりは最悪だったけど、こうして仕事帰りに夕食を一緒にしたりしながら、距離を縮めていけたりするんじゃないかと思った……のにだ。
賑わうレストランで向かい合わせに座る僕らには、明らかな温度差を感じた。
先日、酒は抜きでと言われたから、自分の中で勝手にシラフでそういったことをしようという意味だと思っていたんだけど、勘違いだったんだろうか。
一条さんは社内でも女性社員にかなり騒がれている人だし、きっと会社を出てもそうなんだろう。
……そんな人がわざわざ僕を?
なんだか笑えない。
冗談を間に受けたってやつかな。
万が一にも、シラフの状態で彼と寝られるかと言ったら、別にセフレが欲しいわけではないからお断りだ。
なのにこの男についてきてしまったのは、やっぱり期待してしまってるからなんだろう……普通の、恋愛てやつを。
けど、きっと期待するだけ無駄なんだろう。
さっさと食べて、帰ろう。
皿の上のものを無言で口の中にいれる。
すると一条さんが困ったように笑ったのが聞こえた。
そっと一条さんの顔を見ると、やっぱりどこか困ったような顔をしてる。
「美味くない?」
「え、……いや、そんなことは…」
正直味わって食べれる余裕は無かったから、上手い感想が出てこない。
「山梨て顔に……ていうか態度に出やすいよな。とって食ったりしないから、ゆっくり食べれば?」
「とって食……?」
「上に部屋とってるとか言わないから、安心しろってこと。」
「ぇ……、……」
……恥ずかしい。
僕の考えてることなんてお見通しなんだ、この人には。
洒落たレストランに連れてこられたからって、考えが安易すぎた。
すごくいたたまれない。
ここから逃げ出したい。
一条さんの顔は見ずに、お手洗いに、と握っていたナイフとフォークを置いて、席を立った。
心無しか涙声で、情けなく間抜けな声だったから、ちゃんと伝わったか分からなかったけど、一条さんの返事は待たずにMANと書かれた表示目掛けて急いだ。
洗面台に手をついて大きく息を吐いた。
……なんでこんな臆病になったんだろ。
一条さんの一挙一動が怖い。
振り回されたくない。
乱されて、悩み考えたくない。
だったら、こんなとこまでついて来なければよかった。
変な期待なんかするから。
ちょっと優しくされて、鵜呑みにして、僕ってやつは……。
「山梨」
顔を上げると、扉を開けて一条さんが入ってきたところだった。
鏡越しに目が合って、僕はただ狼狽えるしかなかった。
「わるい、意地悪だったな」
一条さんは僕を胸に抱き寄せると、耳元でごめん、と囁いた。
「ほら、あれだ。俺が思ってたよりあっさり誘いに乗ってくれたから調子にのったんだ。」
そう言いながらな優しく背中を撫でられる。
「とって食ったりしないっていったけど、下心あるから」
顔が、体が熱い。
ストレートに下心があるなんて言われて、ありえないくらい胸がドキドキしてる。
「部屋行く?」
真っ赤になった僕の顔を、一条さんがのぞき込む。
一条さんも心なしか頬が赤い。
お互いお酒は飲んでないのに。
「部屋はとってないんじゃないですか?」
「今時どうかなーと思ったけどな、実は用意してある。スイートじゃないけど来てくれる?」
僕より大人なのに、なんか可愛い。
僕なんかの反応伺って、優しい人なんだな……。
返事は言葉にしなかった。
僕の返事なんてお見通しだったのかも。
形の整った唇が降りてきて、ゆっくり自分のそれと重なった。
僕は戸惑うことなく受け入れた。
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