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第8話:慟哭と狂気

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 最近、ふと気づくと何も考えずに彼方ばかり見つめていることが多くなった。声を掛けられても反応できないこともしばしばで、心ここにあらずと言われるような状態が続いている。
 そんな風になってしまった原因なんて明確すぎて、言葉にすることだって憂鬱だが。

 机の前に座りながらエドアルドのことを思い浮かべると、溜息が勝手に零れた。

「……はぁ」

 エドアルドの屋敷から戻って十日ほど。その間、彼とは一度も会っていないし、今後も会うことを許されていない。進めていた仕事もヴィートの決定どおりに担当者が代えられ、今は別の人間がエドアルドのパートナーとなって動いているそうだ。

 あの新事業は仕事としても面白いものだったから、できることなら最後までやり遂げたかった。それに――――仕事だけではなく、エドアルド自身ともずっと離れずにいたかった。
セイは込み上げた切なさとともに、眉根を寄せながら目を閉じる。思い出されるのは、エドアルドの屋敷で過ごしたあの日々だった。

『いつか本場の桜並木を、セイと二人で眺めたいです』

 彼はセイの母の国である日本を心の底から愛していて、セイが母と一緒に見た景色を語ったら、たちまち目を輝かせてそう願ってくれた。勿論、ヴィートのことを考えるとそれは不可能なことなのだと分かっていたが、それでもエドアルドと一緒に、とセイ自身も思い描いてしまったぐらいだ。

 他にも二人で夕暮れ時の海を眺めたり、ワインを飲みながらお気に入りの映画を見たりと、許される限りともにしたあの時間は、まるで本当の家族になったかのような気持ちになれて幸せだった。

「エド……」

 失ってしまったものを思うと、胸がギュッと絞まって苦しさを覚える。こんなに辛いならいっそすべてを忘れたほうが楽になるのではとも思ったが、結局一つも断ち切ることができなかった。

 本当に、もうエドアルドと会えないのだろうか。

 最初は運命である彼を警戒し、あれだけ顔を合わさないようにしていたのに、今は会えないことが辛くて堪らない。

 優しく包み込んでくれる腕に甘い言葉、そして時折見せてくる獣のように熱い瞳。思い出すだけで全身が震え、本能が会いたいと訴えてくる。けれど――――。

 連動するように脳裏を過ぎったヴィートの冷たい視線に、すぐさま背筋が凍った。
 冷静にならなければ。ここで思いを募らせ感情を乱したところで、何も変わらない。セイは一度心を落ち着かせようと、次の仕事だとヴィートから渡された資料に目を向ける。と、不意に机の端に置かれた郵便物の束が視界に入った。

 そういえば今日到着した分の手紙の確認が、まだ済んでいなかった。思い出したセイは郵便物を手に取り、個人用と仕事用に分ける。
 
その手がふと止まった。
 
 束の中にあった目に痛いほど真っ白な封筒。宛名は書かれているが、裏に差出人の名が書かれていないそれは、何故だか数ある手紙の中で一番目を引いて、セイは引かれるままペーパーカッターを封筒に宛てた。
 
ピリピリという紙が裂かれる音が止んだ後、ゆっくりと中を覗く。

「え……?」

 驚くことに封筒の中には手紙が一枚も入っていなかった。その代わりに同封されていたのは、ピンク色のリボンが一本。
 セイは首を傾げながらリボンを指で摘み、中からスルスルと抜き出す。

「これ……っ」

 一目で見て、それが何なのかすぐに分かった。端の方に一度結んだ跡が残る絹の細紐。これはエドアルドの屋敷でイヴァンに攫われた時、手首に結ばれたリボンだ。

 ――――この手紙は、エドからのものだ。

 確信のある直感が降りてくる。そして同時に彼がこのリボンに託したメッセージの意味も掴み取った。

 ――――エドも会えないことを辛いと思ってくれている。会いたいと願ってくれている。

 セイは五十センチほどのリボンを握りしめ、胸元に引き寄せた。その時、ふわりと香るはずのない彼のフェロモンが鼻を擽ったような気がして。

「エドっ」

 セイは湧き上がる感情とともに声を上げ、衝動のままに席を立った。
 彼に会いたい。
 そのまま机の引き出しを漁り、中から車の鍵を取り出すと、リボンだけを手に自室を飛び出した。

 しかし――――。

「どこにいくの? セイ」

 屋敷の廊下を走り抜け、もう少しで玄関の扉を潜り抜けられるというところで、あたかも待ちかまえていた冷たい声に止められる。

「ヴィー……」

 セイの足はたちまち地に縫いつけられ、歩みを止めた。

「確か、今日は一日屋敷で仕事だったはずだよね? 別に外に出ちゃ駄目なんて言わないけど、出るなら俺に一言欲しいな?」

 ドンとしてファミリーの人間の行動を把握しておきたいなどと尤もなことをいうが、真意は別のところにあることにすぐ気づく。

「で、どこに行くの?」
「それ、は……」
「何? 俺には言えない場所? もしかしてエドアルドのところだったりして」
「っ……」
「やっぱりね。まったく、彼に会うのは駄目だって言ったじゃないか」
「でも、エドは……」
「エドは? 何?」

 被せるように問われ、言葉を奪われてしまう。

「ねぇ、セイ、俺言ったよね? 俺の傍から絶対に離れないで、って。じゃないと何をしてしまうか分からないって。セイは頭がいいから一度言えば分かってくれると思ったんだけど、そうじゃないってことは、エドアルドを……いや、マイゼッティーファミリーを潰されてもいいってことなのかな?」

 狂気を孕んだ目がこちらを射抜く。怯んでしまいそうになったが、こればかりは、とセイは声を荒げた。

「やめてっ! エドのファミリーを潰すなんて、いくらヴィーでもそんなことしたら許さないよ!」

 あの温かなファミリーを、そしてその家族を守るエドアルドに危害を加えようとするなんて、あってはならないことだ。

「だったらあの男と会うのは諦めるんだ。セイさえ変な気を起こさなければ、俺は何もしないんだから」

 にべもなく言い切られ、部屋に戻るよう言われる。これにはさすがのセイも頭がカァっと熱くなった。

 ヴィートの執着は今に始まったことではない。しかし正直、ここまで彼に口を出す権利はあるのだろうか。これがファミリーに損害を与えることならば、セイだって大人しく引き下がっただろう。だけれどもこれは完全に個人の問題だ、ヴィートの感情だけで決められることではない。

 エドアルドからのメッセージで揺さぶられた本能が、理不尽な要求に激しい怒りを爆発させる。

「どうしてそんなこと言うのっ? 何でエドと会うことが変なことなの?」
「セイ?」
「別にヴィーの仕事に迷惑を掛けるわけじゃないんだから、いいじゃないか。いくら君が僕の友人だからって、ドンだからって、僕の行動をここまで制限する権利はないだろっ」

 これまでヴィート相手に、ここまで強い感情をぶつけたことなんてなかった。だからだろう、慣れないことに喉が震えたが、それでも言葉を止めることはできなかった。

「……ヴィーだってもう気づいてるんでしょ? 僕とエドが運命の番だってことに。出会えることすら奇跡だと言われている相手に出会えたっていうのに、どうして反対されなきゃいけないの?」

 納得ができない。そう告げてヴィートの顔を強い目で睨むと、そこには同じように怒りを浮かべた顔があると思いきや。

「え……」

 酷く傷ついた表情を浮かべた男の姿があった。
 予想外の状況に、次の句が喉の奥に引っ込んでしまう。

「どうして……? 何で、セイがそんなことを俺に聞くんだ?」

 眉根をきつく顰めてから頭を垂らし、床に視線を落としたヴィートが静かに呟く。

「君を最初に見つけたのは俺だよ? あんな急に出てきた男よりも先に見つけて、先にセイを愛したのは俺だ」
「愛……した?」
「何だい? あれだけ分かりやすい態度で示していたっていうのに、俺の好意に気づいていなかったっていうの?」

 これまで彼から向けられていたのは友情ではなく、愛情だった。驚くべき事実の告白に、セイの喉が勝手にヒュッと鳴った。

「だって……ヴィー……好きだなんて告白、一度も……」

 だからヴィートの執着は、一人しかいない友人を失いたくないからだとばかり思っていたのに。

「言えるわけないだろっ! 俺はアルファで、セイはオメガ……好きだなんて告げたら、君がオメガとして警戒するだろうと思って。だから、ずっと黙っていたんだ!」

 ヴィートの慟哭を目の当たりにして、セイは言葉もなく天を仰いだ。
 ああ、何ということだろう。

「俺には物心ついた時から、セイしかいなかった。マフィアの家に生まれて普通の生活ができない辛さも、セイがいたから耐えられた。だから君がオメガだと知った時、俺は初めて天と自分の生まれに感謝したさ!」

 アルファとオメガなら男同士でも繋がることが許されるし、家族も作ることができる。それが暗く狭い世界を生きる中での唯一の救いだったのだとヴィートが叫ぶ。

「父が死んで、俺がこのファミリーを継いでまだ五年。いくらファミリーの名が大きくても、ドンとしては未熟だから君を迎えるには時期尚早だと思って、ずっと我慢してたんだ。それなのにあんな奴に……」
「ヴィー……」
「ねぇ、どうして俺じゃ駄目なの? セイを一番愛しているのも、一番幸せにできるのも俺だけなんだよ?」
「ヴィー、ちょっと待って。少し落ち着いて……」
「こんなことなら、もっと早く君を番にしておけば……――――いや、まだ遅くはないか」

 ゆらり、と度数の高い酒に酔ったかのような動きで、ヴィートがゆっくりと顔を上げる。その顔は喜怒哀楽のどの感情も浮かばない虚ろなもので、得も言えぬ恐ろしさに全身が震え上がった。

「そうだよ、まだ遅くない。だってそうだろ? セイはまだあいつの番になってない」
「君は一体……何を言ってるんだ……」

 セイの言葉を聞いていないのか、聞こうとしていないのか、ヴィートからは返事が一つも返ってこない。

「決めたよ、セイ。俺は君を番にする。次のヒートが来たらセイを抱いて、項を噛む。そうすれば、こんなにも苦しい思いをしなくても済むだろう?」

 世紀の大発見だとでも言わんばかりの様子で話すヴィートの微笑みに、寒気を伴った恐怖が一瞬で最高潮に達する。

 しかし、それも当然の話だ。

 一般的にアルファとオメガは性交の際にアルファがオメガの項を噛んで番関係が成立するのだが、別段、それはヒート時でなくてもよしとされている。それなのにヴィートは、わざわざヒートまで待つと宣告した。つまりそれはセイが発情し、抵抗ができなくなった時を狙うのだと断言したようなものだ。

 何て残酷かつ卑怯なのだろう。ヴィートのことは友人として大切に思っているが、そんな身勝手なことを「はい、分かりました」と受け入れられるはずがない。

「悪いけど、僕はヴィーと番には……」
「そんなこと知らないっ! セイが先に俺を裏切ったんだから、俺だってもうセイのことなんて考えないよっ! 何が運命だ、忌々しいっ! そんなものにセイはやらないっ! セイは俺のものだっ!」
「うっ……くっ……」

 獅子のごとき咆哮に、空気が大きく震えた。続くようにして噴き出した大量のアルファフェロモンに宛てられ、足が勝手に床へと崩れる。

「あっ……っ……か、はっ……」

 苦しい。肺に思い切り圧力を掛けられて息ができない。
 そんな中、ヴィートがゆったりとした足取りでこちらに近づいてきた。

「……さぁ、部屋に帰ろう。それとセイには悪いけど、次のヒートが来るまで部屋の外に出るのは禁止する。これは命令だ」

 とうとう膝だけではなく全身が床の一部と化した身体を、壊れた笑みを浮かべたヴィートに抱き上げられた。
自分の意思で動くことができないセイは、浅い息を繰り返しながらヴィートの顔を見つめることしかできない。

 どうして、こんなことになってしまったんだろう。どこで間違えてしまったんだろう。どんどん薄くなっていく意識の中で繰り返し考えたが、その答えは暗闇に落ちるまで見つかることはなかった。

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