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第9話:カレーと膝枕

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 室内にザクッ、ザクッという、扱い慣れていないことが丸わかりの包丁音が響く。

「包丁で野菜を切る時は、支える方の指は中に折る。じゃないと指切るぞ」
「指を折る? こうですか?」

 隣に立った誠一に指摘され、幸輝が慌てて左手の指を折り曲げる。

「違う。野菜に爪立ててどうするんだよ、ホラ、こうだ」

 口で説明するより早いと、誠一が幸輝の手を上から包むように握り、指の形を教える。

「分かったか?」
「は、はい、分かり……ました」

 不意に触れられたことで緊張した幸輝が、不自然に全身を固くした。
 あの夜、玲二に相談したことで自分の気持ちに自覚してしまった幸輝は、少しの接触でもこうして動揺を抱くようになった。
 せっかく貴重な休日を使って料理を教えて貰っているのに、これでは誠一に申し訳ない。幸輝はどうにか平静を努めながら、生の人参に包丁を入れた。

「でも、どうして最初に作るのがカレーなんですか?」
「どうしてって、カレーはルーの配分さえ間違えなければ失敗しない上、切る、炒める、煮る、の行程を一気に勉強出来る料理だからだよ」

 言われて幸輝は深く納得した。確かに、カレーの最後の決め手はルーだ。
 しかし、誠一は比較的簡単だと言っても、やはりフレンチトースト同様、初心者には難しい料理で、幸輝は額に汗を掻きながら必死に作った。その甲斐もあってか、出来上がったカレーは無事成功。作った幸輝は勿論、誠一も「美味い」と言って褒めてくれた。

 料理は結構楽しいものだ。誰かの為に作って食べて貰うことが、こんなにも幸せな気持ちになれるとは思わなかった。
 もしかしたら、このまま料理の魅力に引き込まれてしまうかもしれない。そんな予感すらした。

「各務さん、各務さん! 次、これ作りたいです」

 食後、今日の為にと買ってきたレシピ本を読んでいた幸輝が、とあるページを開いて誠一に見せる。

「あぁ? 肉じゃがだぁ? お前にはまだ早ぇよ」

 幸輝が指を差した肉じゃがのレシピを見て、眉間を顰めた。

「でもカレーも成功しましたし、きっと僕の料理レベルは肉じゃがに到達してると思うんです」
「お前、和食を舐めんなよ。いいか、和食ってのは油や味の強い調味料を使わねぇ。つまり誤魔化がきかないってことだ。味の調節に失敗して泣くだけだぞ」

 どうしてもあの甘い肉じゃがが自分で作りたかった幸輝が諦めずに食い下がると、より厳しい言葉を贈られた。

 誠一はもとからぶっきらぼうな口調だから、こういう言葉を口にすると人の数倍も強く聞こえる。時々、こんな物言いで営業が出来るのかと疑問を抱くが、これが顧客を前にした瞬間に丁寧な口調に変わるのだから不思議でならない。つい先日も顧客と電話で話している誠一を見掛けて、思わず二度見してしまったぐらいだ。

「調味料の配分は、本に書いてあるじゃないですか」
「バーカ。本通りに作っても、スーパーで売ってる総菜並みのものしか出来ないんだよ。和食は作る奴によって味が変わる。そいつが培ってきた腕と味覚と感性。それが最大の隠し味になる。特に俺等が好きな甘い肉じゃがってのが、その代表だ」

 詰まるところの話、一度や二度料理が成功したからと言って、簡単に作れるものではないと言いたいらしい。

「ということで、お前にはまだ早い」
「もう……そう頭ごなしに無理無理言わなくてもいいじゃないですか」

 例え百パーセント無理だとしても、少しぐらいは挑戦意欲を認めて欲しかった。言葉として出せない文句を唇を尖らせることで表現すると、程なくして頭の上に大きな手が降りてきた。

「拗ねるな。ちゃんと理想の肉じゃがが作れるようになるまで、付き合ってやるから」
「本当ですか?」
「俺は嘘は言わねぇ」

 肉じゃがが作れるようになるまでは、かなりの時間を要する。そう言ったのは誠一だ。ということは、それだけ誠一とずっと一緒にいられる。
 これなら一生、肉じゃがを作れなくてもいいかもしれない。いや、それよりも誠一の胃を掴むぐらいの物を作れるようになって、ずっと離さないようにした方がいいのか。頭の中で色々と考えながら今後の方針を決めていると、ふと幸輝の肩に温かな重みが乗った。

「……え?」

 何かと思って視線を重みの方に向けると、幸輝の肩に乗っていたのは何と誠一の頭だった。
 自分の肩に誠一がもたれ掛かっているなんて、信じられない。
 どうして突然、と狼狽しながらもほんの少しだけ顔を寄せると、ふわりと誠一から煙草と清潔な石鹸の香りがした。

「各……務さん」

 少しだけ、触れてもいいだろうか。近くなった距離に僅かな欲を抱く。そっと指を伸ばして誠一の前髪に触れてみる。

「……ん……?」

 起こすつもりなんてなかった。ただ、触れてみたかっただけだったのに、髪の先に触れた途端、誠一が気配を感じ取って目を開けてしまう。

「……ああ、悪い。一瞬すげぇ眠気に襲われたな」

 多分、美味い飯をいっぱい食ったからだろ、と謝りながら誠一は体勢を戻し、眠気を覚ますように背伸びをした。
 せっかく誠一の体温を感じられていたのに。幸輝は残念な気持に包まれながらも、不意にあることを思いつく。

「あの、僕の膝で良かったら、貸しましょうか?」

 思いがけない幸輝の提案に、誠一は目を見開いてから軽く笑った。

「膝って……何が悲しくて、男の膝なんて借りなきゃいけないんだよ」

 しかし文句を吐きつつも、何故か誠一からは絶対に嫌という空気は伝わって来ない。その様子を見て、幸輝はもう少しだけ押してみることにした。

「そりゃ、女の人と比べたら硬いかもしれませんが、別に誰も見てませんし。それに、膝枕は男の夢って言うじゃないですか」
「確かにそうだが、それは相手が女の場合だろう」
「それなら、僕のこと女の人だと思って下さい。目を閉じちゃえば、僕の顔なんか見えませんし」

 誠一に向けて、ニコリと笑いかける。すると誠一は、何故か赤い顔をして目を逸らした。

「いや、月瀬の顔が嫌とかじゃねぇけど……」

 そっぽを向いて、誠一はぶつぶつと独り言を吐く。

「でも、もしかしたら気に入るかもしれませんよ? この前も会社の人と話してた時、僕の太腿は触り心地がいいって褒められましたから」
「……は?」

 幸輝が不意に思い出した話を口にすると、矢庭に誠一がこちらを振り向いた。その顔はどうしてか分からないが、やや険しくなっている。

「え、だから僕の太腿が――――」
「触り心地がいいってことは、誰かが触った……ってことか?」
「え? ええ。各務さんに言われて笑顔を変えるようにしてから、色々な人と話す機会が増えて……確か、あれは身体作りの為にフィットネスクラブに通ってるって話を聞いた時かな? 僕も健康の為に通ってみようかなって言ったら、まずは下半身を鍛えた方がいいってアドバイスを貰ったんです」 

 その時に、と事実をありのまま話すと、目の前にあった誠一の顔が更に険しくなった。
 更に、両肩をガシッと強く掴まれる。

「相手は?」
「話してた相手ですか? 営業二課の近藤さんです」
「あいつかよっ!」

 みるみる機嫌が悪くなっていく誠一を前に、何が原因で苛立っているのか分からない幸輝は酷く狼狽する。もしかしたら何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。心配になって涙が出そうになる。

「各務さん……僕、何か悪いことでも言いましたか?」

 恐る恐る尋ねると、途端に誠一はハッと目を見開いた。

「わ、悪い……何でもない」

 ばつが悪そうな顔をして頬を赤くした誠一がそっぽを向く。
 しかし次の瞬間。

「……やっぱ、膝借りる」

 一言だけそう言うと、誠一は身体を横にして頭を幸輝の太腿の上に乗せた。

「あの……各務さん、怒ってないんですか?」

 真下にある誠一の顔を覗きこんで問いかけると、つい今し方とは正反対の穏やかな微笑みが返ってきた。

「別に怒ってないから、今のは気にするな。……ちょっと近藤が気に食わなかっただけだ」
「あ、そうだったんですか、良かった。僕、変なことしちゃったかと思いましたよ」

 誠一が怒りを抱いていた相手が自分でないと分かり、幸輝はホッと安堵の息を零す。きっと同じ営業だから、何かしらの確執があるのだろう。そう思うことにして、今の話を隅に追いやった。

「じゃあ各務さん、目を閉じたら飛び切りの美人の顔、思い浮かべて下さいね」
「飛び切りの美人、ね……」

 膝の上に頭を乗せた誠一が、幸輝の方をチラリと見る。それから「分かった」と言って目を閉じた。
 誠一が誰を頭に思い浮かべているのか分からない幸輝は、見えない相手に少しばかり嫉妬をしながらも持っていた本を机の上に置く。そしてゆっくりと誠一の髪を撫でた。

 幸輝と比べて少し硬めの髪が、動かす指の間を擦り抜ける。
 膝に伝わる誠一の体温。そして安心しきった顔で身を委ねてくれる誠一。
 全てに対して、幸輝は慈しむ笑顔を浮かべながら何度も何度も撫でた。すると髪を撫でられることが気持ち良かったのだろうか、やがて誠一の呼吸がゆったりしたものになり、それが寝息へと変わる。

 ――各務さんの寝顔、結構可愛いんだ。

 誠一に泊まって貰う時は、誠一にベッドを使って貰い、自分はソファーで寝ている。だから寝顔を見たのは、今日が初めてだ。

 ――ああ、やっぱり好きだ……。

 誠一が、愛おしくて堪らない。
 想いを自覚してから、幸輝はどうして誠一がこんなにも好きなのか何度も考えた。そうして出て来た答えは、誠一が与えてくれるもの全てが、複雑な形をした幸輝の心にぴったりと填るからだという理由だった。

 基本的に優しいけど、時にはきちんと叱ってくれるところ。面倒見がいいところ。ぶっきらぼうだけど、幸輝が一番欲しい言葉をくれるところ。
 きっと本人は無自覚なのだろう。けれど、その身体から、指先から、笑顔から与えられるもの全てが、幸輝の中に無理なく入ってくる。

 誠一は今まで出会った人間とは全く違う。優しいという点に関しては玲二と似ているが、根本的な性質が違う。誠一という人間を言葉にして形にするなら、この先二度と出会わないであろう唯一無二の存在だ。

 だから、誠一との関係をずっと続けていきたい。
 たとえ思いを告げることはできなくても。
 ただ、それだけが幸輝の願いだった。
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