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最終話

幸せのマドレーヌ

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 部屋中に甘い香りが広がる。

 これは、そろそろ菓子が焼き上がる合図だ。
 二人の休みが揃った日の午後、朝陽は隼士の好物であるマドレーヌを焼いていた。

「よし、順調順調」

 オーブンの中、オレンジ色の光りを浴びながら狐色に焼き上がっていく生地を見て、朝陽がうんうんと頷く。
 そういえば隼士が言っていたが、朝陽のマドレーヌは「世界で一番美味い焼き菓子」らしい。どんな高級なものも、有名なパティシエが作ったものも、朝陽のものには及ばない。そこまで言い切るほどの惚れ込みようだ。

 しかしそんなマドレーヌだが、実は至って普通のもので、別段、特別な食材が入っているわけでも味を変えているわけでもない。
じゃあ何が違うのかと言えば、ただただパサパサとした生地が苦手な隼士のために、蜂蜜とレモン汁を加えてしっとりさせただけ。

 たったそれだけでも、隼士にとっては天と地ほどにも違う物になるらしい。
 本当に、料理というものは不思議なものだ。誰かのためと考えるだけで、同じ料理が全く違うものになるのだから。

 料理は愛情だ、なんて良く言ったものだと思う。

「美味しそうな匂いだ。焼き上がりが待ち遠しいな」

 オーブンを覗いていたところを背後から抱き締められ、菓子よりも甘い声で囁かれる。

「んー、あと十分ぐらいでできるよ。でも焼き上がった後、少しの間置いて熱を取らなきゃいけないから、実質は二十分ぐらいかなぁ」

 菓子は出来上がりをすぐに食べても美味しいが、やはり粗熱を取った方が味も落ち着く。隼士は一刻も早く食べたそうだが、最高の状態の物を食べて貰うためにも、摘まみ食いは絶対に阻止しよう。

「あ、そうだ。今回はたくさん作ったから、明日、光太さんに渡して貰っていい?」
「何だ、俺が全部食べようと思ってたのに」
「…………隼士ぉ?」
「……というのは嘘だ。分かった、光太さんには世話になったし、礼と共に渡しておこう」

 即座に戻ってきた返答に、やや焦りが含まれている。絶対に最初の言葉は本心だっただろうと疑いながら、朝陽は話に出た光太とのことを思い出した。

 光太といえば、あの一件の後も今までと同じ付き合いを続けている。いや、それどころか、二人と光太との関係は以前よりも一層強いものになった。

 最初、光太は朝陽の部屋を勝手に探ったことを気にかけていたようだが、光太のおかげでまた隼士とやり直すことができたのだと感謝を伝えると、彼は心底安心した顔で「これからも朝陽の料理が食べられる」と喜んでくれた。そして二人の友人として、朝陽達の仲がずっと続くよう応援してくれるとも言ってくれた。

 光太が味方だなんて、これほど心強いことはない。

「じゃあ、小分けにして包装しとくな」
「ありがとう、助かる」
「それと、マドレーヌに合わせるお茶は、ダージリンのストレートでいい?」
「ああ、完璧だ。さすが俺の朝陽だな」

 好みを当てたことが嬉しかったのか、隼士が温かな囁きで褒めてくれる。しかし与えられた甘い空気に朝陽が頬を緩めていると、何故か不意に抱き締める腕の力が強くなった。

「どうした、隼士?」
「そういえばこの間、光太さんと昼を一緒に食べた時、『どうして俺はよりによって朝陽のことだけ忘れたのか』という話をしたんだ」

 勿論、それは単なる推測を述べ合っただけで、議論によって真の答えを求めるというものではない。単なる雑談の一つだ。だが、その話の中で、隼士は一つの見解を見出したのだという。

「もしかしたら俺の記憶障害は、俺の強すぎる独占欲が原因だったんじゃないかと」
「独占欲?」
「そうだ。俺の独占欲で朝陽を傷つけてしまわないよう、一度冷静になる必要があったから、身体が朝陽のことだけを忘れさせた」

 当然、この考えは正解ではない。そもそも問題があるからという理由で、人間の記憶を消去することなどできるわけがないのだから。ただ推測の域で考えると、何故かこの理由が一番しっくりきたのだと隼士は語る。

「へ、どういうこと? 昔の隼士だったら、俺が怪我する可能性があったってこと?」
「ああ。今でさえ日に日に朝陽への思いが強くなってるんだ、きっと昔の俺は酷い独占欲で塗れていたに違いない」

 そしてその醜い感情で、朝陽を苦しめる可能性があったと、断言に近い強さで言い切る。
 そこまで言われて、朝陽はふと思い出した。
 確か、高校時代の旧友達も隼士の独占欲が凄かったと言っていたことを。

「ちなみに、光太さんからも『朝陽を好きなのは構わねぇが、お前の執着は強すぎるから嫌われないように注意しろよ』と釘を刺された……」

 つまり光太から言わせれば、今でも十分危ない域にいるということだ。隼士は朝陽の肩口に額を埋め、暗く重い溜息を吐いた。

「確かに俺自身、時々想いの度合いを超えているなと感じる時はある。だが、そうだと分かっていても、俺はこの強すぎる衝動を抑える自信がない……」

 隼士がここまで悩み、落ち込みを見せるということは、本当に自分でもどうしようもできない段階まできてしまっているのだろう。

「うーん、よく分かんないけど、自信ないなら無理して抑えなきゃいいんじゃねぇの?」
「でも、この独占欲のせいで、またいつか朝陽のこと忘れるかもしれないと思うと、何だか怖くなってな……」

 一応は欲情を抑えようと、日々努力をしているらしい。

「記憶かぁ……」

 朝陽からしてみれば、人間の記憶なんて病気でもないかぎり、そうそう繰り返し消えるものではないもの。しかし一度失っている隼士にとっては、一番の恐怖となる。だからこそ、ここまで怖がるのも当然だと理解できるのだが――――。

「なー隼士、色んな想像を広げてくれるのは構わないんだけどさ、悩む前に一つ、俺の疑問に答えてくんない?」
「何だ?」
「隼士って、皆が言うほど独占欲強いか?」
「……は?」

 顔を上げた隼士の口から、気の抜けた音が漏れる。

「あ、いや……多分、強いと思うが……」

 隼士の口振りに戸惑いが混ざる。
 どうやら朝陽の返答は、予想だにしなかったものだったらしい。
 しかし朝陽がこんなふうに改めて尋ねたのには、意味があった。

「どんなところが?」
「例えば……朝陽が俺以外の人間と一緒にいると、嫉妬で狂いそうになる」
「それって恋人なんだから、普通じゃね? 俺だって嫌だよ」
「ほんの僅かな時間でも、朝陽がどこにいるか分からないと不安になる」
「なら、どこにいるか分かるようにすればいいじゃん。最近、相手の場所を特定できるっていうスマホのアプリがあるらしいぜ」

 心配なら、それを使えばいい。ただし、そのアプリを使うなら、こちらのスマホにも同じものを入れて、隼士の居場所も分かるようにして貰うが、と条件をつける。

「朝陽が俺から離れようとしたら、監禁するかもしれないぞ」
「したきゃ、すればいいじゃん。あ、でも、それだと食材買いに行けないから、隼士が全部買ってこいよ。それと光太さんがご飯食べたいって言い出したら、ちゃんと部屋に連れてくること!」
「え? あ……ああ、それは構わないが……」

 何故か、背後にいる隼士の意気がだんだんと萎んでいく。そんな様子を後目に、朝陽は隼士に監禁された後の生活を思い浮かべて嬉しさを堪えきれずに笑みを零した。

 外に出られないということは、必然的に仕事を辞めなければならない。それは少々惜しい気もするが、仕事か隼士かと聞かれたら迷わず後者を選んでしまう自分にとって、全てを隼士に捧げる生活は魅力的でしかない。

「けどさ、隼士と外でデートしたい時は、どうすればいい? 俺、隼士と行きたい場所、まだいっぱいあるんだけど」
「デートくらいなら、いくらでも……」
「じゃあ、何も問題ねぇな。よし、いつでも監禁してくれていいよ!」

 今にも職場に退職届を出さん勢いで目を輝かせる。すると、背後であからさまな困惑を浮かべる隼士の顔が、オーブンのガラス窓に映って見えた。

「さて、嫉妬に追跡に監禁ときて、その次は? 何かある?」
「いや、恐らくこれぐらいだが……」
「何だ、なら記憶はもうなくならないから、安心しろよ」

 この程度のことなら独占欲になんてならないから。あっさり言い放つ。
 そう、つまり朝陽にとって隼士の懸念する執着は、強欲にならない。だから先程隼士から悩みを打ち明けられても、いまいち共感できなかったのだ。

「ふ……はは……、アハハハハッ!」
「ん? どうした? 突然笑い出して……」

 突然肩を揺らして笑い出した隼士に、首を傾げる。今の話の流れのどこに笑う要素があったのか、朝陽には分からない。

「ハハハッ、いや……何か、もう――――」

 言葉の途中、肩を持たれ、流れるようにくるりと身体をひっくり返される。向き合った視線の先にあったのは、明るい灯火が点ったように笑う隼士の顔だった。

「さすが、俺が愛した最高の恋人だと思っただけだ!」
 称賛の言葉と同時に、噛みつくようにして唇を奪われる。朝陽はやにわに向けられた歓喜に瞳をパチパチとさせながらも、柔らかな熱を受け入れた。
 正直、キスされている今でも、隼士が何に対して喜んでいるのか不明のままだ。
けれど――――まぁ、隼士が楽しいならそれでいいやと、朝陽は重なりを割って滑り込んでくる舌に自分の舌を絡めた。

「んっ、はぁ、ん……」

 キスがいつもより甘い。口腔内で混ざる互いの唾液が、まるで濃厚な甘露のようだ。
 この甘さは、もうすぐ焼き上がる菓子の香りのせいか、はたまた隼士の愛の濃さか。
 腰が蕩けるほど淫靡な舌の愛撫に酔いしれながら、朝陽は隼士の首に両腕を回す。

「んぁ……ふっ、隼……もっとぉ……」

 ジリジリと温度を高めていく欲に、朝陽は淫らな期待を抱いた。
 たまにはベッド以外の場所でするのも、雰囲気があっていいかもしれない。
 普段、朝陽が料理をするために立つこのキチンで隼士に調理される。そんな光景を想像しただけで、下半身が疼いて堪らなくなった。

「朝陽……っ、愛、し……てる」
「俺……っ、も……んっ……」

 もっと触れて、もっと求めて。そう願うように隼士の髪に指を絡め、唇の重なりをさらに深くする。すると隼士もその気になったようで、朝陽の背を抱いていた腕が、そろりそろりと背筋をなぞり、臀部に移動した。

 ああ、もうすぐ濃艶の時間が始まるのだと朝陽が喉を鳴らす。 
 その時だった。
 ピーーピーーピーー。

「……え?」
「……ん?」

 耳のすぐ近くで響いた、あまりにも場にそぐわない音に二人が動きを止める。一体何かと音の方に目を向ければ、マドレーヌを抱いたオーブンが、「自分のことを放って置くな」と嫉妬せんばかりに焼き上がりの音を響かせていた。

「あー、うん……」
「…………忘れてた」

 甘美な世界から瞬く間に引き戻され、二人で揃って間抜けな声を出す。
 身体は既に臨戦体勢になっているのに。
 まな板の上の鯉になる気満々でいたのに。

「くっそ、今ほど自分が料理家だってことを後悔したことはねぇよ!」

 焼き上がったマドレーヌをそのまま放置すれば、オーブンの中で発生した湿気によって台無しになることを知る朝陽は、泣く泣く隼士から離れ、親の敵を取るかのようにオーブンミトンを掴むのだった。



END
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