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9話
酷い思い違いをしていたのは────。
しおりを挟む今夜のメインはポトフだ。
ポトフは色々な野菜をザクザクと大きく切って、ソーセージと一緒に煮込むだけの簡単な料理。例えたくさん作りすぎたとしてもシチューやカレー、具材だけを使ってサラダにも変身する。味だってシンプルなコンソメから、トマトやキムチ風味と様々な応用ができる最高に万能な料理だ。
今日の夕食は光太が食べに来ているからエスニック風にしてみようかとも考えたが、それだと辛いものが苦手な隼士が食べられなくなってしまう。そうなるとやはり基本のコンソメ味を作っておいて、後から別の鍋で辛味を足すのが妥当だろう。包丁を動かしながらそんなことを考えていると、隣からの溜息交じりの突っ込みが入った。
「オイ、朝陽。ポトフ用のニンジンが、桂剥き大会の参加材料になってんぞ」
それは隼士よりも一足先に仕事を終え、料理の準備の手伝いに来てくれた光太のものだった。しかも、「ぶっちぎりの優勝オメデトウゴザイマス」とオチまでつけられる。
しかし、朝陽は言われている言葉の意味が理解できなかった。一体光太は何を言っているのだろう。首を傾げながら手元を見れば――――。
「あ……」
ざく切りにするはずだったオレンジ色が、見事な薄皮の反物となってまな板の上に折り重なっていた。
「え、あれ、何で?」
完全に無意識だった。
「何で、は俺の台詞だボケ。料理教室の講師が食材で遊んでんじゃねぇよ」
「す、すんません……」
確かに職業柄、食材を無駄にするのはいただけないと朝陽は素直に謝る。と、光太は「その人参はサラダ行きな」と告げて、さっさと自分の仕事であるジャガイモの皮むきに戻った。
「で? その絶不調の原因は隼士か?」
「へ?」
「何があった?」
「い、いやっ? な、何もないっすよ?」
「声が裏返ってんぞ」
「う……」
鋭い指摘に、頭を垂らす。相手の隠しごとをすぐに見出してしまうとは、さすが多くの人間の心に寄り添い、弁護してきた敏腕弁護士の一人だ。隼士同様、光太に隠しごとはできない。
だが話を振ってきた割に、光太はそれ以上何も言ってくる様子がなく、ただただ皮むきに勤しんでいる。
恐らく、朝陽から話を切り出すのを待ってくれているのだろう。
「……恋人、見つかったんですよね……」
改めて用意したニンジンを切りながら、ポツリと漏らす。
「あー、静香のことか。でも確定じゃねぇんだろ?」
多分、隼士から聞かされたのだろう。光太も経緯を知っていた。
「けど……隼士が食べられるお菓子作れる人だから……」
あの時、隼士は「じっくり話し合いたい」と言っていた。けれども、朝陽は二人がそのまま付き合ってしまうものだと思っている。確かな根拠はないが、そんな予感がするのだ。
「それで? 隼士と静香が付き合うようになったら、どうすんだ?」
「どうするって……そりゃ祝福しますよ。親友の幸せを喜ばない人間はいないでしょ?」
「そんな絶望しきった顔して祝福? お前、本当バカだな」
漸く皮むきの手を止め、こちらを見た光太が眉間に皺を寄せながら暴言を吐く。
「バカって……光太さん酷いっすよ」
「バカにバカって言って何が悪い。ってかよ、んな誰かに取られるかもって想像で情緒不安定になったうえ、注意散漫だのミスだのするようになるぐらいなら、最初から嘘なんか吐くんじゃねぇよ」
「……え?」
「回りくどいの嫌いだから単刀直入にいうけど、隼士が探してる恋人って、お前だろ」
冗談なんて微塵もない顔で、真っ直ぐ見つめてくる。あまりにも唐突な斬り込みに、ヒュッと息を吸ったまま、呼吸が止まりそうになった。
「な、に言ってるんすか……」
「下手な芝居はいい。俺、全部知ってるから」
一歩一歩、気づかれないように逃げようとするも、即座に間合いを詰められてしまう。まるで獲物を締め殺さんとする大蛇のごとく威圧感に、朝陽は背筋を凍らせた。
「前にここで飯食った日あったろ。あの時、お前の部屋で隼士が持ってる指輪と同じもの見た」
それは以前、二人で鍋を食べた時のことだ。朝陽が隼士との電話で席を外している際に、朝陽の部屋に入り、そこで指輪を見つけたのだという。
「どうして、そんな…勝手に……」
「勝手に部屋に入ったことは悪かったと思ってる。お前が許せないっていうなら、それなりの罰だって受けてやるよ。でもあの時、あからさまに何か隠してますって素振りだったし、何よりもお前、隼士が記憶なくした直後からおかしかっただろ? だから絶対に何か抱えこんでるって、心配になったんだよ」
朝陽は前々から自分を抑える癖がある。会う約束をした時でも、相手に別件の予定が入ると必ず自分から身を引く。ふとした会話の中でも、過度な自己主張をせずに周りを立てる。それに気づいていた光太は、すぐに違和感を覚えたのだという。
「なぁ、何で恋人だったこと隠したんだ?」
「そ……れは……」
早く否定しなければと、焦りが心の中を占める。が、突然核心を暴かれ、酷く狼狽してしまった朝陽は何も言えない。
「お前のことだから、相応の理由あんだろ?」
悩んでるなら話してみろと、少しも疑いのない光太に真っ直ぐ見つめられ、完全に閉口してしまう。やがて目を合わせることすらも苦しくなってきた朝陽は、悪戯を見破られた子供のように瞳を左右に震わせ、そのまま視線を下げた。
そんな朝陽を横目に、光太が隼士さ、と言葉を続ける。
「アイツさ、仕事の休憩中とかずっと指輪見つめてるんだぜ。きっと忘れちまったことの罪悪感とか、早く見つけ出してやりたいとか色々考えてんだろうな」
それは、朝陽の知らない隼士の姿だった。
「それぐらい恋人を大切に思うアイツの気持ち、信じられないのか? お前にとって、アイツの愛はそんなに弱いもんだったんか?」
「っ……違うっ! 隼士の愛は弱くなんかありませんっ! 隼士は男の俺と一生生きてくれるって覚悟を決めて、プロポーズまでしてくれたんです!」
隼士を否定されそうになったことに我慢できず、衝動的に真実を漏らしてしまう。瞬間的にしまったと目を見開いたが、時既に遅かった。
「やっと吐いたか」
「あ……」
自分はまんまと光太の誘導に引っかかってしまった。気づいた朝陽は、萎れた花のようにみるみる小さくなり、息を詰めながら唇を噛んだ。
もう、ここまで言ってしまったのなら、隠すことは諦めるしかない。
「で、隠した理由は何だよ?」
「……隼士の未来を壊すのが……怖かったんです。だから記憶をなくしたことを利用して、関係をリセットした……」
「隼士の未来を? 何だ、お前が恋人だとアイツの未来は壊れんのか?」
問われ、朝陽は迷うことなく首を縦に振る。
「俺、隼士には幸せになって欲しいんです。裁判官になる夢を叶えて、それから綺麗な人と結婚して……子供を作って……誰からも認められる人生を送って貰いたい」
優秀で将来性のある隼士には絶対、絵に描いたような人生が似合っている。
「でも、俺じゃ……そんな未来を歩ませてあげられない。隼士を不幸にすることしかできないんです……」
隼士が名のある役に就けば、今の何倍という人間に囲まれることになる。仲間や仕事関係者は勿論、時には政治関係者にだって会って話すこともあるだろう。そういった時、場を繋ぐ会話の一つとして、家族の話題が持ち上がることが多い。
結婚相手はどんな人間か、子供は何人いるのか、どこの学校に通っているのか。もしも朝陽を相手に選んでしまえば、隼士はそんな場面で度々苦い思いをしなければいけなくなる。それが苦痛だと真実を話せば対応は楽になるものの、今度は誹謗中傷の的になる危険や、下手をしたら裁判官には不適切だと職を奪われる危険に晒されるかもしれない。
今はまだ若いから、愛を優先した行動を取っても笑って許される。が、十年後、二十年後となると必ず無理が出てくるはずだ。
「俺は、隼士の夢を奪う原因になりたくないんすよ……」
いくら時代が同性愛に寛容となり始めたといっても、認めてくれるのは少数の人間のみ。いつだって世間は多勢の批難に屈するのだ。
隠していた思いを、全て光太に吐き出す。
すると何も言わずに聞いていた光太が、ハァと呆れたような溜息を吐いた。
「それが隼士の本当の望みじゃないって分かってるくせに、何でそんな風に考えるかなぁ」
理解ができないといった様子で、光太が細かく首を横に振る。
「記憶をなくす前の隼士の望みというなら、そうだったかもしれない。でも、今の隼士は違うでしょ?」
今の隼士は男を求めていない、ちゃんと女性を愛せる人間だ。ならばわざわざ不毛な愛に手を伸ばす必要はない。
「だから、俺は隼士に自分が恋人だったことを話すつもりはありませんよ」
「……はぁ。お前ってさ、かなり頑固だよな」
「そうです?」
「ああ、部外者の俺がどれだけ説得しようが、意志は曲げねぇって顔してる」
「なら、このまま引いて貰えると助かります」
できれば光太とは言い争いたくないし、これからも友人としての関係を続けていきたい。そう願うと、光太は意外にあっさりと引き下がる姿勢を見せた。
「ああ、そうしとく。最初から聞く耳持たない奴相手に説法するほど、俺も暇じゃねぇしな。ただ、これだけは言わせろ。――――お前、隼士のため、隼士のためって言ってるけど、それ間違ってるからな」
「え……?」
「お前が逃げてるのは、自分が壊すかもしれない隼士の未来じゃねぇってことだ」
「それ、どういう意味……」
光太の考えを聞こうと一歩踏み出す。しかし、朝陽が言葉を言い切る前に、部屋のインターフォンが鳴った。
これは、仕事を終えた隼士が到着したのを知らせるものだ。
「タイムリミットみたいだな。ま、後は自分で考えろ」
そう言って、光太は隼士の出迎えに行ってしまう。ただ一人残された朝陽は、呆然としたまま光太の言葉の意味を考えるが、当然答えなんか出てこなかった。
「俺が……逃げてるもの……」
隼士が関係することなら、すぐにでも答えを掴みたい。けれど玄関の方から隼士達の気配と足音が近づいてきたため、朝陽は思考を無理矢理横に置いた。
「いらっしゃい、隼士。悪いんだけど、ご飯まだできてないから座って待ってて」
「ああ、仕事で疲れてるのに悪いな。何か雑用があればやっとくから、言ってくれ」
「ん、ありがと」
いつもの笑顔で会話を交わし、キッチンへ戻ろうとする。
その時、不意に背中が重くなった。
「なー朝陽、そういやさぁ、俺、恋人と喧嘩したんだよ。アイツ、超ワガママ言いやがって、今回ばかりは我慢できずに切れちまった」
声が顔の真横から聞こえたことで漸く後ろから光太が抱きついてきたのだと気づく。
「ど、どうしたんすか、いきなり」
さっきとはまるで違う甘えた声に、驚いてしまう。
だが、弱音なんて光太にしては珍しい。今の会話で重たくなってしまった空気を、変えてくれようとしているのだろうか。
「もしさー、このままアイツと別れて独り身になったら、今度は朝陽にしてもいいか?」
「何をです?」
「勿論、次の恋人だよ」
光太の発言に、場の空気が完全に固まった。
隼士も驚いた表情をこちらに向けたまま、動きを止めてしまっている。
「ちょっ、何で俺なんですっ。意味分からないんですけどっ!」
「だって朝陽の飯上手いし、面白いし、一緒にいても飽きないから。これって大切なことだろ?」
「そうかもしれませんけど、俺、男ですから。まず、そこんとこから見直して下さい」
「いいよ、別に。俺は男とかそういうの気にしないし、周りから何言われても平気だから」
「な……あっ」
男でもいいと簡単に言われ、呆気に取られる。が、朝陽はすぐにこれが光太の策なのだと気づいた。
あの話の後に、この会話。これはどう考えても、男だからという理由で身を引くと決めた朝陽に対する当てつけにしか思えない。そう、光太は朝陽への説得をやめると言ったが、全てを諦めたわけではなかったのだ。
「光太さん、そういうの――――」
「朝陽から離れろっ!」
抗議しようと口を開いた途端、耳を裂くような隼士の怒号に遮られる。心臓がビクンと萎縮するほどの迫力に言葉を止めて隼士を見ると、目が合うか合わないかの間に腕を引かれ、光太から引き離された。
「隼、士……?」
気づいたら隼士の腕の中にいた朝陽が、驚きながら見上げる。すると光太をギラリと睨んだ隼士が次の瞬間、信じられない言葉を叫んだ。
「朝陽は俺のものだっ! いくら光太さんでも、渡せないっ!」
あまりの直球に、思わず瞠目してしまう。
「はぁ? 渡せないって、朝陽はお前のもんじゃねぇだろ? それに、お前には将来を約束した恋人だっている。そんな奴にとやかく言う資格ねぇよ」
光太の言動は突拍子もないものだが、隼士に対しての反論は尤もだ。だからこそ隼士は勢い勇んで声を荒げたものの、次の台詞を言い淀んでしまう。
「それとも何か、自分は他の奴と結婚しといて、朝陽を愛人にでもするつもりか?」
朝陽を抱き締めたまま、隼士が少し考える様子を見せる。けれども、すぐに偽りのない目を向けてはっきりと言い放った。
「朝陽をそんな風に扱うつもりはありません。でも、言葉だけじゃ信じられないというなら、俺は……────恋人を探すのをやめます」
「隼士っ? 何言ってんだよっ! 今の冗談だよな?」
きっとこれは売り言葉に買い言葉で応戦しただけ。状況からそうとしか思えなかった朝陽は、隼士の発言の撤回を求める。
「冗談ではない。朝陽を誰にも渡さないでいられるなら、俺は過去なんて諦められる」
「なっ……」
何で、そんなことを容易に言ってしまえるのだ。驚愕と狼狽を一気に押し出した顔で、穴が開くほど隼士を見つめる。
「ふーん、じゃあ未来は?」
「未来……ですか?」
「そ、男と一緒に進んでく覚悟があんのかって聞いてるんだよ」
「そんなの考えるまでもありません。朝陽が俺の側にいてくれるなら、どんなことだって乗り越えられる。逆に朝陽が隣にいない未来なんて、想像もしたくない」
強く、躊躇なんて一切ない言葉がスッと胸の奥に染みこんでいく。
まさか、隼士にこんなことを考えて居たとは思ってもいなかった。
「だとよ、朝陽。隼士はこう言ってるけど、お前は?」
端から隼士と対立して朝陽を取り合うつもりなどないといった様子の光太が、今度はこちらに決断を迫ってくる。と、不意に朝陽を抱き締める隼士の身体が強張った。
まるで裁判の判決が出る直前のような、そんな緊張が伝わって来る。
「俺は……その……」
当然、即答できるはずがなかった。
隼士の覚悟を聞いた今でも、先程光太に述べた不安は消えていないからだ。
俯き迷っていると、不意に抱擁が解かれた。
向き合い、一直線の目を向けられる。
「恋人の話は光太さんに促されて言ったように聞こえるかもしれないが、本当は少し前からずっと考えていたことだ」
「え……?」
「もし恋人が見つかったら、朝陽との関係が変わるかもしれない。そう思ったら途轍もなく嫌で、もういっそのこと恋人なんて見つからなくてもいいと考えるようになった」
まさか恋人探しの裏でそんなことを考えていたなど、知る由もなかった朝陽は、ただただ目を丸くすることしかできない。
「なぁ……俺とじゃ駄目か? 絶対に苦労もさせないし、悲しませたりもしないから、俺と一緒に生きてくれないか?」
大きく、温かな手で優しく頬を撫でられる。
「好きだ」
正直、告白を受けた直後にあったのは、言葉では言い表せないほどの感喜だった。隼士ほどの男にこれほどまでの想いを告げられ、嬉しく思わない人間はいないだろう。
「隼……士……」
それなのに――――どうしてももう一歩が踏み出せない。
「だ、めだよ……だって隼士は、裁判官になるんだろ? そんな人間が男とだなんて、周りが認めてくれるはずがない。それに隼士、同窓会の時……男に興味ないって言ってたじゃん」
「ああ、あれか。あれは朝陽が大川達の話を必死に否定していたから、俺と恋人だと見られるのが嫌なんだろうなと思って話を合わせただけだ」
しかし、男に興味がないというのは、その前に『朝陽以外の』という言葉がつくのだとあっさり覆され、脱力しそうになる。
「あと、周りがどうこうという話だが、そんなのは関係ない。文句があるなら、勝手に言わせておけばいいだけのことだ」
「け、けど仕事場で嫌味を言われ続けたら嫌になるだろ? せっかく裁判官になれても、謂われのない差別に遭うかもしれないし……」
「その差別が法に触れるものなら、真っ向から戦えばいい。それとも裁判官になったら、人としての幸せを求めちゃいけなくなるのか?」
考えるまでもないことを問われ、肯定できない朝陽は気まずい顔で目を逸らす。
「そ……んなことはない……けど……」
確かに昨今の時代、他人から受けた精神的苦痛も訴えることができる。隼士の言うように、男同士だからという理由で何かされたら相応の措置を取ればいいだろう。しかし侮辱や罵倒を受ける度に訴訟を起こしていたら、いつしか二人の周囲には誰もいなくなってしまう。そんな結末は、他人の信用を必要とする隼士のような仕事に多大な悪影響を及ぼすだろう。朝陽はそれが怖くて堪らないのに、どうして隼士は理解してくれないのか。そう思い、胸中に靄を抱く。
と、突然両手で頬を包まれた。
「朝陽は、本当に優しいな」
隼士の男らしくも温かな指が、頬を何度も滑る。
「俺の将来を一番に心配して、考えてくれて……本当にありがたいと思ってるし、こんなにも嬉しいことはない。けどな……」
こちらに不安を与えないようにするためか、隼士が柔らかな笑みを浮かべる。
「俺の幸せは、他人の評価で決まるものじゃない。俺自身が決め、守るものだ。だから――――俺の幸せのためにも、朝陽を光太さんや他の人間には渡せない」
もう一度隼士がはっきりと言い切ると、二人の横で状況を静観していた光太が朝陽の顔を見て、フッと笑った。
「これで分かったか? お前が間違ってたところ」
「え……」
今のやりとりの中に、光太の言っていた朝陽の間違いがある。そう言われ、隼士から向けられた言葉を頭の中で辿った。
朝陽のためなら過去を捨てられる。
朝陽のいない未来は想像できない。
幸せは俺自身が決め、守るもの。
「自分で守る……っ!」
隼士の言葉を復唱した瞬間に、フッと答えが降りてきた。
途端にガツンと頭を殴られた気分になる。
そうだ、朝陽が怖いと言って逃げていたのは、自分が壊すかもしれない隼士の未来からではない。周囲からの嘲笑や嫌忌によって隼士の心が変わり、一緒になったことを後悔されることから、だ。
「俺、ずっと酷い思い違いをしてた……?」
これまで隼士のためと言い張っていたが、全て自分のためだった。今さら気づいて恥ずかしくなる。
「やっと気づいたか。ったく二人揃って世話が焼ける奴だな」
鼻で笑いながら、光太が壁にかかっていた自分のコートと鞄を手に取る。
「光太さん?」
「俺、帰るわ。後は二人でじっくり話し合え……――――あ、そうだ」
コートの袖に手を通し終え、玄関へと続く廊下に向かった光太が、途中で何かを思い出す素振りを見せながら止まった。
「間違いに気づいた朝陽に、ご褒美やるよ」
「ご褒美ですか?」
「ああ。……オイ隼士、お前が静香に貰った手作りの菓子だけど、アレ何だった?」
隼士の方を見た光太が、唐突に話を振る。
「あれは、確かマドレーヌでしたが?」
あの日、朝陽が気づいた時には既に隼士の口の中に入ってしまっていたため気づかなかったが、あれはマドレーヌだったのかと朝陽は今更ながらに知る。
「じゃあ次は朝陽。俺がこの前、お前に教えて欲しいって頼んだレシピは?」
今度はこちらに質問が及ぶ。問われたのは同窓会の帰りに、メールで依頼されたレシピのこと。
あれは、と思い出した途端に朝陽は双眸を丸くした。
「マドレー…………へ?」
ちょっと待て。これは一体どういうことだ。
隼士が静香から貰ったものと、朝陽が光太に教えたレシピが奇しくも同じマドレーヌであり、それが朝陽への褒美となるとは。
頭の中で三つを並べて、考える。
まず初めに繋がったのは、マドレーヌだった。今の話を聞くに、恐らく隼士が食べた物は、朝陽のレシピで作られたものだろう。
でも、そのマドレーヌを作って渡したのは、静香で――――。
「あれ……?」
そこまで考えが行き着いたところで、朝陽はおかしなことに気づく。
すぐに隼士に詰め寄った。
「な、隼士、あの時食べたマドレーヌって、静香さんが作った物だって?」
「いや、直接聞いてはいないが、静香から渡されたから、彼女が作ったものだと……」
思い込んでいた、という隼士の言葉で動きを止めていた歯車が一気に動き出す。
「も……しかして、静香さんが隼士に渡したマドレーヌって光太さんが……?」
「そういうこと。隼士が勘違いするぐらい上手く作れたのは、朝陽のレシピのおかげだよ」
光太がしてやったりという顔で、ニカっと笑う。
それはもう、腹が立つ気すら起こらないぐらいのいい笑顔だった。
「じゃあ、愛しの恋人も待ってくれてるだろうし、今度こそ行くわ。……もう大丈夫だろうと思うけど、二度と逃げんなよ? ま、多分隼士からは、逃げらんねぇだろうけど」
何ということだろう。手をヒラヒラ振りながら出ていく光太を見つめていた朝陽は、覚えず天を仰ぎそうになった。
まさか光太が、あんな以前から隼士を試す画策をしていたなんて。
無論、光太は初めからこんな結末を迎えることを意図して組んでいた訳ではないとは思うが、それにしても事が上手く運びすぎている。ということは、ある程度の成功を見越して動いた結果なのだろう。
やはり、頭のいい人間達は侮れない。
「朝陽、どういうことだ? あの菓子は朝陽のレシピで作ったものだったのか?」
まだ完全に読み取れていない隼士が、首を傾げながら尋ねてくる。
もうここまでお膳立てされてしまったら誤魔化すことなどできないし、気づいてしまった間違いもちゃんと訂正しなければならない。
「ん……もう全部話すよ」
覚悟を決めた朝陽は、隼士の袖を掴むと静かな足取りで寝室へと進んだ。
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