薫くんにささぐ

七草すずめ

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やさしい薫くんとMINORI

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 たった一度だけ、薫くんのスマホをみてしまったことがある。パスコードがわからなくても薫くんの指や顔がなくても、通知画面ならだれだって見られてしまうのはこわいことだと思う。
 並んだラインの通知はなんだか楽しげで、「テレビみてる?」「ロンハーおもしろいよ」「スタンプを送信しました」と送ってきた相手は、MINORIというひとらしかった。
 気持ちが悪くなって自分のスマホから薫くんにけろっぴのスタンプをたくさん送ったら、MINORIからのメッセージ通知はわたしの「スタンプを送信しました」でどこまでも流されていった。
 突然の眩しい光に目を覚ます。首ががちがちになって動かない。光の正体は玄関からさす朝日だった。開かれたドア、逆光で見えない、隙間の黒い影。
 お帰りなさいと目をこすると、またそんなところで寝て、と優しく叱ってくれた。ああ、この瞬間のためにわたしは玄関で眠るのだ、体の痛さなんてちっとも苦痛じゃなかった。酒の匂いも汗の匂いもしない薫くんの胸にしがみつく。
 リビングに向かう薫くんにしがみついたまま歩くと、きみはこっちでしょ、と寝室に連れて行かれる。ベッドの中にもぐりこみ、寝ないの、と聞くと、すぐ仕事に行くからね、と言われてしまう。頭をぽんぽんとさわってもらい、ふわあとうれしくなったら意識が飛んで、次の記憶は遠くでシャワーの音、次に目覚めたときには薫くんはとっくに仕事に行ったあとだった。
 洗濯機には薫くんの服が放り込まれていた。わたしが選んであげた緑色のボクサーパンツと、いつのまにか増えていたストライプのシャツ。MINORIの匂いがしないか一応かいでみたけれど、そういえば混じりけのない薫くんの匂いが思い出せない。
 忙しく働いていたときは、仕事がなければ小説をずっと書いていられるのに、と思っていた。だけどいざ無職になってみたら人生のすべてが小説を書くための時間になってしまって、すごくむずむずする。
 パソコンの電源を入れて、書きかけのテキストファイルを開く。と、頭では行動してみるのに、わたしの体はソファにごろりと転がったままだ。
 とりあえず甘い物を食べながら書こう、と思って、歩いて十五分のセブンイレブンへ向かう。薫くんが甘やかしてくれないんだから、甘い物に甘やかしてもらうしかないだろう。ファミリーマートなら三分で行けるしデザートもそっちの方が好きなんだけど、薫くんがセブンイレブン信者だから十五分歩く。
 近くに大きな公園のあるこのあたりは、犬の散歩をしている人が多い。わたしも犬になれたら楽なのにな。散歩とごはんを楽しみに生きていて、サンド、みたいな言葉にも散歩とまちがえて大よろこびしちゃうみたいな、無邪気でかわいいわんちゃん。
 すれちがった自転車のおばさんににこりとほほえみかけられて、にこりと会釈した。ほら、誤作動だ。かごにはチワワが乗っている。あれは散歩と言えるのだろうか、人も犬も歩いていない。
 チョコオールドファッションと、もちもちドーナツと、あんドーナツを買ってきたけど、食べながら書くとキーボードが汚れてしまうしお行儀が悪いから、やっぱり食べ終わってから書くことにする。ついでに紅茶でも飲もうとお湯を沸かしていたら、部屋の汚さが気になりだして、掃除機をかけて一仕事終えた気持ちになってごろんと横になったらあっという間に夜になってしまった。
 ときどきわたしは「小説を書く」がしたいだけであって、本当は小説なんて書きたくないんじゃないかって思う。
 デスクに座って、ドーナツのかけらが残ったままの皿から目をそらして、本棚から選んだ好きな本をひらく。
 ツイッターに生息する素人物書きの作品はちっとも読みたいと思わないけど、本屋で売っている作家の本はだいすきだ。本棚はわたしの宝箱で、じぶんが好きな物語をずらりと並べられるなんてぞくぞくしてしまう。
 わたしの好きな作家はみんな、まっすぐな言葉で、ちっぽけで脇役みたいなひとを世界の中心みたいにうつくしく語った。そしてわたしはお父さんとはちがうから、そんな作品を書けなければ満足できないのだ。向き不向きはおいといて。
 読んでいた短編集を閉じて、スリープ状態になっているパソコンを起こす。
 本物の小説を読んだあとに読むわたしの小説は、やっぱりどうしても「友達の友達の話を聞かされたみたい」で「ドラマとか映画じゃなくて、まんがとかアニメってかんじ」で、「主人公に感情移入ができない」ままだった。プロの作品と比べたら赤ちゃんみたい、いや、いくらこれを育てても大人になんかならなそうだからナメクジみたいってところだろうか。薫くんに言われなくたって自分でわかる、自分の小説の浅さと安っぽさ。どんなに練っても会話はすべて声優がだすみたいな高い声と低くて耳にぞわりとくる声で再生されるのだ、嘘くさい作り物の世界、こんなのわたしの書きたいものじゃない。
 好きと得意は違うのだと教えてくれた先生がいた。
 高校生のとき、まだ薫くんとも出会ってしまわずに幸せにふわふわ生きていたころのわたし。先生の話を聞いて、生意気に手を挙げて、好きこそものの上手なれって言いますけど、とか言い返したなあ。先生の言っていたことは正しかったのかもしれないけど、その先生はわたしたちが卒業したあと生徒に手を出して懲戒免職になっていた。
 好きと仕事をいっしょにするのもいけないということだったのかもしれない、だとしたらわたしはもう手遅れだ。
 バイクの音が遠くで聞こえた気がして、はっとする。時計を見たらもう朝といっていい時間だった。新聞配達だろうか。
 七階のベランダから外をながめようとして、やめる。下を覗いて万が一、いや千が一、百が一? 薫くんとMINORIが歩いているのなんて見てしまったら、そのまま飛び降りてしまう自信がある。
 こうしてわたしは外出しなくなっていくのだ。世界はどんどん狭くなる。
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