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3.喉を鳴らすような笑い声
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練習もない、バイトもない夜は退屈で、そんな日に限って、おもしろいテレビも、読みたい本も見つからない。唯一思いつく読みたい漫画は、実家に全巻置いてきてしまっている。桃葉は、半年前にニトリで買ったベッドシーツを整えると、スマホを手にとり寝転んだ。
音楽アプリを開き、カーリー・レイ・ジェプセンの「Call Me Baby」を流す。開けたままの窓から入ってきた冷たい風が、レースのカーテンを揺らし、カーリーの甘い歌声と混ざる。一瞬で終わってしまいそうな秋を思い、桃葉は上半身を起こすと、窓を閉め、カーテンを引いた。
秋には、大学の文化祭がある。桃葉の所属するダンスサークルは、複数のステージの中でも一番人が多く集まる、メインステージで発表をすることができる。桃葉は昨年、一年生の四人で踊ったときのことを思い出し、嘆息した。
ダンス初心者だった桃葉や雪子を初めとする四人のメンバーは、文化祭までに基礎的な指導をみっちり受け、先輩たちに振り付けまでしてもらい、ステージに立った。大きなミスなく発表することができたものの、観客のあたたかい拍手は、発表会の子供に対するそれと同じ種類のものだった。
薄桃色のカーテンの前に立ち、アップテンポな楽曲のリズムに合わせ、桃葉は体を動かしてみる。もう一度同じ四人で組み、曲選びから振り付けまですべて自分たちでやろうと決めたのは、汗だくになってステージを降りたその直後だった。「チーム一年生」から「アンダンテ」というチーム名になったのも、そのときだ。とくべつ、一番泣きそうにない雪子は涙で顔がぐちゃぐちゃになっており、もらい泣きした桃葉もあとの二人も、アンダンテとしてのリベンジを、熱い思いで誓い合った。
「振り付けをするときは、まず自由に体を動かしてみるのが一番」
新歓の日に煙草をふかしていた先輩が、そう言っていたことを思い出す。あまり踊らないと言ったはずのその人は、たとえば、と言って軽々と体を動かし、裾が絞られたアラビアンパンツをひらめかせた。そばにいた先輩が二人、おもしろがって加わり、即興のダンスが目の前で繰り広げられる。桃葉たち後輩は目をまるくし、翌日桃葉は、生まれて初めて髪を染めた。
だけどそうしてみたところで、その先輩たちのようになれるわけではない。桃葉は首をかしげる。カーリーの声に合わせて自由に体を動かしてみても、滑稽な動きになっている気しかしないのだ。部屋に姿見がなくてよかったと桃葉は思う。みっともない自分を見て、ダンスそのものをやめたくなるかもしれない。
結局、桃葉はデスクチェアの上で膝をかかえ、ノートパソコンを開いた。動画サイトにアップロードされているダンスを参考にするのも、立派な振り付けの方法だと、自分に言い聞かせる。
ダンスの動画がたくさん投稿されていることも、先輩に教わった。子供のかわいらしい踊りやセミプロの発表会、真似して踊れる振り付け解説まで、様々なものがある。桃葉は登録しているチャンネルのうち、先輩もよく見ているというひとつを選ぶ。
動画サイトの、再生速度を変更する機能を使いながら、桃葉はいくつかの動画を視聴し、振りのイメージをふくらませた。どんなにかっこよく見える振りでも、自分で動いてみると様にならなかったり、難しくてできなかったりする。使える振りはないか、いろいろ試しながら、桃葉は踊り続けた。先輩たちも、こんなふうに練習したりするのかな、と考えながら。
しばらくし、汗だくになった桃葉は、先ほど閉めた窓を開け、空気を入れ換える。休憩するつもりで椅子に腰かけ、指をノートパソコンのトラックパッドにのせた。動画サイトのトップページに戻ると、ダンス動画が並ぶおすすめ欄に、毛色の違うサムネイルを見つけた。ポプリくん。桃葉はつぶやく。
青色でたれ目の猫は、先日ゲーム動画で目にしたポプリくんに違いなかった。ただこの彼は、桃葉の知る悲嘆に暮れた表情ではなく、しあわせそうな微笑みを浮かべている。いや、これが本来の彼のあるべき姿なのだろう。桃葉は思わず、そのサムネイルをクリックした。
動画再生前に表示される、五秒間の広告が長く感じられる。ようやく表示された動画の右上には、このあいだぬいぐるみをなでていた、マスクの男性が映っていた。
動画の右には、見慣れないものがあった。ふだん見る画面にはない、コメント欄のようなものだ。桃葉は首をかしげる。スマホ画面をスワイプするように、言葉たちが上部に流れていく。わたしの街にもポプリくん来ないかな。こんばんはです。この前の動画何回もみてる。今日は何やるんですか? 楓くんって学生っぽい。それは独り言のようであり、会話のようであり、誰かへのメッセージである言葉たちだった。
違和感を覚え、桃葉はゲーム画面に目をやる。そうだ、前回うるさいほどだった男性の声が、聞こえてこない。画面の中央では主人公が立ち止まっていて、右上では黒髪の男性がぐったりとした様子で、机につっぷしている。桃葉はその黒いつむじを見ながら、混乱していた。これは一体、何を見せられているのか。
「もう、こいつは何がしたいの?」
心を読まれたかと思った。男の情けない声が、桃葉の胸をとんと叩く。泣きそうな顔でカメラを見たその男と、目が合った。
「こんなことある? バグ?」
大きく抑揚をつけて男は言って、のろのろと体を起こすと、カラフルなコントローラーを手に取った。男は、ゲーム画面があるであろう方をきっと睨み、姿勢を正す。同時に、ゲーム画面の中央にいる主人公が、ぱたぱたと走りだした。
桃葉はそこで、普段見慣れない「ライブ」という表記があることに気付く。赤い丸と共に書かれたその文字から、これが投稿された動画ではなく、リアルタイムで行われていることなのだと知る。もう一度、右上の画面に目をやった。男の背後には黒い本棚があり、文庫本のようなもので埋め尽くされていた。
「え? だから、他の奴はこれでもらえてるんだって」
男はさっきから、コントローラーを操作しながら、誰かとしゃべっているようだった。しかし、右上の画面を見る限り、男は一人でゲームをしているようにしか見えない。桃葉は画面に近付く。
「あ、初見さんどうもー」
ぐったりしたまま、男がカメラに向かって手を振ったのを見て、桃葉は彼が、自分たち視聴者と会話をしているということにようやく気がついた。右側で流れているコメントに目をやり、その中にある「方法が違うんじゃないの?」というひとつが、先ほどの独り言ともつかない言葉と繋がることに気付く。
あー、と不意に男が叫んだ。油断していた桃葉は、慌てて音量を小さくする。この配信者の声はよく通ると、桃葉は思う。男はコントローラーを子供のようにがちゃがちゃと操作し、主人公はぐるぐるぐるぐる、その場で回った。
「俺ポプリくんに嫌われすぎだろ」
芝居がかったような言い方は、この人独特のくせなのだろうか。
「もう二十五万ベル以上貢いでるよね? 未だアイテムもらえる気配ゼロです」
男がちらりとカメラを見て、画面を見つめる桃葉と目が合う。まっすぐ物を見る人だ、と思った。
「心折れるわ」
そうして男は目を伏せた。それはほんとうに、泣き出してしまいそうな声だった。チャット欄を、励ましの言葉とからかいの言葉が次々と流れていく。桃葉は震える手を、キーボードに置く。飛び込んでみたくなったのだ、その中に。
自分も、穴に落ちてお詫びしたらいいんじゃないでしょうか。
「ふ、落ちてお詫びって、それやばいって」
男の、声をのどの奥で鳴らすような笑い声が、桃葉の耳をくすぐった。途端に、桃葉のつめたい頬が熱くなる。
男は笑い声の余韻を残したまま、キャラクターを走らせて、ポプリくんの元へと導いた。桃葉のコメントは、たくさんの人によるコメントで、上へ上へと流れていった。そして、男が反応したことなど幻だったかのように、見えなくなる。
振り付けを考えている最中だったことを、桃葉は忘れていた。とっくに引いた汗が、開け放したままの窓から流れる風で冷やされる。それでも桃葉は寒くなかった。むしろ、暑いとすら感じていた。
音楽アプリを開き、カーリー・レイ・ジェプセンの「Call Me Baby」を流す。開けたままの窓から入ってきた冷たい風が、レースのカーテンを揺らし、カーリーの甘い歌声と混ざる。一瞬で終わってしまいそうな秋を思い、桃葉は上半身を起こすと、窓を閉め、カーテンを引いた。
秋には、大学の文化祭がある。桃葉の所属するダンスサークルは、複数のステージの中でも一番人が多く集まる、メインステージで発表をすることができる。桃葉は昨年、一年生の四人で踊ったときのことを思い出し、嘆息した。
ダンス初心者だった桃葉や雪子を初めとする四人のメンバーは、文化祭までに基礎的な指導をみっちり受け、先輩たちに振り付けまでしてもらい、ステージに立った。大きなミスなく発表することができたものの、観客のあたたかい拍手は、発表会の子供に対するそれと同じ種類のものだった。
薄桃色のカーテンの前に立ち、アップテンポな楽曲のリズムに合わせ、桃葉は体を動かしてみる。もう一度同じ四人で組み、曲選びから振り付けまですべて自分たちでやろうと決めたのは、汗だくになってステージを降りたその直後だった。「チーム一年生」から「アンダンテ」というチーム名になったのも、そのときだ。とくべつ、一番泣きそうにない雪子は涙で顔がぐちゃぐちゃになっており、もらい泣きした桃葉もあとの二人も、アンダンテとしてのリベンジを、熱い思いで誓い合った。
「振り付けをするときは、まず自由に体を動かしてみるのが一番」
新歓の日に煙草をふかしていた先輩が、そう言っていたことを思い出す。あまり踊らないと言ったはずのその人は、たとえば、と言って軽々と体を動かし、裾が絞られたアラビアンパンツをひらめかせた。そばにいた先輩が二人、おもしろがって加わり、即興のダンスが目の前で繰り広げられる。桃葉たち後輩は目をまるくし、翌日桃葉は、生まれて初めて髪を染めた。
だけどそうしてみたところで、その先輩たちのようになれるわけではない。桃葉は首をかしげる。カーリーの声に合わせて自由に体を動かしてみても、滑稽な動きになっている気しかしないのだ。部屋に姿見がなくてよかったと桃葉は思う。みっともない自分を見て、ダンスそのものをやめたくなるかもしれない。
結局、桃葉はデスクチェアの上で膝をかかえ、ノートパソコンを開いた。動画サイトにアップロードされているダンスを参考にするのも、立派な振り付けの方法だと、自分に言い聞かせる。
ダンスの動画がたくさん投稿されていることも、先輩に教わった。子供のかわいらしい踊りやセミプロの発表会、真似して踊れる振り付け解説まで、様々なものがある。桃葉は登録しているチャンネルのうち、先輩もよく見ているというひとつを選ぶ。
動画サイトの、再生速度を変更する機能を使いながら、桃葉はいくつかの動画を視聴し、振りのイメージをふくらませた。どんなにかっこよく見える振りでも、自分で動いてみると様にならなかったり、難しくてできなかったりする。使える振りはないか、いろいろ試しながら、桃葉は踊り続けた。先輩たちも、こんなふうに練習したりするのかな、と考えながら。
しばらくし、汗だくになった桃葉は、先ほど閉めた窓を開け、空気を入れ換える。休憩するつもりで椅子に腰かけ、指をノートパソコンのトラックパッドにのせた。動画サイトのトップページに戻ると、ダンス動画が並ぶおすすめ欄に、毛色の違うサムネイルを見つけた。ポプリくん。桃葉はつぶやく。
青色でたれ目の猫は、先日ゲーム動画で目にしたポプリくんに違いなかった。ただこの彼は、桃葉の知る悲嘆に暮れた表情ではなく、しあわせそうな微笑みを浮かべている。いや、これが本来の彼のあるべき姿なのだろう。桃葉は思わず、そのサムネイルをクリックした。
動画再生前に表示される、五秒間の広告が長く感じられる。ようやく表示された動画の右上には、このあいだぬいぐるみをなでていた、マスクの男性が映っていた。
動画の右には、見慣れないものがあった。ふだん見る画面にはない、コメント欄のようなものだ。桃葉は首をかしげる。スマホ画面をスワイプするように、言葉たちが上部に流れていく。わたしの街にもポプリくん来ないかな。こんばんはです。この前の動画何回もみてる。今日は何やるんですか? 楓くんって学生っぽい。それは独り言のようであり、会話のようであり、誰かへのメッセージである言葉たちだった。
違和感を覚え、桃葉はゲーム画面に目をやる。そうだ、前回うるさいほどだった男性の声が、聞こえてこない。画面の中央では主人公が立ち止まっていて、右上では黒髪の男性がぐったりとした様子で、机につっぷしている。桃葉はその黒いつむじを見ながら、混乱していた。これは一体、何を見せられているのか。
「もう、こいつは何がしたいの?」
心を読まれたかと思った。男の情けない声が、桃葉の胸をとんと叩く。泣きそうな顔でカメラを見たその男と、目が合った。
「こんなことある? バグ?」
大きく抑揚をつけて男は言って、のろのろと体を起こすと、カラフルなコントローラーを手に取った。男は、ゲーム画面があるであろう方をきっと睨み、姿勢を正す。同時に、ゲーム画面の中央にいる主人公が、ぱたぱたと走りだした。
桃葉はそこで、普段見慣れない「ライブ」という表記があることに気付く。赤い丸と共に書かれたその文字から、これが投稿された動画ではなく、リアルタイムで行われていることなのだと知る。もう一度、右上の画面に目をやった。男の背後には黒い本棚があり、文庫本のようなもので埋め尽くされていた。
「え? だから、他の奴はこれでもらえてるんだって」
男はさっきから、コントローラーを操作しながら、誰かとしゃべっているようだった。しかし、右上の画面を見る限り、男は一人でゲームをしているようにしか見えない。桃葉は画面に近付く。
「あ、初見さんどうもー」
ぐったりしたまま、男がカメラに向かって手を振ったのを見て、桃葉は彼が、自分たち視聴者と会話をしているということにようやく気がついた。右側で流れているコメントに目をやり、その中にある「方法が違うんじゃないの?」というひとつが、先ほどの独り言ともつかない言葉と繋がることに気付く。
あー、と不意に男が叫んだ。油断していた桃葉は、慌てて音量を小さくする。この配信者の声はよく通ると、桃葉は思う。男はコントローラーを子供のようにがちゃがちゃと操作し、主人公はぐるぐるぐるぐる、その場で回った。
「俺ポプリくんに嫌われすぎだろ」
芝居がかったような言い方は、この人独特のくせなのだろうか。
「もう二十五万ベル以上貢いでるよね? 未だアイテムもらえる気配ゼロです」
男がちらりとカメラを見て、画面を見つめる桃葉と目が合う。まっすぐ物を見る人だ、と思った。
「心折れるわ」
そうして男は目を伏せた。それはほんとうに、泣き出してしまいそうな声だった。チャット欄を、励ましの言葉とからかいの言葉が次々と流れていく。桃葉は震える手を、キーボードに置く。飛び込んでみたくなったのだ、その中に。
自分も、穴に落ちてお詫びしたらいいんじゃないでしょうか。
「ふ、落ちてお詫びって、それやばいって」
男の、声をのどの奥で鳴らすような笑い声が、桃葉の耳をくすぐった。途端に、桃葉のつめたい頬が熱くなる。
男は笑い声の余韻を残したまま、キャラクターを走らせて、ポプリくんの元へと導いた。桃葉のコメントは、たくさんの人によるコメントで、上へ上へと流れていった。そして、男が反応したことなど幻だったかのように、見えなくなる。
振り付けを考えている最中だったことを、桃葉は忘れていた。とっくに引いた汗が、開け放したままの窓から流れる風で冷やされる。それでも桃葉は寒くなかった。むしろ、暑いとすら感じていた。
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