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三.
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ゴ―――ル!
スピーカーを通して響きわたる長すぎる叫びに、広樹は負けじと歓声をあげた。
満員のスタジアムが揺れる。視界のあちらこちらで、無数のフラッグが揺れる。勝ち越し点を決めたのは、わずか三年でチームに出戻った小柄な10番の選手だった。試合はアディショナルタイムに入り、いつ笛が鳴ってもおかしくない時間だ。
こりゃ、禊が済んだかな。
契約が切れた年に移籍したユース育ちのエースを、当時は誰もがこぞって非難した。その理由が「優勝争いができるチームに行きたい」というものだったから、尚更だ。
広樹の応援するチームは、ホームスタジアムを山の上に持つ。グラウンドのコンディションは最高だが、リーグ開設当初の栄光はどこへやら、かろうじて降格しない順位でシーズン終了を迎えるのが常だった。
「おい広樹、今年は優勝ありえるぞ!」
興奮さめやらぬ勢いでハイタッチを求める地元のサポーター仲間に応えながら、確かにあの10番が戻って来れば無敵かもしれない、と思う。
得点力不足で悩んだ昨シーズンまでのチームはもう存在しない。これからは攻め。打ち合いのサッカーだ。
ピ―、ピ―、ピ―……
長い笛が三回鳴り響くと、今日一番の歓声がスタジアムを震わせた。開幕戦の勝利を祝福するように、花火が空に上がる。
と、水を差すように携帯電話が震えた。画面の名前を確認し、広樹の表情が変わる。
「なんだよ広樹! 勝利サンバ始まるぞ、早く準備しろよ!」
上気した頬のサポーター達はすでに肩を組みあっている。ホームスタジアムで勝利を収めたときにだけ行われるこのダンスは、サポーターと選手が一緒になって踊るものだ。昨シーズンは二度しかできなかった勝利サンバを開幕戦から披露できるなんて、この上ない喜びだ。
だが、広樹は電話を優先させる。
「美雨、昨日はごめん。勝手なことばかり言った。今日中には東京に戻れるけど、会えないかな」
パーカッションの音と歌声に背を向け、電話をぐっと耳に押し付ける。
「うん、大丈夫だよ。私こそごめんね、たくさん電話してくれたのに、ばたばたしてて出られななったの」
美雨の朗らかな声に、諦めの気持ちが湧き上がってくる。とはいえ昨日のけんかは自分に非があったので、許してもらえたことにひとまず安堵した。
彼女はいつも、心の奥に自分の思いを押し込めるようにして生きている。初めて会ったときはよく笑う子だと思ったが、むしろ笑いの表情しか見せないのだと、付き合い始めてから気付いた。
美雨は幼い頃に双子の妹を亡くし、それが原因で両親は離婚、その後一緒に暮らしていた母親は、ショックからほぼ育児放棄のような状態になってしまったという。
「そっち戻ったら、美雨の家まで行ってもいい?」
ちゃんと会って謝りたいというのもあるけれど、何より美雨を一人にして出かけている今の状況が心配だった。過保護だと言われたらそれまでだけれど。
「あ、でも今日は、こっちゃんとごはん食べにいくの。だから無理に来なくても大丈夫。気をつけて帰ってきてね」
美雨の幼馴染の名前が出てきたことで、広樹は安堵した。琴子さんがいるなら大丈夫だろう。美雨と広樹と、琴子とその夫、四人で食事をしたこともあるが、美雨は琴子の前だととてもリラックスできる様子だった。じゃあ安心だね、楽しんでね、と笑って電話を切る。
携帯電話をしまって顔を上げると、勝ちサンバを終えた仲間の数人がにやにやして広樹を見ていることに気付いた。
「おい、サッカーより彼女かよ?」
「すごいよな、付き合いたてかってぐらい大事にしてんだぜ」
冷やかしに「そんなんじゃねーよ」と答えながらも、完全には否定しきれない自分がいた。いつもにこにこしていて、だけどその奥に深い闇を抱え込んでいるように見える美雨を、広樹は壊れものを扱うように大切にしていた。
「広樹は明日、仕事あんの? 俺ら地元で飲んで明日東京帰るけど、お前はどうする?」
「あー……じゃあ、俺も行こうかな」
美雨は来なくても平気だと言っていたし、琴子さんと食事に行くのなら、むしろ邪魔しない方がいいだろう。地元で飲んで明日帰ることにする、とメールを入れておく。
嫁さんのとこ帰んなくていいのかよー、バカまだ入籍してねえよ、なんてやりとりもまんざらではなく、広樹たちは勝利に浮かれたまま、行きつけの居酒屋に向かった。
酒のつまみは、もちろん開幕戦勝利と10番の勝ち越しゴール。だがさすがに三時間も飲み、深夜一時を過ぎると、話題も散り散りになった。
「広樹さんの彼女、なんで今日来られなかったんですか! かわいいって聞きましたよ、見せてくださいよ!」
酒の限度がわからず酔いつぶれかけているのは、高校時代の親友の後輩だった。親友を通じて知り合い一緒に観戦するようになったが、当の親友は北海道に転勤になり、なかなか会えなくなってしまった。
「広樹見せてやれ! いいか本当にかわいいぞ、肌なんて真っ白でさ、なんとも言えない儚げなかんじで笑うんだよ……」
会社の先輩が、よりかかるようにしてちょっかいを出してくる。今の会社に入って、先輩も同じチームのサポーターだと知った時には嬉しかった。今ではこうして一緒にホームゲームを観に来る仲だ。
「そんなにハードル上げないでくださいよ……これ、ちょっと顔隠れてますけど」
広樹が差し出した携帯電話の画面を覗き込み、後輩はわざとらしく大きくのけぞる。うわっ、まじすか広樹さん!
「でもこいつ、いつもにこにこしててなに考えてんだかわかんねえの」
そう言ったところで、目の前の二人には照れ隠しの謙遜にしか聞こえない。広樹はグラスの中身をぐっと飲み干した。
「いやいや、このかわいさでいつもにこにことか最高じゃないですか」
「うちの嫁は、いつも怒っててなに考えてんだかわかんねえよ」
二人にはさまれてそんなことを言われたら、当然悪い気はしない。後輩は広樹の携帯電話を右手に持ったまま美雨をまじまじと見ていたが、ふと顔を上げた。
「この彼女さんって、テレビに出たこととかあります? それか、雑誌とか」
え? 突拍子もない質問に驚く。いや、ないと思うけど。
「でもこんな雰囲気の子、何かで見たんですよ、つい最近……どこだったかな」
「なにお前、それナンパの口説き文句?」
先輩は大げさに、けらけらと笑った。広樹の頭には双子の妹がよぎったが、慌てて打ち消す。あいにく、幽霊は信じていない。
「あっ」
後輩のただならぬ表情に心臓が高鳴ったのは、どこかで美雨のことを信じきれていなかったからだろうか。感情を閉じ込めている美雨、胸の内を明かしてくれない美雨。
「うわ、マジか、え、ちょっと信じらんないんすけど、え?」
ひとり動揺し、携帯電話をいじりはじめた後輩に、しかし広樹は声をかけることができない。恐ろしかった。広樹の知らない、美雨の何かが曝されるのが。
後輩は恐る恐る、広樹に画面を見せた。
「このまとめサイトに載ってるのって、広樹さんの彼女さん……に、似てませんか?」
インターネット上で最大とも言える、巨大掲示板で話す人々の会話をまとめたブログ。表示された記事のタイトル。
『放送事故! 美女、発狂して警察沙汰』
何も言わずに後輩の携帯電話を手にとって、震える指でスクロールする。硬直した広樹の表情に、二人は静まり返る。酒の並んだ机の向こうでさわぐサポーター仲間たちは、別の世界の人間のようだった。此岸と彼岸のような隔たり。
写し出された画像の中でにこやかに笑う女は、普段は見かけない眼鏡をかけた、美雨その人だった。
スクロールする指すら静止した広樹を見て、後輩はかける言葉を失う。何が起きたのか把握できていない先輩も、そのただならぬ様子に何かを察し、手持ち無沙汰に氷だけになったグラスを傾ける。広樹が思わず画面から目を逸らしたのは、そこに「発狂した美女」を嘲笑う言葉が溢れていたからだ。
「……すみません、なんか俺酔っ払って、目がおかしくなったのかもしれないっす! いやー、失礼なこと言っちゃってすみません!」
沈黙を破ったのは、火種を撒いた後輩だった。先輩はそれに調子を合わせる。おいおい、広樹の彼女がかわいいからって、お前ひどいなー。すんません、やきもちってやつですかねー? 停止しかけた思考の片隅で、二人の優しさを思う。
帰りの新幹線は一人で乗った。広樹が朝一番の新幹線で帰ると伝えると、いつもは一緒に帰る先輩も、何も気付いていないようなとぼけ顔で了承してくれた。後輩は眠そうな顔を作り、手を振った。
俺が帰ったあと、二人はあの記事をもう一度見るだろう。そう思うと身震いした。でも、俺は見ない。怖くて見られるはずがない。だけど。
どうして人間は、真実を求めるという恐ろしいことを、せずにはいられないのだろう。
広樹は座席の足元にある電源を使い、携帯電話を充電をしはじめる。そしてゆっくりと、頭から離れないあの記事のタイトルを入力した。
恐ろしいことに、後輩に見せられたサイト以外、たとえば小さなネットニュース、個人のブログ、SNSなども、検索結果の一覧に表示された。いったいどのくらいの人間が、これを見たのだろう? 広樹の愛する、「かよわく儚い美雨」を。
『動画あり』の文字に吸い寄せられるようにして、ひとつのページを選ぶ。表示しきるまでの数秒があまりに長く思え、卒倒しそうだった。
表示された画像の中で笑う女は、やはり美雨に違いなかった。最後に残った希望を全て失った広樹は、心を決めて動画を再生する。動画配信サイトを通して美雨が発信したものを、観ていた者が録画し投稿したものらしかった。
『こんにちは~、ミュウです!』
そこには、広樹の知らないトーンの声で、広樹が聞いたこともないような言葉を遣い、広樹には見せない感情を見せる美雨がいた。
*
「美月ー、こっちゃーん、どこにいるの?」
ももちゃんとレモンちゃんを抱え、家を飛び出したはいいものの、三角公園とどんぐり公園、どちらに二人がいるかわからなかった。
「みゅーだったら、今日みたいなお天気のいい日は、広くてたくさんあそべるどんぐり公園に行くかしら」
美雨も美月も大好きな、女児向けアニメの言葉遣いを真似してつぶやいてみる。そうすると、自分が大人になったような気持ちになってきた。
「よーし、どんぐり公園に行ってみましょう! きっと二人がわたしを待っているにちがいないわ!」
両手にはピンクと黄色のぬいぐるみ、肩にはリボンのついたポシェット。みゅーはふたごだけど、美月のおねえちゃんだし、今日はたくさんやさしくしてあげよう。ポシェットには、なんと! このまえみゅーが食べちゃった、ハートのクッキーだって入ってるんだから! これぜーんぶ美月にあげたら、よろこんでくれるかな? こっちゃんはそれをみて、やさしいって言ってくれるかな?
スキップしながら、すれ違う近所の人に「ごきげんだね」と声をかけられながら、美雨はどんぐり公園に向かった。砂場の白砂と黒砂が、三角公園より大きくて寝心地のいいベンチが、ときどき絡まって鎖がぐちゃぐちゃになるブランコが、全てが自分を待っている気がした。
「あっ! こっちゃん!」
公園の少し手前。自動販売機の横に体を隠す琴子を見つけ、美雨は大声をあげる。が、すぐに慌てて手で口をふさいだ。あの姿勢、あの緊張感。かくれんぼだ、とすぐに察したのだ。美雨はあわてて洋服のフードをかぶり、身を隠しながら琴子に近付いた。
「こっちゃんごめんね、おっきい声だしちゃった。かくれんぼ、してるの?」
幼稚園でこしょこしょ話をするときのように話しかける。琴子はうん、とうなずいて、にこにこ笑った。
「いま、わたしの勝ちが3回で、美月ちゃんの勝ちが2回なの。これでわたしが見つからなかったら、今日はわたしが優勝よ」
だから絶対見つかるわけにはいかないの、と意気込む琴子を見て、美雨は協力してあげたくなった。力を貸したら、やさしい子になれるかもしれない。
「じゃあ、美雨、こっそりあっち見てくる! ぜったい、こっちゃんの場所は言わないから、だいじょうぶ!」
何かを企むもの同士くすくすと笑い合うと、美月はそっと公園の入り口に向かった。
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