ゆううつな海のはなし

七草すずめ

文字の大きさ
上 下
20 / 26

霞む現を泳ぐ夢(七)

しおりを挟む
 木から落ちた雨粒が頬に当たり、黙々と進めていた足を止める。振り返ると、建物が遥か遠くに見えていた。だいぶ奥まで来た。なのに庭の端はまだ遠い。そろそろ足に疲労が溜まってきた。
 一体、この庭は、どこまで広がっているのだろう。
 前にも後ろにも右にも左にも、果てしなく緑が広がっていた。緑しか見えなかった。急に背筋が寒くなる。葉菜が部屋に戻ろうと踵を返したそのとき、
「おねえさーん!」
 しんとしていた空間に、大きな声が飛び込んできた。すごい速度で鳴り始めた心臓の音を自分で聴きながら、葉菜はおそるおそる辺りを見回す。声の主は、建物の方から走ってくる女の子だった。パンツスタイルでショートボブの、明里ではない方。
「えっと、わたしですか」
 思わぬ震え声が出て、葉菜は顔を赤くする。女の子は笑顔のままぶんぶんと首を縦に振り、葉菜の正面で立ち止まった。息を切らすこともなく、その子はきらきらとした眼差しを葉菜に向けている。
「あのあの、おねえさん、写真家さんですか? えと、わたしも写真とかカメラかっこいいなって思ってて、でもお父さんもお母さんも買ってくれなくて、おねえさんのやつ、すごいカメラだなって思って、見せてほしくて、来ちゃいました」
 そして「かっこいいカメラですね」とカメラを見つめると、ため息をついた。
「あの、撮らせてもらえないですか。あなたのこと」
 カメラを褒められてうれしかったからなのか、それともその女の子があまりに幼く純粋に見えたからなのか。つい口走ってしまったことを、葉菜はすぐに後悔した。女の子はぽかんと口を開けている。初対面の人に写真を撮らせてくれなんて頼む人、どう考えたって怪しい。慌てて撤回しようとしたが、その女の子はその意味を理解し、満面の笑みを浮かべた。
「わーい! 撮ってくれるの、うれしい!」
 喜びのあまり、彼女が飛び跳ねたその瞬間、水分を含んだ短い髪が、たった一瞬だけ、思い思いの方向に跳ねた。目に見えないほどちいさな水滴が、ふわりと舞い上がる。彼女の純真を体現したような仕草と、その恐ろしいほどの尊さ。葉菜はあわてて人差し指で切り取った。シャッターの音を聞き、女の子はきょとんとした。自分が生み出した一瞬の魅力に、これっぽっちも気付いていないみたいに。
 実花と名乗ったその子は、明里と諒と宏太が走って様子を見に来るまで、瑞々しい動きで被写体をつとめ続けた。うれしいですと、何度も葉菜に言った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻への最後の手紙

中七七三
ライト文芸
生きることに疲れた夫が妻へ送った最後の手紙の話。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

憂鬱症

九時木
現代文学
憂鬱な日々

からかぜ

七草すずめ
現代文学
ダンスが好きな普通の大学生・桃葉。平凡だったキャンパスライフは、動画配信者・楓との出会いで静かに狂いはじめる。ずれていく生活リズム、減り続ける預金残高も厭わずに、有償で手に入る愛の言葉を求める桃葉。そんな彼女を現実に引き戻すことができるものとは? ◆2020年太宰治賞一次通過作品です。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

処理中です...