ゆううつな海のはなし

七草すずめ

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霞む現を泳ぐ夢(三)

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 ぼんやりした頭で、台風一過で快晴になります、と言っていた昨晩の天気予報を思い出していた。葉菜が目を覚まし、襖を開けると、外はしとしとと雨が降り続いていた。昨夜、草木を揺らしていた風だけがなくなっている。半分閉じたまぶたを刺すくらいの眩しさはある、薄明るい雨だ。
 昨晩は風呂に入り、体がまだ温かいうちに布団に入った。どうか隣の部屋から変な声が聞こえてきませんように、と祈りながら目を閉じたのは覚えていたが、すぐに眠ってしまった。
 暖房が効いているとはいえ、縁側は寒い。窓のあたりから、ひんやりした空気が流れてくる。葉菜はもう一度布団にもぐりたくなる衝動をこらえて、申し訳程度についている洗面所で顔を洗い、テレビをつけた。地方のアナウンサーだろうか、初めて見る若い女性が、深刻な顔で台風の影響を伝えている。
 日本の各地で、事故や水害が多発。全国五箇所で土砂崩れが発生、一人死亡、五人が行方不明。アンテナが倒れ、一部地域では通信障害。修也が行っている地域では、強風によって、大きな看板が倒れたらしい。怪我人はいなかったというが、生々しい映像が映し出され、心臓がどくんと跳ねる。
 これはもう、非常事態だろう。意地を張るのはやめ、修也の安否確認をしようと、スマートフォンを手に取った。が、電話もラインも繋がらない。圏外だ。
 この地域でも、通信障害が起きているのかもしれない。だから別に、修也自身に拒絶されたわけではないのだ。わかっているけれど、見捨てられてしまったような気になる。ため息をついて、布団にもぐりこんだ。晴れだと言ったのに小雨。旅行って言ったのに仕事。外に出る気なんて、ちっとも起きない。


 布団でテレビを眺めながらうとうとしていると、閉めた襖のむこうから、なにやら物音がした。目を開けてそちらを見ようとしても、体が重くて動かない。天井の照明が眩しい。この暖色に光るシーリングライトは、実家のものだ。あれ、目を開けていないのにどうして見えるのだろう。襖がすっと静かな音を立てて開き、同時に葉菜の目も開いた。部屋に入ってきたのは、スーパーの袋を下げた葉菜の母親だった。
「起きちゃった? 桃の缶詰、買ってきたからね」
 そうだ。朝起きたらお腹が痛くて、熱を測ったら三八度二分あったのだ。それで学校をお休みして、いつもは観られない教育番組を観ていたら、眠りに落ちてしまった。いつも仕事で忙しい母親は、体調の悪い葉菜のために一日休みを取り、看病をしてくれていた。
「おかゆとうどん、どっちがいい?」
「どっちもいや」
 どっちもいいな、と思ったはずなのに、葉菜の口からは正反対の言葉がとびだしていた。母親は動じることなく、
「じゃあどっちも作ってあげるから、食べられそうな方を食べようね」
と、笑った。
 ぱち、と目を開けると、知らない天井だった。そうだ、一人で旅行に来ているんだった、と思い出し、しびれた腕を動かしてうつぶせになる。閉まったままの襖が目に入った。時計は九時。一時間ほど寝ていたようだ。
 えい、と体を起こし襖を開けると、窓の外、小雨が降る広い庭で、何かが動いているのが見えた。冷気をまとった窓に近付き、目を細める。親指で窓を拭く。
 それは、二本の傘だった。一つは、赤いスカートをはいた女の子が持つレースの傘。もう一つは、マウンテンパーカーを羽織った男の子のビニール傘。二人には見覚えがある。昨日サービスエリアで見かけた、あの大学生のうちの、二人だ。
 そうか、隣の部屋にいた若い男女は、あの子たちだったのだ。二人は少しうつむきながら、傘がぶつかるかぶつからないかという微妙な距離を保ち、庭をゆっくり、ぐるぐる歩き回っている。何を話しているのだろう。少なくとも、昨日見かけたときよりも、いい雰囲気なように見えた。
 昨日出会った人と、別の場所で再会する。こんな偶然に巡り会えるのが、旅のいいところだと、葉菜は思っていた。行きと帰りの新幹線で隣の席が同じ人だったり、旅行先で出会った人と地元の駅で再会したり。そして修也と結婚することになったのも、そんな偶然がきっかけだった。
「あの、ごめんなさい、変なやつじゃないんだけど、行きの新幹線も横にいたんだけど覚えてる?」
 あれ、どう考えても変なやつだったよ。葉菜がそう意地悪を言うと、修也は今でも顔を真っ赤にする。
「しょうがないだろ、運命だと思ったんだから」
 拗ねたような修也が、だけど真面目にそう言い返すから、結局葉菜も頬を赤くして、二人で照れ笑いしてしまう。けんかも滅多にしない、仲のいい夫婦だと、葉菜は自分で思っていた。だからこそ。
「ごめん、出張に行く予定だったやつが体調を崩して、代わりに行けるやつが俺しかいなくて」
 純粋で、まっすぐで、優しすぎる修也が、葉菜のために計画してくれた旅行だったからこそ、葉菜は、仕事を優先させた修也が許せなかった。それが不本意な出張だということくらい、頭ではわかっていたのに。
 葉菜は、今にも泣き出しそうな修也の声に、冷たい声を重ね、背を向けた。
「修也は、誰にでもいい顔したいんだよね」
 誰も悪くないとわかっているのに、体調を崩したという修也の同僚も、代わりに出張を命じたであろう上司も、それを断らない修也も許せなかった。
 修也はうつむいたまま、何も言わなかった。葉菜はモスグリーンのトランクだけを車に乗せ、家を出た。
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