ゆううつな海のはなし

七草すずめ

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霞む現を泳ぐ夢(二)

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 さっきまでの嵐が嘘のように、静かに雨が降っていた。風が時折、思い出したように吹いて、木々をざわめかせる。古めかしい建物の前には一台の車も停まっておらず、本当にここで合っているのか、不安になる。
「ごめんください」
 ガラガラと音の鳴る引き戸を開けると、ひゅうと風が吹き込んだ。葉菜は慌てて中に入り、引き戸を閉める。木造の古民家の中は、外見から想像したよりも広く、きれいで明るかった。アンティークのシャンデリアとランタンが、あたりをやさしく照らしている。
「ごめんください。予約している、早川です」
 返事がないのでもう一度声を上げると、今度は遠くから物音が聞こえた気がした。落ち着かないまましばらく待っていると、腰の曲がった、高齢の女性が姿を現した。
「お待たせしましたね、すみません」
 この民宿の女将だろうか。女性は足を擦るように歩きながら、葉菜を受付カウンターに案内した。民宿らしく、お土産屋さんで見たことがあるような雑貨や、年季の入ったポスターが、そこかしこに飾られている。それから、なぜか一つだけ売られている百円ライター。ずっとホテルにばかり泊まってきた葉菜にとって、民宿の雰囲気は新鮮だった。
「民宿は、おばあちゃんちに来たような気持ちになれるのがいいんだよ。知らないなんてもったいない」
 そう言っていた修也は、そろそろ仕事を終えた頃だろうか。
「早川葉菜様ですね」
 確認され、葉菜はうなずいた。
「二人で予約していたのですが、一人来られなくなってしまいました。代金はお支払いしますので、チェックインは一人でお願いします」
 葉菜が言うと、女将はすべてわかっているかのように、やさしく微笑んだ。
「お支払いは、お一人分だけで大丈夫です」
 遠慮した葉菜が何度支払うと言っても、女将は首を縦に振ろうとしなかった。
「じゃあ、必ずまた来させていただきます」
 葉菜が深々と頭を下げると、女将は口を閉じたまま笑い、葉菜を客室へと案内した。
 葉菜の部屋は、一階にある六畳一間だった。奥には襖がある。広縁でもあるのかと思い襖を開けると、そこは左右の部屋とつながる廊下だった。さすがに隣の部屋との間は簡易的な板で仕切られてあるが、膝くらいまでなら足が見えそうだし、声は筒抜けだ。修也に言わせれば、民宿はこういう雑さがいいんだ、といったところかもしれない。
 かろうじてプライベートが保たれているようなそのスペースは、庭に面していて、猫の一匹でも昼寝していそうな、日本家屋の縁側といった風情だった。ささくれた木も、ちょこんと置かれている座布団二枚も、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。
 明るい室内をくっきり映し出している掃き出し窓に近付くと、風に揺れる草木がぼんやり見えた。曇った窓を、親指で拭く。外は暗く、はっきりとはわからないが、庭はそれなりの広さがあるようだ。目を凝らすと、色とりどりの花が咲いているのも確認できる。明日の朝、台風一過で澄んだ空気と空の下で見たら、さぞ美しい庭なのだろう。葉菜は、日が昇ったらこの庭で、どんな写真を撮ろうか考える。
「ごめんくださーい」
 テレビを流し見しながらうとうとしていると、突然、大きな声が耳に飛び込んできた。思わず自分の部屋のドアを見る。テレビの音量を下げ、耳をそばだてていると、がやがやと賑やかな話し声が近付いてくるの聞こえた。
「マジ俺、死んだと思ったから」
「いやお前、即寝てたじゃん。運転してた俺の方が死ぬかと思ったわ」
「諒くん、顔引きつってたよね!」
「ね、写真撮っとけばよかったぁ」
「適当なこと言うなよ、見えてないだろ」
「鏡で見てたもん」
 声の主である若い男女たちは、どうやら葉菜の隣の部屋に案内されたようだった。話があまりにも筒抜けなので、ごほん、と咳払いをしてみる。
「ま、とにかく運転お疲れ様」
「うちのママより運転上手だったよ。初心者マーク外しちゃってもいいんじゃない?」
「あのなあ、一年間はつけなきゃいけないって決まりがあるんだよ」
 それからどたばたと物音がし、わあ庭だ、何これ筒抜けじゃね、あのさー荷物適当に置かないでくんない、と、ますます騒がしくなった。さっきまで静まりかえっていたのが嘘のようで、人の声が聞こえてくるのはこんなに安心するのかと、葉菜はうれしくなる。
「ね、このあとどうする? なんかする?」
「俺、さすがにもう疲れたよ」
「どうせ二泊するんだし、今日はもう寝て、明日早起きしね? その方が賢いっしょ」
「じゃ、あたしたちお風呂入ってきちゃおうよ」
「そうしよっか!}
「ん、俺ら布団しいとく」
「その前に煙草吸い行かね? ここって禁煙?」
 そういえばこの子たちは、男女で相部屋なのだろうか。最近の若者って、そういうの、あまり気にしないの?
 葉菜は、自分がいつの間にか隣の声を盗み聞きし、その上心配までしていることに気付き、あわててテレビの音量を上げた。声が聞こえると落ち着くとはいえ、会話の内容まで聞いていたら盗聴だ。
 テレビ画面には、見たことのないローカルCMが映っていた。チャンネルを変えると、天気予報士が、翌朝は台風一過で快晴だと伝えている。別のチャンネルでは、バラエティ番組。しばらくリモコンをいじっていると、懐かしい絵のアニメ映画が目の前に広がった。ザッピングの手が止まる。
 懐かしい。このアニメ、好きだったなあ。
 思わずため息が出た。不思議なモンスターが出てくる、少年少女たちの冒険のお話。日曜日の朝は、このアニメを観るために早起きしたっけ。お腹がすいて、まだ寝ている母親を起こし、叱られたこともあった。葉菜が小学生だったあの頃は、複数のアニメの劇場版を同時に上映することが多かったので、この映画を観るために、興味のない特撮映画を見たことまで思い出す。
 しばらく映画に見入っていると、隣の部屋から女の子たちの明るい声が聞こえてきた。風呂からあがり、部屋に戻ってきたようだ。
「それすっぴん?」
「ばあか!」
 かすかに聞こえてくる会話に、思わず吹き出してしまった。葉菜はラジオを聴く感覚で隣の部屋の会話を聞きながら、収納棚からバスタオルを取り出した。それから自分のトランクを開け、大浴場へ行く支度をする。映画の続きを観たくもあるが、自分も風呂に入りに行かなくてはならない。部屋のひとつひとつに風呂がないというのも、葉菜にとっては新鮮なのだった。
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