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七月二十一日|無限の夜を越えて
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小さい頃、夜は無限に続くのだと母が言った。その無限を抜け出す唯一の方法が寝ることで、だから眠らないでいると大変なことになるのだと、母は何度も言った。
「一度も寝ないまま朝を迎えたら、どうなるかわかる? 夜に閉じ込められちゃうのよ。時間は朝なのに、いつまで経っても太陽は出てこないの。あなた以外のみんなは、眠ったままずっと目を覚まさないの。……それが嫌なら早く寝なさい」
布団に行くのが少しでも遅れると、母は恐ろしい調子でそう言った。わたしは恐怖に怯えながら、急いで布団に入り必死に目をつむった。このまま眠くならなかったらどうしよう、夜の世界に閉じ込められたらどうしよう。そう思うと自然に涙が出てきて、眠気はどこかへ吹き飛んだ。寝なきゃ寝なきゃ、繰り返し唱えているうちに気を失い、気付けば朝になっていて、今日も夜を抜け出せたことに安堵した。
そんなふうに育ったから、徹夜なんてしたことがないまま大人になった。夜通し遊ぶような誘いは、どんなに楽しそうでもすべて断ってきた。いい歳をした今も、わたしは呪いにかかったままだ。
その呪いを解くことができる母親は、一昨年の暮れに認知症と診断された。父のこともわたしのこともわからず、わたしたちを「近所のおじいちゃん」「知らないおばさん」と呼ぶ。そんな母は先月、風邪をこじらせ肺炎になって入院した。
「もう危ないかもしれない」
父から連絡があったのは日曜の夕方で、わたしは「すぐ行く」と返事をした。それでいて、明日の仕事を休む準備をしたり、買ってあったお菓子をバッグに忍ばせたりと、自分でも呆れるくらいに落ち着いていた。あの横暴で偉そうな母が、まさか風邪なんかで死ぬとは思えなかったからだ。
そんな思いは、病院で母と対面した瞬間に吹き飛んだ。母はいろんな管に繋がれて、目を閉じたままぴくりとも動かなかった。規則的に電子音を鳴らすモニターのおかげで、かろうじて生きていることだけはわかった。父は疲れ切った顔で言った。
「今夜が峠だって」
そのドラマのような言い回しに、わたしは思わず笑いそうになった。あまりに現実味がなくて、これはドッキリなんじゃないかと思った。だけどいつまで経っても父は暗い雰囲気のままで、誰もネタばらしをしてくれそうになかった。わたしたちは、母が急変したらすぐ面会できるように、待合室で待つことになった。
「峠ってことは、それを越えたらよくなるかもしれないってことでしょ」
できるだけ明るく言ったわたしの言葉は、俯いた父の頭上を通過して壁にぶつかり、そのまま消えた。父はかなり消耗していた。仕方ないからお菓子でも食べようと思ってバッグを開いたところで、自分の手が震えているのに気付き、乾いた笑いが出た。
母はずっと、父のこともわたしのこともバカにしていた。その証拠に、母の口癖は「まったくもう」と「これだからあんたは」の二つだった。九九の暗唱でつまずいたわたしには「まったくもう、ちゃんと覚えなさいよ」と言ったし、キャベツを頼まれたのにレタスを買ってきた父には「これだからあんたはだめなのよ」と言った。そんな母が、今夜死ぬかもしれない。
「母さんのこと、好きだったか」
ずっと黙っていた父が突然、口を開いた。一瞬誰に話しかけたのかわからずに、返事がワンテンポ遅れた。
「そうだね。よくわかんないや」
絞り出した曖昧な返事は薄暗い待合室に響き、自分の耳にもう一度返ってきた。父は「そうか」と言ったきり、もう何も言わなかった。
しばらくは待合室で時間が過ぎるのを待っていた。容態が悪くなったという連絡はないが、持ち直したという報告もない。父は背もたれによりかかり、腕組みをしたまま眠っていた。もう何時間も待っている気がするし、まだ数分しか経っていない気もする。時が止まったような感覚に我慢できなくなったわたしは、気晴らしに病院内を歩くことにした。
途中で見つけた自販機に小銭を入れ、缶コーヒーのボタンを押したら、急に疲労感が襲ってきた。父と過ごす待合室の重い空気も、どうなるかわからない母の容態も、すべてが肩にのしかかって、気を抜けば押しつぶされそうだった。少し休もうと思い、側にあったベンチに腰かけた。そしてプルタブに指をかけた瞬間、身動きがとれなくなった。
目の前の大きな窓の向こうには、薄明るい空があった。青い光が地平線近くに広がり、暗闇を押し出そうとしている。それは初めて見る、生まれたばかりの朝だった。わたしは気付かないうちに、夜のトンネルを抜けていたのだ。……夜に閉じ込められちゃうのよ。意地悪に言う母の声と、わたしを「知らないおばさん」と呼ぶ母の声が、頭の中で重なって聞こえた。
時計を見ると、まだ四時だった。無限に続くと思っていた夜は、信じられないくらいに短く、儚かった。まだほんの少しだけ残っていた恐怖心が、一秒ごとに変わる空の美しい色で塗り替えられていくのがわかった。
「おい、探したぞ。……母さんが」
半分寝ぼけたような顔の父が、足音を立ててわたしの元へ駆けよってきた。「待って、言わないで」急に言葉を遮られた父は困ったような顔をしたが、わたしは構わず缶コーヒーを開け、一気に喉へ流し込んだ。「……ごめん、続けて」
続きを聞くのはもちろん怖かった。だけど、無限に続く夜が意外と短かったみたいに、母が夜を越えられる可能性だってある。どうかそうありますようにと願いながら、父の口がゆっくり開くのを見つめていた。
「一度も寝ないまま朝を迎えたら、どうなるかわかる? 夜に閉じ込められちゃうのよ。時間は朝なのに、いつまで経っても太陽は出てこないの。あなた以外のみんなは、眠ったままずっと目を覚まさないの。……それが嫌なら早く寝なさい」
布団に行くのが少しでも遅れると、母は恐ろしい調子でそう言った。わたしは恐怖に怯えながら、急いで布団に入り必死に目をつむった。このまま眠くならなかったらどうしよう、夜の世界に閉じ込められたらどうしよう。そう思うと自然に涙が出てきて、眠気はどこかへ吹き飛んだ。寝なきゃ寝なきゃ、繰り返し唱えているうちに気を失い、気付けば朝になっていて、今日も夜を抜け出せたことに安堵した。
そんなふうに育ったから、徹夜なんてしたことがないまま大人になった。夜通し遊ぶような誘いは、どんなに楽しそうでもすべて断ってきた。いい歳をした今も、わたしは呪いにかかったままだ。
その呪いを解くことができる母親は、一昨年の暮れに認知症と診断された。父のこともわたしのこともわからず、わたしたちを「近所のおじいちゃん」「知らないおばさん」と呼ぶ。そんな母は先月、風邪をこじらせ肺炎になって入院した。
「もう危ないかもしれない」
父から連絡があったのは日曜の夕方で、わたしは「すぐ行く」と返事をした。それでいて、明日の仕事を休む準備をしたり、買ってあったお菓子をバッグに忍ばせたりと、自分でも呆れるくらいに落ち着いていた。あの横暴で偉そうな母が、まさか風邪なんかで死ぬとは思えなかったからだ。
そんな思いは、病院で母と対面した瞬間に吹き飛んだ。母はいろんな管に繋がれて、目を閉じたままぴくりとも動かなかった。規則的に電子音を鳴らすモニターのおかげで、かろうじて生きていることだけはわかった。父は疲れ切った顔で言った。
「今夜が峠だって」
そのドラマのような言い回しに、わたしは思わず笑いそうになった。あまりに現実味がなくて、これはドッキリなんじゃないかと思った。だけどいつまで経っても父は暗い雰囲気のままで、誰もネタばらしをしてくれそうになかった。わたしたちは、母が急変したらすぐ面会できるように、待合室で待つことになった。
「峠ってことは、それを越えたらよくなるかもしれないってことでしょ」
できるだけ明るく言ったわたしの言葉は、俯いた父の頭上を通過して壁にぶつかり、そのまま消えた。父はかなり消耗していた。仕方ないからお菓子でも食べようと思ってバッグを開いたところで、自分の手が震えているのに気付き、乾いた笑いが出た。
母はずっと、父のこともわたしのこともバカにしていた。その証拠に、母の口癖は「まったくもう」と「これだからあんたは」の二つだった。九九の暗唱でつまずいたわたしには「まったくもう、ちゃんと覚えなさいよ」と言ったし、キャベツを頼まれたのにレタスを買ってきた父には「これだからあんたはだめなのよ」と言った。そんな母が、今夜死ぬかもしれない。
「母さんのこと、好きだったか」
ずっと黙っていた父が突然、口を開いた。一瞬誰に話しかけたのかわからずに、返事がワンテンポ遅れた。
「そうだね。よくわかんないや」
絞り出した曖昧な返事は薄暗い待合室に響き、自分の耳にもう一度返ってきた。父は「そうか」と言ったきり、もう何も言わなかった。
しばらくは待合室で時間が過ぎるのを待っていた。容態が悪くなったという連絡はないが、持ち直したという報告もない。父は背もたれによりかかり、腕組みをしたまま眠っていた。もう何時間も待っている気がするし、まだ数分しか経っていない気もする。時が止まったような感覚に我慢できなくなったわたしは、気晴らしに病院内を歩くことにした。
途中で見つけた自販機に小銭を入れ、缶コーヒーのボタンを押したら、急に疲労感が襲ってきた。父と過ごす待合室の重い空気も、どうなるかわからない母の容態も、すべてが肩にのしかかって、気を抜けば押しつぶされそうだった。少し休もうと思い、側にあったベンチに腰かけた。そしてプルタブに指をかけた瞬間、身動きがとれなくなった。
目の前の大きな窓の向こうには、薄明るい空があった。青い光が地平線近くに広がり、暗闇を押し出そうとしている。それは初めて見る、生まれたばかりの朝だった。わたしは気付かないうちに、夜のトンネルを抜けていたのだ。……夜に閉じ込められちゃうのよ。意地悪に言う母の声と、わたしを「知らないおばさん」と呼ぶ母の声が、頭の中で重なって聞こえた。
時計を見ると、まだ四時だった。無限に続くと思っていた夜は、信じられないくらいに短く、儚かった。まだほんの少しだけ残っていた恐怖心が、一秒ごとに変わる空の美しい色で塗り替えられていくのがわかった。
「おい、探したぞ。……母さんが」
半分寝ぼけたような顔の父が、足音を立ててわたしの元へ駆けよってきた。「待って、言わないで」急に言葉を遮られた父は困ったような顔をしたが、わたしは構わず缶コーヒーを開け、一気に喉へ流し込んだ。「……ごめん、続けて」
続きを聞くのはもちろん怖かった。だけど、無限に続く夜が意外と短かったみたいに、母が夜を越えられる可能性だってある。どうかそうありますようにと願いながら、父の口がゆっくり開くのを見つめていた。
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