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七月十八日|群青
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群青の海に沈んで死んだなら青の一部になれるだろうか。
夢に出てきたこのフレーズが頭から離れず、ついには海まで来てしまった。群青の海、という言葉が妙に引っかかって、どうしても自分の目でそれを見たくなったのだ。その一部になりたいと思えるほど美しい海があるのなら、わたしもそこに沈みたい。そのつもりで部屋の整理をし、一番いい服を着て、電車で海に来た。
だけど、たどり着いた先に広がる海はわたしを失望させた。それは地味で暗くて、たとえるなら退屈なアスファルトのような色をしていた。死の恐怖をも浄化する美しい群青ではなかった。落胆したわたしは電車に乗り、また数時間かけて自宅へ帰った。
じゃあ、群青の海はどこにあるのだろう。帰り道、わたしは一人で考えた。沖縄やハワイのきれいな海ならテレビで見たことがあるが、それはもっと明るく突き抜けた青で、群青という言葉にそぐわない気がした。この世に「群青の海」は存在するのだろうか。死をやさしく受け入れる海は、地球上にあるのだろうか。
その日から、わたしの頭の中は群青一色になった。暇さえあれば群青の海のことばかり考えていた。特にわたしが好きなのは「青が群れる」という言葉のつくりだった。さまざまな青が集まって群青の海になるところを思い浮かべると、心が凪いでいくのがわかった。そうすれば、もう上司に契約外のお茶汲みをさせられても、正社員に嫌味を言われても平気だった。早く結婚しろと親にぐちぐち言われても、恋人と妻と娘の仲睦まじい写真をSNSで見ても平気だった。
そのうち、いつでも群青を目にしていたくなって、ブラウスもスカートもジャケットもハンカチもカバンも文房具も群青色にした。すると、誰もわたしに妙なちょっかいを出してこなくなった。以前のように肩身の狭い思いでランチを食べる必要がなくなったので、不健康に減っていた体重は元に戻った。群青を思えば、心も体も健康でいられる。いつしかわたしは、群青なしでは生きられなくなっていた。
異変が起きたのは、それからしばらくしてからだ。会社に行こうと改札を抜け、ホームに立っていたら、突然震えが止まらなくなった。ホームに入ってきた電車のオレンジ色が、怖くて仕方なくなったのだ。視線をその車体に向けるだけで嫌悪感が体中を駆け巡った。とても乗れたものではないので、体調不良で休む旨を連絡し、群青一色に染まった自宅に逃げ込んだ。
群青のふとんにくるまりながら、ランチのために買ったサンドイッチを食べようとして、白いパンの気持ち悪さに気付いた。赤いトマトも黄色いチーズも緑のレタスも吐き気を誘う。それは、食べ物に虫がたかっていたときの嫌悪感に似ていた。麦茶、餃子、パスタ、米……家の中に、青色の食べ物なんてひとつもない。唯一わたしが口にできたのは、透明な水だけだった。
家にこもって水を飲むだけの生活を数日も続ければ、空腹なんて少しも感じなくなった。わたしの感情は、止まった心電図みたいに平坦だった。もはや、上から水を摂取し下から水を出すだけの機械でしかない。だけど、群青のシーツと群青のふとんにはさまれて眠るのは安らかで、幸せだった。まるで群青の海に沈んでいるようだった。
ふと手首を握ってみると、枝のような細さになっていることに気付いた。何日か前からおしりが痛いのは、骨が浮き出ているせいだとも気付いた。だけど、じゃあどうすればいいのかはわからない。ぼんやりとした頭で、まあ、このまま死んでしまってもかまわないかな、と思った。何もかもどうでもよかった。わたしはそのまま、静かに目を閉じた。
群青の海に沈んで死んだなら青の一部になれるだろうか。
夢に出てきたこのフレーズが頭から離れず、ついには海まで来てしまった。群青の海、という言葉が妙に引っかかって、どうしても自分の目でそれを見たくなったのだ。その一部になりたいと思えるほど美しい海があるのなら、わたしもそこに沈みたい。そのつもりで部屋の整理をし、一番いい服を着て、電車で海に来た。
だけど、たどり着いた先に広がる海はわたしを失望させた。それは地味で暗くて、たとえるなら退屈なアスファルトのような色をしていた。死の恐怖をも浄化する美しい群青ではなかった。落胆したわたしは電車に乗り、また数時間かけて自宅へ帰った。
じゃあ、群青の海はどこにあるのだろう。帰り道、わたしは一人で考えた。沖縄やハワイのきれいな海ならテレビで見たことがあるが、それはもっと明るく突き抜けた青で、群青という言葉にそぐわない気がした。この世に「群青の海」は存在するのだろうか。死をやさしく受け入れる海は、地球上にあるのだろうか。
その日から、わたしの頭の中は群青一色になった。暇さえあれば群青の海のことばかり考えていた。特にわたしが好きなのは「青が群れる」という言葉のつくりだった。さまざまな青が集まって群青の海になるところを思い浮かべると、心が凪いでいくのがわかった。そうすれば、もう上司に契約外のお茶汲みをさせられても、正社員に嫌味を言われても平気だった。早く結婚しろと親にぐちぐち言われても、恋人と妻と娘の仲睦まじい写真をSNSで見ても平気だった。
そのうち、いつでも群青を目にしていたくなって、ブラウスもスカートもジャケットもハンカチもカバンも文房具も群青色にした。すると、誰もわたしに妙なちょっかいを出してこなくなった。以前のように肩身の狭い思いでランチを食べる必要がなくなったので、不健康に減っていた体重は元に戻った。群青を思えば、心も体も健康でいられる。いつしかわたしは、群青なしでは生きられなくなっていた。
異変が起きたのは、それからしばらくしてからだ。会社に行こうと改札を抜け、ホームに立っていたら、突然震えが止まらなくなった。ホームに入ってきた電車のオレンジ色が、怖くて仕方なくなったのだ。視線をその車体に向けるだけで嫌悪感が体中を駆け巡った。とても乗れたものではないので、体調不良で休む旨を連絡し、群青一色に染まった自宅に逃げ込んだ。
群青のふとんにくるまりながら、ランチのために買ったサンドイッチを食べようとして、白いパンの気持ち悪さに気付いた。赤いトマトも黄色いチーズも緑のレタスも吐き気を誘う。それは、食べ物に虫がたかっていたときの嫌悪感に似ていた。麦茶、餃子、パスタ、米……家の中に、青色の食べ物なんてひとつもない。唯一わたしが口にできたのは、透明な水だけだった。
家にこもって水を飲むだけの生活を数日も続ければ、空腹なんて少しも感じなくなった。わたしの感情は、止まった心電図みたいに平坦だった。もはや、上から水を摂取し下から水を出すだけの機械でしかない。だけど、群青のシーツと群青のふとんにはさまれて眠るのは安らかで、幸せだった。まるで群青の海に沈んでいるようだった。
ふと手首を握ってみると、枝のような細さになっていることに気付いた。何日か前からおしりが痛いのは、骨が浮き出ているせいだとも気付いた。だけど、じゃあどうすればいいのかはわからない。ぼんやりとした頭で、まあ、このまま死んでしまってもかまわないかな、と思った。何もかもどうでもよかった。わたしはそのまま、静かに目を閉じた。
群青の海に沈んで死んだなら青の一部になれるだろうか。
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