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七月十六日|菜七子のこと
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妖怪なめ子は今日も、錆びた鉄棒を舐めている。もうだれも近付いたり話しかけたりしない。あの子はあの日、わたしたちの声が届かないところへ行ってしまったのだ。
なめ子は本当は、菜七子という名前だった。菜七子の家はお金持ちで、このへんに住んでいる人なら誰でもあの豪邸を知っていた。お父さんはいつも庭でゴルフの素振りをしていて、登下校で通りかかるわたしたちに笑顔で手を振ってくれるような人だった。わたしたち子供は「お仕事してないのになんでお金いっぱいあるんだろうね」と話しつつも、フレンドリーな菜七子のお父さんが好きだった。
お父さんだけでなく、菜七子のお母さんも好きだった。優しそうで、だけど怒るとものすごく怖い。男子が「お前の名前、ななな子じゃん」と菜七子をからかったときには、泣いて謝るまでその男子を叱っていた。確かそれは、四年生の終わりだったと思う。菜七子がまだ、菜七子だったときのことだ。
もともと菜七子は、少し変わった子だった。授業中に先生が「三十ページを開いてください」と言っても一人だけ図書室で借りた図鑑を開いていたし、ドッジボールのルールがわからず喜んでボールにぶつかっていた。だけど、周りに比べて小柄だったし、いつもにこにこしているのも愛らしくて、クラスのみんなは妹みたいな感覚でかわいがっていた。
五年生になって間もない頃、菜七子の家で事件が起きた。菜七子の妹が、日が暮れても家に帰らなかったのだ。菜七子の妹はまだ低学年で、大人たちは誘拐ではないかと騒ぎ立てた。わたしは自分のお母さんに連れられて、そこらじゅうを探し回った。菜七子のお母さんは泣きながら「菜七子の妹に何かあったら生きていけない」と叫び、菜七子のお父さんは「大丈夫、菜七子の妹はすぐに見つかる」と肩を震わせた。
実際、菜七子の妹はすぐに見つかった。騒ぎを知ったクラスメイトのお母さんが、「菜七子ちゃんの妹、うちにいます」と慌てて電話してきたのだ。菜七子の妹は適当なことを言って、友達の家に泊めてもらうつもりだったらしい。彼女は家出をした理由を、涙ながらにこう語った。
「みんなお姉ちゃんのことしか見てないから」
菜七子のお母さんが菜七子の妹を抱きしめて、菜七子のお父さんが「本当にありがとうございました」と言うと、みんな口々に「菜七子ちゃんの妹が見つかってよかった」と言いながら帰っていった。わたしもお母さんと家に帰ったが、一息ついて座ろうとした途端、電話が鳴った。今度は菜七子がいなくなったという連絡だった。
菜七子を見つけたのはわたしたちだった。誰もいない真っ暗な神社裏の公園で、菜七子は錆びた鉄棒をぺろぺろ舐めていた。
「やめなよ、病気になるよ」
鉄棒から引き剥がそうとしたわたしは、菜七子に振り払われてしりもちをついた。小柄な菜七子にそんな力があるなんて信じられず、ぞっとした。
「菜七子ちゃん、今お母さん呼ぶからね」
わたしのお母さんはそう声をかけて、電話をした。落ち着いた様子だったけれど、その指は震えていた。菜七子の両親が来てからも、菜七子は鉄棒から離れようとしなかった。錆びた鉄棒を舐めるその表情は、美味しそうでも不味そうでもなく、幸せそうでも悲しそうでもなかった。
その日から、菜七子は妖怪なめ子になった。授業中は鉛筆の芯を舐め、休み時間は外へ行って錆びた鉄棒を舐めている。雨の日は傘もささずに鉄棒を舐めまわすから、びしょ濡れのまま教室に帰ってくる。そのうち鉄棒には誰も近寄らなくなって、体育で使われることもなくなった。
菜七子がなめ子になったかわりに、菜七子の妹は美菜子ちゃんになった。美菜子ちゃんとは、休み時間にいっしょにドロケイをしたり、かくれ鬼をしたりしている。みんな、かわいい美菜子ちゃんが大好きだ。いなくなってしまった菜七子のかわりとして、妹みたいな感覚でかわいがっている。
なめ子は本当は、菜七子という名前だった。菜七子の家はお金持ちで、このへんに住んでいる人なら誰でもあの豪邸を知っていた。お父さんはいつも庭でゴルフの素振りをしていて、登下校で通りかかるわたしたちに笑顔で手を振ってくれるような人だった。わたしたち子供は「お仕事してないのになんでお金いっぱいあるんだろうね」と話しつつも、フレンドリーな菜七子のお父さんが好きだった。
お父さんだけでなく、菜七子のお母さんも好きだった。優しそうで、だけど怒るとものすごく怖い。男子が「お前の名前、ななな子じゃん」と菜七子をからかったときには、泣いて謝るまでその男子を叱っていた。確かそれは、四年生の終わりだったと思う。菜七子がまだ、菜七子だったときのことだ。
もともと菜七子は、少し変わった子だった。授業中に先生が「三十ページを開いてください」と言っても一人だけ図書室で借りた図鑑を開いていたし、ドッジボールのルールがわからず喜んでボールにぶつかっていた。だけど、周りに比べて小柄だったし、いつもにこにこしているのも愛らしくて、クラスのみんなは妹みたいな感覚でかわいがっていた。
五年生になって間もない頃、菜七子の家で事件が起きた。菜七子の妹が、日が暮れても家に帰らなかったのだ。菜七子の妹はまだ低学年で、大人たちは誘拐ではないかと騒ぎ立てた。わたしは自分のお母さんに連れられて、そこらじゅうを探し回った。菜七子のお母さんは泣きながら「菜七子の妹に何かあったら生きていけない」と叫び、菜七子のお父さんは「大丈夫、菜七子の妹はすぐに見つかる」と肩を震わせた。
実際、菜七子の妹はすぐに見つかった。騒ぎを知ったクラスメイトのお母さんが、「菜七子ちゃんの妹、うちにいます」と慌てて電話してきたのだ。菜七子の妹は適当なことを言って、友達の家に泊めてもらうつもりだったらしい。彼女は家出をした理由を、涙ながらにこう語った。
「みんなお姉ちゃんのことしか見てないから」
菜七子のお母さんが菜七子の妹を抱きしめて、菜七子のお父さんが「本当にありがとうございました」と言うと、みんな口々に「菜七子ちゃんの妹が見つかってよかった」と言いながら帰っていった。わたしもお母さんと家に帰ったが、一息ついて座ろうとした途端、電話が鳴った。今度は菜七子がいなくなったという連絡だった。
菜七子を見つけたのはわたしたちだった。誰もいない真っ暗な神社裏の公園で、菜七子は錆びた鉄棒をぺろぺろ舐めていた。
「やめなよ、病気になるよ」
鉄棒から引き剥がそうとしたわたしは、菜七子に振り払われてしりもちをついた。小柄な菜七子にそんな力があるなんて信じられず、ぞっとした。
「菜七子ちゃん、今お母さん呼ぶからね」
わたしのお母さんはそう声をかけて、電話をした。落ち着いた様子だったけれど、その指は震えていた。菜七子の両親が来てからも、菜七子は鉄棒から離れようとしなかった。錆びた鉄棒を舐めるその表情は、美味しそうでも不味そうでもなく、幸せそうでも悲しそうでもなかった。
その日から、菜七子は妖怪なめ子になった。授業中は鉛筆の芯を舐め、休み時間は外へ行って錆びた鉄棒を舐めている。雨の日は傘もささずに鉄棒を舐めまわすから、びしょ濡れのまま教室に帰ってくる。そのうち鉄棒には誰も近寄らなくなって、体育で使われることもなくなった。
菜七子がなめ子になったかわりに、菜七子の妹は美菜子ちゃんになった。美菜子ちゃんとは、休み時間にいっしょにドロケイをしたり、かくれ鬼をしたりしている。みんな、かわいい美菜子ちゃんが大好きだ。いなくなってしまった菜七子のかわりとして、妹みたいな感覚でかわいがっている。
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