七月の七等星

七草すずめ

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七月六日|松永くんの筆箱

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 これは秘密なのだけれど、となりの席の松永くんは筆箱の中で雲を飼っていた。
 松永くんはわたしよりも背が低くて、背の順では一番前に並んでいた。でも、「前の学校では一番うしろだった」という。どうやら「この学校の人はみんな背が高い」らしかった。第七小学校しか知らないわたしは、松永くんから東京の学校の話を聞くたびに、外国の話を聞いているような気持ちになった。
 七小のきまりに、三年生までは箱型の筆箱を使う、というものがあった。だからみんな四年生になるのを楽しみにしていて、わたしも「三年生が終わったらおしゃれな筆箱を買いに行こうね」と友達と約束していた。松永くんが東京から転校してきたとき、みんな驚いた。松永くんの筆箱は、つやつやしたやわらかい素材でできていたからだ。正面にはプーマのマークが大きく描かれていた。
「松永くんがエナメルのペンケースを使っているのは、前の学校で使っていたからで、特別です。みんなは四年生になるまで我慢してね」
 先生はそんなようなことを言ったと思う。でも、ざわざわしていて誰も聞いていなかった。松永くん自身は小柄だったし、自己紹介ではおどおどして頼りなさそうだったけど、上級生が使う筆箱を持っているだけで大人びて見えた。
 休み時間になると、みんなが松永くんの席に集まった。筆箱見せて、という声がたくさん聞こえた。松永くんが転校してきたというより、筆箱が転校してきたみたいだった。となりの席のわたしは、みんなの頭のあいだから松永くんの筆箱を覗き見た。松永くんはしばらく困った顔をしていたが、突然立ち上がり、声を荒げた。
「俺の筆箱に触るな!」
 集まっていた全員が、ぽかーんと口を開けた。平和な学校だったし、友達に怒鳴られたことなんてない子たちばかりだった。どうしていいかわからずに、ある子はそーっと自分の席に戻り、ある子は「そんな怒るなんて思わなかったんだもん」と言い訳しながらその場を離れ、ある子はむっとした顔で立ち去った。松永くんの周りには誰もいなくなり、残ったのはとなりの席に座っているわたしだけになった。
「東京って、暑い?」
 ひとりぼっちになった松永くんがかわいそうになって、そう話しかけた。それがきっかけで、わたしたちはなんとなく話をするようになった。といっても気が向いたときに話す程度で、休み時間や放課後にいっしょに遊ぶことはなかった。それでも、クラスの中ではわたしが一番松永くんと接していたと思う。
 松永くんが秘密を教えてくれたのは、ある暑い日の午後だった。松永くんは、鉛筆も消しゴムも定規も、みんなお道具箱に入れている。それがなぜなのかどうしても気になって、算数の授業中に「筆箱持ってるのに、なんで使わないの」と聞いたのがきっかけだった。尋ねられた松永くんは、先生がこちらを見ていないことを確認すると、両手で大切そうに筆箱を持ち、小声で「この中で入道雲を飼ってるんだ」と言った。
「入道雲って、夏に出る、あの?」
 驚きのあまりに大きくなりそうな声を必死で抑え、わたしは聞いた。松永くんはゆっくりうなずくと、人差し指を口の前に立てた。
「どこで見つけたの。もしかして、拾ったの?」
「そんなわけないだろ、猫じゃあるまいし」
 松永くんはいつものおどおどした調子ではなく、背筋もぴんと伸びていた。聞くと、東京から引っ越してくる日に仲良くなって、こっちに連れてくることにしたらしい。名前はついてるの、男の子なの女の子なの、筆箱の中は狭くないの。松永くんはどんな質問にも答えてくれたけれど、「わたしにも見せて」というお願いだけはきっぱり断った。そのうち席替えで席が離れ、四年生でクラスが別になり、筆箱の雲を見ることができないままどんどん疎遠になって、いつしかわたしは雲のことを忘れていた。
 松永くんが亡くなったことは、SNSで知った。大学受験に失敗し、浪人して勉強漬けになっているうちに、心を病んでしまったらしい。知らせを知ったときはそれなりにショックを受けたが、それ以上の感情はなかった。気持ちが変化したのは、梅雨が明け、夏の暑さを感じたときだった。
 彼のお母さんと面識はなかったけれど、とても穏やかなお母さんで、お線香をあげに来たわたしを歓迎してくれた。仏壇の前には青年の写真が飾られていた。記憶の中の松永くんとはちっとも結び付かなかった。
「松永くんの筆箱って、ありますか」
 出された冷たいお茶を一口飲むと、言おうか迷っていた言葉がするりと滑り出た。お母さんは首を傾げたが、「多分あると思います」と言い、階段を上がっていった。
 五年生になる頃には、松永くんの虚言は学年中で有名になっていた。東京の学校では一番背が高かったとか、前の家にはお手伝いさんが五人いたとか、そんなことばかり言っているらしかった。ついでに、松永くんが蜘蛛を捕まえてコレクションしているという噂も聞いた。わたしはそれを聞いてはじめて、筆箱に雲なんていなかったのだと悟った。
 松永くんのお母さんが持ってきたいくつかの筆箱の中に、それはあった。松永くんが誰にも触らせず大切にしていた、プーマの筆箱だ。黒い塗装がはげたファスナーを指でつまみ、そっと引き開けると、隙間からするすると白いわたのようなものが抜け出てきた。あっ、と思ったときにはもう遅く、ガマの穂に触れたときのように、勢いよく溢れ出た。それはふわふわと宙を泳ぎ、窓から外へ流れ出て、大きな入道雲になった。十数年の時を経て、ようやく空に帰ったのだ。
 松永くんは嘘なんてついていなかった。お茶をすすっているお母さんに「松永くんは嘘がつけない子でしたよね」と言うと、お母さんは少し考えて、「そうかもしれない」と微笑んだ。もう一度見た遺影の青年は、松永くんと同じ優しい瞳をしていた。
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