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夕暮れモーメント
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しおりを挟む子供の頃、隣の家から聴こえてくるサックスの音を聴きたくて、いつも窓ぎわで遊んでいたこと。
もともと裕福な家でもなかったのに、父親が突然サックスを買ってきたこと。
夜中にいきなり練習を始めて、起きてきたお母さんに怒られたこと。
学校を出てから、職場でできた友達と、休日がやって来る度に集まっては一緒に演奏したこと。
「昔は日曜日しか仕事を休めなかったんだぞ、今の人たちは羨ましい、」
と勝三さんは笑った。
そんな生活が数年続いたある時のこと。
その友達から、知り合いの経営するレストランで演奏してみないかという誘いを受けた。
「だけどなあ、だけど、」
勝三さんは病気で手が麻痺したことから、サックスを辞めてしまったそうなのだ。
レストランで演奏し始めてから、わずか三ヶ月のことだったらしい。
いつしか見た、勝三さんのデータには、勝三さんが病気になったということが記されていた。
リハビリのおかげで、手の麻痺はだいぶ緩和したらしい。
「でも、サックスをもう一度始めようという気にはなれなくてな」
そう言いながら、車椅子の手すりをリズミカルに指で叩く、勝三さん。
「どうしてですか?」
勝三さんは指を小刻みに動かしたまま、その質問には答えようとはしない。
閉めたはずのドアから、拍手の音が聞こえてきた。
ふと時計を見ると、針はコンサートの終了時刻を指していた。
「コンサート、終わっちゃいました。私、呼び戻しに来たのに」
でも、私は呼び戻しに行く必要なんて全くなかったのだ。
別に、それは高島さんの言うことを聞いておくべきだったとか、そういうことじゃなくって。
勝三さんは、サックスを見ないんじゃなくて、見られなかったのだ。
サックスを嫌っているわけじゃない。
むしろ、サックスへの想いは誰にも負けないくらいだ。
サックスを今でも楽しげに演奏している人たちが、眩しくて、見ていられなかったんだ。
「こんなつまらんじじいのために、きみもコンサートが見られなくなってしまって申し訳なかったな」
勝三さんは車椅子を手持ちぶさたに前後させながら、すまなさそうにぼそりとこぼした。
「いいんです。私も見たくなかったので。勝三さんと同じです。あと、」
「何だ?」
「勝三さん、また、サックスやりませんか?…私と一緒に」
ずっと車椅子を揺らしていた、勝三さんの手が止まった。
「やっぱりそうか。きみもサックス奏者だったか。わしの想像通りだ」
「わかるんですか?」
「老人の年の功ってやつだ」
勝三さんは口を開けて豪快に笑った。
なーんだ、って思った。
もっと何か特別な理由があるんじゃないかって少し期待したのに。
「でもな」
勝三さんは続けた。
「わしはやらんぞ」
「なんでですか?」
「もう吹かなくなってから長いからだ。あの時みたいにできないのなら、もうやりたくない」
「私だって勝三さんと同じです。もうずっと吹いてないです。あの時から」
あの時、とはっきり声に出して言ってから、しまった、と思った。
ずっと頭の片隅に封じ込めていた言葉や思い出が、走馬灯のようによみがえってくる。
あの日、あの時言われた言葉たちが、思い出されては私を襲い始める。
『ひなた、今度の市民祭出たくないって本当?』
「べ、別にそんなこと言ってない」
『聞いたよ。去年みんなが聴いてくれなかったから嫌だって言ったんでしょう』
「それは思ったけど…。」
『賞でも貰わないと演奏したいとか思わないわけ?最っっ低!』
「べ、別にそういう意味じゃないよ」
そんなやり取りを部員の一人としたのち、気づけば先輩に「上告」されていた。
『ひなたちゃん、市民祭出たくないって言ったんだって?』
あの時の私は本当にバカだった。
言ってしまったことくらい、それが間違ってとらえられたことくらい、簡単に認めてしまえばよかったのに。
なのに、私は言ってしまった言葉を、無理に正当化しようとしてしまったのだ。
「コンクールの練習のほうが大事だと思ったからです」
部室の空気が凍りつくような心地がした。
そんな薄情なこと、微塵も思ってなかったのに。
今思えばなんであんなこと言ったんだろう、って思う。
ただ、私は市民祭で演奏を聴いてもらえなかったのが悲しかっただけで。
なのに、その些細な失言をむりやり「正当な理由のあるもの」にしようとした。
言ってから、しまった、と思った。
だけど、もう取り返しがつかない。
容赦なく注がれる、みんなの視線が痛かった。
「ご、ごめんなさい。私、部活、辞めます」
気付いたらそう言って部室を飛び出していた。
それからあの部屋にはもうずっと足を踏み入れていない。
後になってサックスを置き去りにしていたことに気づいて、コンクールとかで部員たちがいない間を見計らって、こっそり持ち帰ったくらいのことはあったけど。
悔しかった。
情けなかった。
だけど、完全に自分だけのせいだった。
だけど、もう一度吹いてみたい。
あの音を響かせてみたい。
私は、サックスが大好きだった。
気付いたらなるべく見ないようにしてたけど。
ずっと見ないようにしていたのは、サックスへの強い未練の裏返しだ。
だけど、今さら、未練とか、悔しさとか、意地なんてものはどうでもよかった。
もう一度、演奏したい。
できれば、似たような気持ちでいる人と。
「私も、もう全然鈍ってると思うんですけど、そういうことじゃないんです。あれで終わりにしたくないんです。たった1つのきっかけなんかで、好きだったサックスを終わらせたくないんです」
「…そうか」
勝三さんはゆっくりと車輪を動かし、窓の方に進んでいった。
窓は外の夕暮れの空を、ましかくに切り取っていた。
「そこまで言うなら、乗っかりたくないこともない」
勝三さんも、私も窓越しの空を見ていた。
「わしは、サックスが嫌いだ」
「だけどな、サックスを演奏するのは大好きだ」
「…私もです」
「また演奏できたら、聴くのも好きになれるかもしれないな」
「…私も、そう思います」
「だけどなあ、、、、、下手だろうなあ!!人に恥は晒したくないなあ」
「だから、練習しましょう。来年のクリスマスまで。それで、演奏しましょう。ここで、今日みたいに、コンサートを開いて」
「合点だ。なら、他の人も、みんなで、コンサートで演奏するのはどうだ。きっと盛り上がるぞ」
勝三さんは生き生きと話し始めた。
「だったら、私、みんなに声かけてみます。ずっと楽器やってなかったような方たちにも」
「ただ、あんまり上手すぎる人はダメだぞ」
「どうしてですか?」
「わしの腕が、かすんで見えるからだ」
ハッハッハッ、と勝三さんの暖かい笑い声が響く。
私もつられて、笑ってしまう。
「勝三さんに負けないくらい、いっぱい練習してきますね」
「これじゃなかなか、あの世にも行けないなあ」
12月の早すぎる夕日が、勝三さんの白髪をオレンジ色に染めていた。
窓からの光が、サンタ姿の私と笑顔の勝三さんの2つの影を、くっきりと映し出していた。
fin.
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