ウオノメにキス

森原すみれ@薬膳おおかみ①②③刊行

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第九章 出逢い、別れ、そして出逢う。

(3)

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 空耳だと思った。
 それを現実と知らせたのは、視界に割って入ってきた単行本の表紙。
 咄嗟に身体を引いたものの、すぐさま背中にぶつかった人の気配に胸が鳴る。
 温もりの主は、予想通り、目の下に青いクマを刻んでいた。
「……ひっどい顔」
 こぼれ出た言葉に、透馬が小さく吹き出す。
「開口一番にそれかー」
「終わったんだ?」
「ん。ここを通りかかったのは偶然だけどね。まさか本当に杏ちゃんがいるとは思わなかった」
 そして再び差し出されたものは一冊の書籍。疑問に思いながら受け取ったそれに、私は目を見開いた。
 著者名は高橋ひかる。
 タイトルは――何だろう。どこかで見たことがある。
「二年前の春。初めて杏ちゃんを見た」
 透馬の瞳は、記憶を優しく懐古するような光が込められていた。
「そのころの俺は鳴かず飛ばずの小説家でさ。新人っていう括りに甘えているのもそろそろ限界な感じだった。担当の有佐ちゃんも必死にやってくれてたけど、そろそろ単発の仕事も尽きるかなって、そんな時期だった」
「え……」
「杏ちゃんが、この書店にいたんだ」
 今と同じ、黒くて長い髪が綺麗に揺れ、背筋がしゃんと真っ直ぐな女性。その佇まいには不釣り合いに思える、悲しみに沈んだ横顔。
 白くて綺麗な指が、自分の著作も入った一冊の短編集に掛けられた。
「あの時の……?」
 話の途中、胸にすとんと落ちてきた記憶に知らずに言葉をこぼす。
 二年前、薫が旅立ってしばらく自暴自棄に浸っていた自分。それを吹っ切らせてくれた、あの時の。
「自分の本の売れ行きとか評価とか見られ方とか。あの頃はすごく気にしてた。自信のなさの裏返しだったんだな、今思えば」
 透馬は少し恥ずかしそうに微笑む。互いの距離が自然に詰まった。
「その時、杏ちゃんがひとつの短編を繰り返し読んでいることに気付いた。巻頭に収められた物語。俺が書いた、物語を」
「!」
「嬉しかったんだ」
 小説を書いても良いんだよと、見ず知らずの君に言ってもらった気がした。
 それが、驚くほど嬉しくて。
「それからはもうガムシャラだったな。その子の手に届くようにって、とにかく必死だった。自分の新刊を律儀に毎回買ってたのも、半分意地みたいなものだったな。いつかその子にプレゼントしたいって、夢みたいなことを考えてたから」
「透馬……」
「笑顔でまた会いたいって――ずっとずっと、思ってた」
「……!」
(また……今度会うときは、笑顔で)
 あんな、ごく小さな声量だったはずの独り言を。
「会ってくれる?」
 救われたのは、私の方だったのに。
 くすぐったい頬の感触に気付き、咄嗟に本を引き離した。
 直後に床へ吸い込まれていった雫を見届け、ほっと胸を撫で下ろす。ああ、このタイトル――思い出した。
「あの時の物語と、同じタイトルだ」
「あの短編をベースにして、長編に書き下ろしたんだ。時間軸も視点も変えて組み込ませて。我ながら巧く仕上がってると思う」
「自画自賛」
「現に、今の今まで杏ちゃんにも気付かれていなかったでしょ」
「え?」
「杏ちゃん、推敲の才能あるよ」
 にこっといたずらっぽい笑み。
 急遽高速回転を始めた脳内で、ある人物からの申し出の存在に考え至った。
(作家志望なんですがね。公募用の小説を書き上げたそうで、推敲を頼まれたんです)
「まさか俺も、栄二さんが杏ちゃんに推敲を頼んでいるなんて思ってもみなかったけど」
「栄二さん……曇りなき眼で、しれっと嘘八百を……!」
 あの説明は、いったい何だったんだ!
「ははっ、あの人って本当器用だから。自分のこと以外はね」
 ケタケタと楽しそうに笑っている透馬に、私は恨みがましく視線を逸らした。やっぱりこいつ等は油断ならない連中だ。
 栄二さんから任されていた原稿に、無心で書き加えてきた赤ペンの文字。渾身の恋文を出し間違えたような激しい恥ずかさが身を焼く。
「隠してたお詫びに、ドリンク三杯分をサービスさせていただきますって、栄二さんから伝言だよ」
「ずるいな。あの店主様は」
「んで、話が逸れに逸れましたが」
「え?」
「うん。この本のこと」
 とんとんと指を置かれた手元の書籍。
 意図が掴めず見上げた透馬の顔はそれこそ、恋文を差し出すように頬が淡く染まっていた。
「この本を受け取ってくれれば、杏ちゃんは今後高橋ひかる先生の小説をもれなく無料で読めちゃうよ。サイン本だって希望があればいくらでも。それどころか、製本前の推敲作業にも参加出来るかも」
「……それはそれは有難いことで」
「うん。冗談です。そうじゃなくて……ね」
 視線より少し高い肩が大きく上がり、呼吸とともに定位置に戻る。
「これからは俺の傍にいてほしい。見ていてほしいんだ。杏ちゃんに、ずっと」
 目の下のクマがいつの間にか目に付かないくらい、顔を赤く染めた奴と、今度こそ目を逸らさない。
「だからその……友達じゃ、なくて」
「……っ」
「俺の、その、彼女に……!」
 やっとのことで紡ぎかけた想い。
 ところがそれは、突如沸き上がった野次馬の歓声によって尻すぼみにかき消された。
 そうだ。ここは書店のど真ん中。
 通りすがりの客はおろか書店の店長までが、公衆の面前で愛の告白を交わす私たちを温かく見守っている。ご丁寧に拍手を奏でる者まで現れ、ぐらりと目眩がした。平穏な日常が再び遠のく音がする。
 熱に浮かされる最中、突如熱い手の感触が自分の手を引いた。
 夢から覚めたように顔を上げる。
「飲み物サービスの有効期限は今日から三ヶ月だって。さっそく行こうか。杏ちゃん」
「今日はっ、あんたの奢りだ、馬鹿……!」
 涙が滲んでいた。二年前に流した涙とはまた違う、それでも、同じ温もりをはらんだ涙を。
 私の左手にしっかり抱えられた書籍を目にしながら、透馬は子供みたいに笑った。

 end
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