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第八章 復帰、失恋、泣き笑い。
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他人のような一言が頭に囁かれた瞬間、私はようやく、大いに狼狽える。
「か、帰……じゃ、じゃあね!」
「っ、待った!」
玄関に勢いよく足を踏み出した私は、その言葉を待ちわびていたように歩みを止めた。
「杏ちゃん」
恥じらいを上回る歓喜に身が焦がされていく。お願い。
手を掴んで。
「その……か、鞄……忘れてる」
「……」
ゆるゆると指さされた先。そこには確かに、床に寝かされていた私の鞄が、主人の行く末を間抜けに見守っていた。
「……どうも」
床に手を伸ばし、鞄を静かに持ち上げる。情けなく歪んだこの顔を見られたくなくて、顔はずっと伏せたままだった。
だからこそ――奴が目一杯に腕を伸ばしてくることに、気付くのが遅れた。
「きゃ……!」
「ッ、杏ちゃん!」
「ちょ、待っ……、んんっ」
背中を容易く絡めとった腕。動揺する隙も与えられないまま、唇に燃えるように熱いものが重ねられた。
咄嗟に瞼を閉じてしまう。苦しい。そっと離された合間に集めようとした酸素も、またすぐに奪われる。
鞄が床に再び寝転がる音を遠くに聞いた。捕らえられた両手が壁に結い付けられ、必要以上に密着する身体に再び熱が帯びる。そしてまるで違和感無く舌まで差し込んできた透馬に、私はようやく抵抗を見せた。
「は、ちょっ、と!」
「杏ちゃん」
「調子、乗りすぎ……!」
「だって、夢かもしれないから」
至近距離にある長い睫が、微かに震えてる。
「頭イカレて瀕死の中で見てる、都合のいい夢かもしれない。ね、もし夢なら、このまま眠っていようかな」
「……馬鹿」
「馬鹿でもいいよ」
ふわりと再び回され腕は、まるで毛布のように柔らかく私を包み込む。腕の中の空気を吸うと、驚くほど甘かった。
首元を掠める透馬の吐息から、混濁した欲望が滲んでいるのが分かる。溶かされかけた身体の芯が、唐突に目を覚ました。「で、でも」
「私は別に、あんたを縛るつもりはないから!」
羞恥心と見栄がごちゃまぜになる。沈黙を手当たり次第に潰していくように、勝手に口から滑り落ちてきた。
「私のことを特別扱いに、とか。そういうのは別に、望んでな……」
ぱし、と私の手を掴む音がする。
身体の向きをぐるりと変えられ、気付けば両頬が大きな手のひらに挟み込まれていた。促されるままに、床にすとんと腰を下ろす。
どうしてこんなに胸がうるさく騒いでしまうのだろう。長年感情をコントロールしてきた反動みたいに、まるで制御が利いていない。
穴が開くほどこちらを凝視する透馬に、せめてもの抵抗に非難の目つきを作った。
「杏」
「……なに」
っていうか、呼び名。
「杏は俺が、ほかの女を抱いてて平気なの」
馬鹿な質問をする。
律儀に答えを待っているらしい透馬を、私は黙って見つめる。その表情の中には、確固たる自信の裏側に脆い陰が根ざしていた。
頬を包み込むこいつの手のひらが、火照ったままの頬に馴染んでいく。このままひとつになればいいな、なんて。残念なことに私は、そう望んでいた。
「俺はやだよ」
「え?」
「絶対やだ」
吸い込まれるように口付けられた。学習することなくガチガチに固まる私に少し満足げな笑みを浮かべ、透馬はそっと額を合わせる。
「ま、大事な幼馴染みで仕方なくっていうなら、少しは譲歩もするけど」
「自分は他の女の子と遊んでるくせに、ですか」
「う」
栄二さんからの情報を敢えて伏せ、進行形で攻撃を試みた。
透馬は困ったように笑うのみで言い訳をしない。予想通りの反応だった。
「私が嫌だって言ったって、周りの女の子が放っておかないんじゃないの? そんな女の子たちを、あんたも冷たくあしらわない」
「……やきもち?」
「あんたもな」
煌めく瞳を一蹴する。
「女の子が魅力感じそうな肩書きだもんね、カフェの店員とか、小説家の先生とか」
口にするや否や、今後の展望が嫌でも頭に浮かんでくる。とても平穏無事とは言い難いその光景に、私はげんなりと肩を落とした。
「杏ちゃん」
おや。呼び名。
「有佐ちゃんに、聞いた?」
「は?」
「有佐ちゃんが、バラした?」
「……」
(有佐。お前はもう本気で黙れ。これでまたこじれたらお前、間違いなく担当を外されるぞ)
しまった。思わず。
先ほどの有紗さんと栄二さんのやり取りを見るに、「その仕事」のことはトップシークレットだったのだろう。咄嗟に口を噤んだ私を見るや否や、透馬は苦々しげに「アホ編集」と呟いた。
「あ、あの……透馬」
「どこまで聞いた?」
どこまでと言われましても。
何とか有佐さんをフォローしようとしたものの、俯いたままじっと沈黙を守る透馬の様子に結局言葉を結べなかった。癖毛から覗く耳が、ほんのり赤い。
「高橋ひかる先生」
「!」
がばっと持ち上げられた顔には、不安と羞恥がありありと浮かんでいた。その表情を目にしてふと、サイン本を巡り店長に掴みかかった書店での出来事を思い出す。
本当に、なんて恥ずかしい出逢い方をしていたのだろう。
「お会いできて光栄です。高橋先生」
息を飲む音がした。
瞬く間に染まり広がった赤い頬に、滴が伝う。
「……こちらこそ」
初めて見た、くしゃくしゃに泣き笑う透馬が、きらきらと眩しかった。
「か、帰……じゃ、じゃあね!」
「っ、待った!」
玄関に勢いよく足を踏み出した私は、その言葉を待ちわびていたように歩みを止めた。
「杏ちゃん」
恥じらいを上回る歓喜に身が焦がされていく。お願い。
手を掴んで。
「その……か、鞄……忘れてる」
「……」
ゆるゆると指さされた先。そこには確かに、床に寝かされていた私の鞄が、主人の行く末を間抜けに見守っていた。
「……どうも」
床に手を伸ばし、鞄を静かに持ち上げる。情けなく歪んだこの顔を見られたくなくて、顔はずっと伏せたままだった。
だからこそ――奴が目一杯に腕を伸ばしてくることに、気付くのが遅れた。
「きゃ……!」
「ッ、杏ちゃん!」
「ちょ、待っ……、んんっ」
背中を容易く絡めとった腕。動揺する隙も与えられないまま、唇に燃えるように熱いものが重ねられた。
咄嗟に瞼を閉じてしまう。苦しい。そっと離された合間に集めようとした酸素も、またすぐに奪われる。
鞄が床に再び寝転がる音を遠くに聞いた。捕らえられた両手が壁に結い付けられ、必要以上に密着する身体に再び熱が帯びる。そしてまるで違和感無く舌まで差し込んできた透馬に、私はようやく抵抗を見せた。
「は、ちょっ、と!」
「杏ちゃん」
「調子、乗りすぎ……!」
「だって、夢かもしれないから」
至近距離にある長い睫が、微かに震えてる。
「頭イカレて瀕死の中で見てる、都合のいい夢かもしれない。ね、もし夢なら、このまま眠っていようかな」
「……馬鹿」
「馬鹿でもいいよ」
ふわりと再び回され腕は、まるで毛布のように柔らかく私を包み込む。腕の中の空気を吸うと、驚くほど甘かった。
首元を掠める透馬の吐息から、混濁した欲望が滲んでいるのが分かる。溶かされかけた身体の芯が、唐突に目を覚ました。「で、でも」
「私は別に、あんたを縛るつもりはないから!」
羞恥心と見栄がごちゃまぜになる。沈黙を手当たり次第に潰していくように、勝手に口から滑り落ちてきた。
「私のことを特別扱いに、とか。そういうのは別に、望んでな……」
ぱし、と私の手を掴む音がする。
身体の向きをぐるりと変えられ、気付けば両頬が大きな手のひらに挟み込まれていた。促されるままに、床にすとんと腰を下ろす。
どうしてこんなに胸がうるさく騒いでしまうのだろう。長年感情をコントロールしてきた反動みたいに、まるで制御が利いていない。
穴が開くほどこちらを凝視する透馬に、せめてもの抵抗に非難の目つきを作った。
「杏」
「……なに」
っていうか、呼び名。
「杏は俺が、ほかの女を抱いてて平気なの」
馬鹿な質問をする。
律儀に答えを待っているらしい透馬を、私は黙って見つめる。その表情の中には、確固たる自信の裏側に脆い陰が根ざしていた。
頬を包み込むこいつの手のひらが、火照ったままの頬に馴染んでいく。このままひとつになればいいな、なんて。残念なことに私は、そう望んでいた。
「俺はやだよ」
「え?」
「絶対やだ」
吸い込まれるように口付けられた。学習することなくガチガチに固まる私に少し満足げな笑みを浮かべ、透馬はそっと額を合わせる。
「ま、大事な幼馴染みで仕方なくっていうなら、少しは譲歩もするけど」
「自分は他の女の子と遊んでるくせに、ですか」
「う」
栄二さんからの情報を敢えて伏せ、進行形で攻撃を試みた。
透馬は困ったように笑うのみで言い訳をしない。予想通りの反応だった。
「私が嫌だって言ったって、周りの女の子が放っておかないんじゃないの? そんな女の子たちを、あんたも冷たくあしらわない」
「……やきもち?」
「あんたもな」
煌めく瞳を一蹴する。
「女の子が魅力感じそうな肩書きだもんね、カフェの店員とか、小説家の先生とか」
口にするや否や、今後の展望が嫌でも頭に浮かんでくる。とても平穏無事とは言い難いその光景に、私はげんなりと肩を落とした。
「杏ちゃん」
おや。呼び名。
「有佐ちゃんに、聞いた?」
「は?」
「有佐ちゃんが、バラした?」
「……」
(有佐。お前はもう本気で黙れ。これでまたこじれたらお前、間違いなく担当を外されるぞ)
しまった。思わず。
先ほどの有紗さんと栄二さんのやり取りを見るに、「その仕事」のことはトップシークレットだったのだろう。咄嗟に口を噤んだ私を見るや否や、透馬は苦々しげに「アホ編集」と呟いた。
「あ、あの……透馬」
「どこまで聞いた?」
どこまでと言われましても。
何とか有佐さんをフォローしようとしたものの、俯いたままじっと沈黙を守る透馬の様子に結局言葉を結べなかった。癖毛から覗く耳が、ほんのり赤い。
「高橋ひかる先生」
「!」
がばっと持ち上げられた顔には、不安と羞恥がありありと浮かんでいた。その表情を目にしてふと、サイン本を巡り店長に掴みかかった書店での出来事を思い出す。
本当に、なんて恥ずかしい出逢い方をしていたのだろう。
「お会いできて光栄です。高橋先生」
息を飲む音がした。
瞬く間に染まり広がった赤い頬に、滴が伝う。
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