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第八章 復帰、失恋、泣き笑い。
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口元を両手で覆う。それでもなお口から湧き出そうな感嘆の声が、胸を熱く火照らせた。
ベッドと向かい合わせにして壁一面を使って備えられたクローゼット。そこにまるで自分の祖父が遺した別荘を思わせる、凄まじい数の本がずらりと並べられていた。
クローゼットにピタリと填められた棚は、きっとオーダーメイドなのだろう。書籍ごとの背丈に綺麗に合わせられ、色とりどりの書籍が整然とこちらを見つめていた。
圧倒されながらもふらふらと歩みを進めた私は、キャスター付きの椅子に軽く足をぶつける。視線をやった机の上には、紙の束が無造作に積み重ねられていた。
打ち込まれた文章の所々に、赤ペンの指摘が書き込まれている。
どこか見覚えのある、文字間の狭い字だった。
「これは……」
「杏ちゃん?」
身体が、大きく揺すぶられた。
摘まみ上げていた紙束のひとつを宙に浮かし、箱の中に取りこぼす。騒がしい紙の擦れる音が部屋に響いた後、意を決した私は背後を振り返った。
リビングの真ん中で、呆然と立ち尽くす透馬の姿。
いつもは嫌みなくらいにセットされている茶色の癖毛は、無造作に首の後ろで一括りにされている。電気を点けていないからか顔色も良くない。視線でさらった手元のビニール袋の中身も、ジャンクフードが主なようでお世辞にも健康的とは思えなかった。
「……透馬」
眼鏡越しに見る瞳は、ただただこちらだけを見つめている。
「ごめんなさい。その、突然勝手に、上がり込んで……」
「……ああ。有佐ちゃん?」
え、と口にするより先に、透馬の顔にはへらりと困ったような笑みが浮かび上がった。
「もしかして有佐ちゃんに会った? 頼まれたんでしょ。あの人も本当心配性だから」
「え、と」
「ごめんね。こんな所にまでわざわざ来てもらって」
「……」
矢継ぎ早に告げられる言葉は、全てが完結し、私の入る余地なんて無いように思われた。
「でも大丈夫。一応食事だってとってるし、前みたいに体調不良ってわけじゃないから」
始終笑顔が貼り付いた透馬を、私はじっと見つめた。奴も決して目を逸らさない。逸らしたら負けだった。
「ここまではタクシーで来た? 下に呼ぶよ」
早く出ていって、ということか。
ポケットから取り出した携帯電話を、透馬はためらいなくプッシュしていく。
軽口がぺらぺらと宙に舞う室内に乾いた音が響いた。直後、床に携帯電話が落下する。
「こっちを見ろ。馬鹿透馬」
ふわふわと軽い空気がぴたりと止む。
「ちゃんと! ここにいる私を見なさいよ……!」
いつの間にか両手で掴みかかっていた透馬の襟元を、力一杯に引き寄せる。
「今更そんな嘘くさい顔を見せて……馬鹿にしないで! そんなつまらない独り芝居を見るために、わ、私は……っ」
まずい。そう思ったときにはもう、熱い吐息とともに目の奥がつんと痺れる感覚が襲う。
「私は……ここに、来たんじゃない……っ!」
堰を切ったように言い放った。目の前の透馬は、今度こそ呆然とこちらを見つめている。
「なんで」
透馬の口からこぼれ落ちた言葉には、ようやく感情が乗っていた。
「なんで、ここに来たわけ。有佐ちゃんになんて言われたの。言いくるめられるなんて、らしくないじゃん」
「言いくるめられたわけじゃない」
「ふ。それじゃますますわからない」
まるで馬鹿にするように口元を歪めた透馬は、手に提げていたスーパーの袋をソファーに置いた。
向けられた背中が、遠く感じる。
「透馬に……会いたいと、思ったから」
緊張と羞恥で喉が引っかかる言葉を、何とか外へ押し出した。
「透馬に、会いたくて……だ、だからっ」
「だからさぁ」
胸にさあっと冷たいものが駆け抜ける。臆病に怯むには十分な、乱雑な口調だった。
「なんでそんなことわざわざ言いに来るの。会いたいから会いに来たって……なんなのそれ。今更」
「……っ」
「ざけんなよ……ほんと」
苛付きをまるで隠そうともしない。開けっぴろげに感情を剥き出しにする透馬に、どうしたらいいのか分からなくなる。
身体も、思考も、視線も。その冷たい態度にいとも容易く凍てついて、ただただ立ち尽くすほか無かった。唯一胸の奥だけが、ずきずきと溢れ出すような痛みを伴って鼓動を続けている。
ふざけてなんか、ない。
溢れ出しそうになる女々しい涙を、ここでは絶対に流すまいと決めてきた。透馬が背中を向けているのをいいことに、私は素早く目尻に滲みかけた泣き痕を甲で払う。
ふざけてなんかない。だってこんなに胸が痛い。
「なくしたくない」
もう、遅いのかな。
「え?」
「なくしたく……ない。わ、私はっ」
振り返った薄茶色の瞳に晒される。身が竦みそうになる。立ち方を忘れかけた膝を、無理矢理奮い立たせた。
「透馬のこと……私、は」
「……」
「わ、わたし、はっ」
うわ。なんだこれ。
あと一言。たった一言なのに、口に出るのは出来損ないのよろけた吐息だけだった。本音を口にすることにここまで慣れていない自分を、改めて情けなく思う。
自分の身体なのに思うようにいかない。
一体、どうして。
「っと、とう、ま」
「……あー、もう」
まるで遮るように声を上げた透馬に、思わず肩が跳ね上がる。
「杏ちゃんはもう、本当に……」
「……?」
「そんな目で、こっち見ないでよ」
どんな目だよ。涙もギリギリ滲ませていない。ただ、何となく落ち着き無く視線を彷徨わせる透馬は、明らかに様子が変わっていた。
「そんな目で……そんな顔で。そんな風に何度も呼ばれちゃあさ」
「好き」
「期待――」
続く言葉が呑み込まれる唇の細やかな動きを、私は無言のまま見つめていた。自分の言葉を認識したのはしばらく経ってからだ。
あ、言えた。
ベッドと向かい合わせにして壁一面を使って備えられたクローゼット。そこにまるで自分の祖父が遺した別荘を思わせる、凄まじい数の本がずらりと並べられていた。
クローゼットにピタリと填められた棚は、きっとオーダーメイドなのだろう。書籍ごとの背丈に綺麗に合わせられ、色とりどりの書籍が整然とこちらを見つめていた。
圧倒されながらもふらふらと歩みを進めた私は、キャスター付きの椅子に軽く足をぶつける。視線をやった机の上には、紙の束が無造作に積み重ねられていた。
打ち込まれた文章の所々に、赤ペンの指摘が書き込まれている。
どこか見覚えのある、文字間の狭い字だった。
「これは……」
「杏ちゃん?」
身体が、大きく揺すぶられた。
摘まみ上げていた紙束のひとつを宙に浮かし、箱の中に取りこぼす。騒がしい紙の擦れる音が部屋に響いた後、意を決した私は背後を振り返った。
リビングの真ん中で、呆然と立ち尽くす透馬の姿。
いつもは嫌みなくらいにセットされている茶色の癖毛は、無造作に首の後ろで一括りにされている。電気を点けていないからか顔色も良くない。視線でさらった手元のビニール袋の中身も、ジャンクフードが主なようでお世辞にも健康的とは思えなかった。
「……透馬」
眼鏡越しに見る瞳は、ただただこちらだけを見つめている。
「ごめんなさい。その、突然勝手に、上がり込んで……」
「……ああ。有佐ちゃん?」
え、と口にするより先に、透馬の顔にはへらりと困ったような笑みが浮かび上がった。
「もしかして有佐ちゃんに会った? 頼まれたんでしょ。あの人も本当心配性だから」
「え、と」
「ごめんね。こんな所にまでわざわざ来てもらって」
「……」
矢継ぎ早に告げられる言葉は、全てが完結し、私の入る余地なんて無いように思われた。
「でも大丈夫。一応食事だってとってるし、前みたいに体調不良ってわけじゃないから」
始終笑顔が貼り付いた透馬を、私はじっと見つめた。奴も決して目を逸らさない。逸らしたら負けだった。
「ここまではタクシーで来た? 下に呼ぶよ」
早く出ていって、ということか。
ポケットから取り出した携帯電話を、透馬はためらいなくプッシュしていく。
軽口がぺらぺらと宙に舞う室内に乾いた音が響いた。直後、床に携帯電話が落下する。
「こっちを見ろ。馬鹿透馬」
ふわふわと軽い空気がぴたりと止む。
「ちゃんと! ここにいる私を見なさいよ……!」
いつの間にか両手で掴みかかっていた透馬の襟元を、力一杯に引き寄せる。
「今更そんな嘘くさい顔を見せて……馬鹿にしないで! そんなつまらない独り芝居を見るために、わ、私は……っ」
まずい。そう思ったときにはもう、熱い吐息とともに目の奥がつんと痺れる感覚が襲う。
「私は……ここに、来たんじゃない……っ!」
堰を切ったように言い放った。目の前の透馬は、今度こそ呆然とこちらを見つめている。
「なんで」
透馬の口からこぼれ落ちた言葉には、ようやく感情が乗っていた。
「なんで、ここに来たわけ。有佐ちゃんになんて言われたの。言いくるめられるなんて、らしくないじゃん」
「言いくるめられたわけじゃない」
「ふ。それじゃますますわからない」
まるで馬鹿にするように口元を歪めた透馬は、手に提げていたスーパーの袋をソファーに置いた。
向けられた背中が、遠く感じる。
「透馬に……会いたいと、思ったから」
緊張と羞恥で喉が引っかかる言葉を、何とか外へ押し出した。
「透馬に、会いたくて……だ、だからっ」
「だからさぁ」
胸にさあっと冷たいものが駆け抜ける。臆病に怯むには十分な、乱雑な口調だった。
「なんでそんなことわざわざ言いに来るの。会いたいから会いに来たって……なんなのそれ。今更」
「……っ」
「ざけんなよ……ほんと」
苛付きをまるで隠そうともしない。開けっぴろげに感情を剥き出しにする透馬に、どうしたらいいのか分からなくなる。
身体も、思考も、視線も。その冷たい態度にいとも容易く凍てついて、ただただ立ち尽くすほか無かった。唯一胸の奥だけが、ずきずきと溢れ出すような痛みを伴って鼓動を続けている。
ふざけてなんか、ない。
溢れ出しそうになる女々しい涙を、ここでは絶対に流すまいと決めてきた。透馬が背中を向けているのをいいことに、私は素早く目尻に滲みかけた泣き痕を甲で払う。
ふざけてなんかない。だってこんなに胸が痛い。
「なくしたくない」
もう、遅いのかな。
「え?」
「なくしたく……ない。わ、私はっ」
振り返った薄茶色の瞳に晒される。身が竦みそうになる。立ち方を忘れかけた膝を、無理矢理奮い立たせた。
「透馬のこと……私、は」
「……」
「わ、わたし、はっ」
うわ。なんだこれ。
あと一言。たった一言なのに、口に出るのは出来損ないのよろけた吐息だけだった。本音を口にすることにここまで慣れていない自分を、改めて情けなく思う。
自分の身体なのに思うようにいかない。
一体、どうして。
「っと、とう、ま」
「……あー、もう」
まるで遮るように声を上げた透馬に、思わず肩が跳ね上がる。
「杏ちゃんはもう、本当に……」
「……?」
「そんな目で、こっち見ないでよ」
どんな目だよ。涙もギリギリ滲ませていない。ただ、何となく落ち着き無く視線を彷徨わせる透馬は、明らかに様子が変わっていた。
「そんな目で……そんな顔で。そんな風に何度も呼ばれちゃあさ」
「好き」
「期待――」
続く言葉が呑み込まれる唇の細やかな動きを、私は無言のまま見つめていた。自分の言葉を認識したのはしばらく経ってからだ。
あ、言えた。
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