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第八章 復帰、失恋、泣き笑い。

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 車内の空気はこの上なく張り詰めている。どうしても乾いてしまう喉に何度目か分からない唾液を飲み込んだ。
「今、先生は書下ろし原稿の締め切り間近なんです。いつもマイペースな先生ですが締め切りを破るなんて今までありませんでした。優秀な作家です。でも今回は、明らかな危機感があります。様子からして変です。流動食しか食べない。原稿を落としたら、なんて仮定は許されません。どうにかして下さい」
 まくし立てるようにそう言いきった有佐さんが、舌打ちとともにハンドルを大きく回した。助手席のシートベルトに縛り付けられた私は、彼女の心理状態を示すような運転に身体を揺らしている。
 遠くに聞こえるクラクションの音を置いてけぼりに、車は暴走し続けた。たどり着いた先は、七階建てのやや大きめなマンションだった。意外と普通の外観に呆けている間にも右脇をガッチリと固められた私は、ベルトコンベアに乗せられた機械部品よろしく、真っ直ぐに目的の場所まで運ばれていく。
 いよいよ目的の階層が近付いてくるエレベーター内で、私はようやく我に返った。
「あ、あの! あいつ、私が来るってこと、知ってるんですか?」
「つゆほども知りません。最近は話しかけてもずっと上の空です。あのクソが」
 再び響いた舌打ちに、怯みながらも言葉を続ける。
「私が行って……何を話せばいいんですか? こんな急なことで、私は」
「あいつは貴女を失いたくない」
 眠りを覚ますような口調だった。
「貴女はあいつの恩人らしいですよ。最近も、執筆にどうしても必要だと騒いでいた絶版の書籍を、貴女が探し出して下さったとか」
 あの本……そういう目的で?
「それだけではないようですがね。詳しいことは本人から聞いて下さい」
「え?」
「ここです」
 目を白黒させている間に、有佐さんは手慣れた様子で鍵を回し一室のドアを開いた。落とした視線の先には男物の靴が二、三組放り出されている玄関フード。胸がどくりと跳ね上がる。
「鍵はお渡しします」
 冷たい感触と名刺らしき紙が手中に握らされる。途端に現実味を帯びてきた状況に私は酷く狼狽えた。
「っ、あの」
「んんー。それにしても」
 思いのほか至近距離だった有佐さんが、まるで値踏みするような視線を送ってくる。咄嗟に距離を取った私に、思案顔の彼女は「ふむ」と小さく頷いた。
「先生のお相手じゃなければ……その意志の強そうな目元とか、結構私の好みだったんですけどね」
「……は?」
「へへ。ご心配しなくとも、人のものを取りはしませんよ。終わったらその名刺の番号にかけて下さい」
 いまだに隈を目元に残しながらも爽やかな笑顔で去っていく後ろ姿を、私は呆然と見送った。何か気になることを言われたような気もしたが、考えるのは後だ。
 パタン、と空気を吐き出したドアの音に一層緊張を煽られる。
 息を潜めて靴を脇に並べ、リビングに繋がっているらしい扉にそっと耳を近づけるも、人が居るのかも確認できなかった。
 こんな所まで押し掛けて私は、何を伝えに来たんだろう。
 触れているドアノブと同じくらいに冷えきっていく指先の一方で、頬は燃えるように熱く火照っていることに気付いていた。
 男の家に無断で立ち入って、どう話を切り出す? どこから弁解すればいい?
 向こうがどんな想いかも、どんな状態かも分からないままなのに。
「……っ」
 重い思考の波を振り切るようにかぶりを振った。そうじゃない。今必要なのは、賢い選択肢なんかじゃない。
 逃げ出そうと思えば、いくらでも逃げ出せたのだから。
「と、透馬……?」
 振り絞って出した声は掠れていた。
 ドアノブを静かに回す。必要最低限で済まされている玄関とは違い、人の住まう光景が広がることに、今更ながら身が縮む思いがした。
 しんと静まり返った室内。人影はない。
 どうやら1LDKらしい。リビングに繋がるワンルームにも洗面所にも、人の気配はどこにもなかった。てっきり部屋の主が居るものかと思っていた私は、導き出された答えに一気に肩の力が抜ける。
 ひとまず自分の鞄を適当に床におろす。そしてやはり足音を立てないようにしながら、私は室内を見物し始めた。
 閉め切られたままのベージュ色のカーテン。外から透けている日の光が、部屋の中を淡くくすんだオレンジに色付けていた。リビングのテーブルには食事の跡が残されたままの皿が隅に追いやられるように置いてある。
「……本は?」
 独りごちた私は、リビングの中央から辺りをぐるりと見回した。
 以前連れていかれた私営図書館と、本への執着。
 どう考えても私と同等の本の虫と思っていたが、奴のリビングにはその気配がまるでない。そんな考えの中私の足は自然と、引き戸で繋がるワンルームへと向けられた。
「透馬……?」
 細く開いたままになっていた引き戸をカラカラと開ける。部屋の奥には、無造作に布団が開かれたベッドが姿を現した。部屋の主の残像を思わせる光景に、一瞬戸惑いが浮かぶ。
 しかしながら、ほんの僅か視線をずらした先に広がる光景に、私は目を見開いた。
「う、わ……っ」
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