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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。
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その後、話を聞きつけた奈緒や薫のおばさんからの連絡を順に返していく作業に追われた。
時計に目を向ける。あと一時間もしない内に仕事上がりの奈緒が来る予定になっている。きっとこっぴどく怒られるな。そう思ったら、何だか可笑しかった。
「……あ。何か、食べるもの」
一昨日買い込んだものはジャンクフードばかりだ。ベッドをのろのろと降りた私は、適当に選別したジーパンとTシャツを纏って財布を手に取った。
鏡に映った自分を鉢合わせする。なんだよ、と私は思った。意外に悪くない。
さっと手櫛で髪を梳き、身なりを整える。指先で鍵をクルクル遊ばせながら、口もとに自然と笑みが浮かんでいることに気付く。
いつもの自分が戻ってきている。謹慎中の身の上には変わりないはずなのに、先ほどまでの鬱々とした心地がまるで嘘のようだった。
薫のお陰、だろうな。
微かに瞬き始めた星空の狭間に幼馴染みの面影を見た。ありがとうも、ごめんねも、結局はっきりと告げないままだ。でも、薫にはきっとそれで良いのだろう。
(ほら。こう見えて俺も、もう立派な成人男性だし?)
(玉砕したらしたでさ、幼馴染み同士、居酒屋を梯子するのも悪くないじゃん! なっ?)
慣れない慰めの言葉を残して、薫は帰っていった。扉前でぽんと頭に置かれた手の温もりは、ひとりきりの時間に明かりを灯してくれた。
「二年前とは違う、か」
あの後も薫が、まるで勇気づける呪文のように繰り返した言葉を、私も口にした。
例の騒ぎで謹慎を受けた私を、あてもなく捜し出してくれた。街の中心部からはかなり離れているおじいちゃんの書籍館まで、汗を滲ませて。そんな透馬に対する私の言動は、今振り返っても最悪なものばかりだ。それでも。
今からでも、間に合うのだろうか。
夜道を小走りに駆けていく。奈緒が来るまであと一時間。近所のスーパーへ歩みを進めた私は、ひとまず手当たり次第に食料たちをカゴに放り込んでいった。会計を済ませ手際よく袋に仕分けしていく最中、理由もなく背後を振り返る。
そして、時が止まった。
「死にそうな声で電話してくるから来てみれば、昨日から何も口にしてないって……どこまで私を心配させれば気が済むんですか、もう!」
本当に、無意識のことだった。若い女性の話声が耳に届く。
「はは……ごめん。気付いたら、約束の時間も過ぎちゃって」
「いつものメニューで良いですよね? あ、そこのヨーグルトも取ってください。朝食用の、どうせ切らしてるでしょ」
カートを押す男と、カゴに食料品を入れていく女。違和感のまるでない、よくある日常風景。
「そこのドリンクも欲しいかも。ちょっと疲れてるし、折角アリサちゃんが来てくれたんだから」
「女の人にうつつを抜かすのも程々にしないと、私だってそういつまでも理解があるわけじゃないんですからね」
「ん……大丈夫。きっともう何もないから。ヤキモキさせてごめんね」
「いちいち気にしてたら、こっちも身が持ちませんから」
顔を俯けながら先を行く彼女は、今日も小さなお団子を頭上に結って、身なりも綺麗に整えられていた。店内をよく通る、ソプラノの声。
どうして。
どうして、決して騒がしくもない二人の会話だけが、まるでチューニングを合わせたかのようにこの耳に届いてしまったのだろう。
どうして、星の瞬くこんな時間帯に二人はスーパーで仲睦まじく買い物をしているのだろう。
どうして、今この瞬間、私は振り返ってしまったのだろう。
どうして――。
「え?」
薄茶色の澄んだ瞳が、ぴたりと動きを止める。
どうして――こんな時に限って、
目が、合って。
「? どうかしましたか?」
連れが不意に立ち止まったことに、彼女は怪訝な様子で声をかける。
「大丈夫ですか? もしかして具合が……、あ」
隣に控える彼女と目が合う前に、私は顔を背けた。
スーパーの出口から吐き出されるように飛び出す。乱暴な音を立てるビニール袋を投げ捨てそうになりながら、私は目の前に広がる夜道をひたすら駆け抜けた。
先ほどまで心地良かった初夏の夜の空気が、今は見えない壁のように身体を前に進ませない。
「っ、ふ……」
熱く溜まってきた吐息を出そうとして失敗した。喉の奥が不格好に痙攣したところに、感情の波がじわじわと上ってくる。
「っ、ぅ、く……っ」
本当は、心のどこかで今も疑問に思っていた。前に喫茶店で語らっていた彼女の存在を。
個人的な付き合いではないと言っていたけれど、どう考えてもそんな雰囲気ではなかったことも。
せっかくの奴の好意を跳ね退ける可愛くない自分と、心から奴のことを気にかける献身的な彼女。
なんだ。比べようもないじゃない。
「……っ」
胸が、痛かった。
思わず脚が絡みそうになって初めて、先日の怪我の痛みに気付く。そんなものまるで比較にならないくらいに、胸が痛い。
じくじくと浸食していく痛みが広がって、身体全体まで行き着くと、そのまま末端まで動きを重く鈍らせる。自室に飛び込み、ようやく手放した買い物袋を玄関に置き去りにした。胸が、痛い。痛い痛い痛い。
どうして、こんなに。
「好きに、なるとか……っ」
冷たく暗い自室にぽつりと落とした言葉。直後、ぽろぽろと止めどなく零れ落ちてくる涙は、駆け付けた奈緒を迎え入れる時も止むことはない。
混乱しながらも必死に背中をさすってくれる小さな手の温もりに、奴の大きな手を思う自分が惨めで仕方なかった。
時計に目を向ける。あと一時間もしない内に仕事上がりの奈緒が来る予定になっている。きっとこっぴどく怒られるな。そう思ったら、何だか可笑しかった。
「……あ。何か、食べるもの」
一昨日買い込んだものはジャンクフードばかりだ。ベッドをのろのろと降りた私は、適当に選別したジーパンとTシャツを纏って財布を手に取った。
鏡に映った自分を鉢合わせする。なんだよ、と私は思った。意外に悪くない。
さっと手櫛で髪を梳き、身なりを整える。指先で鍵をクルクル遊ばせながら、口もとに自然と笑みが浮かんでいることに気付く。
いつもの自分が戻ってきている。謹慎中の身の上には変わりないはずなのに、先ほどまでの鬱々とした心地がまるで嘘のようだった。
薫のお陰、だろうな。
微かに瞬き始めた星空の狭間に幼馴染みの面影を見た。ありがとうも、ごめんねも、結局はっきりと告げないままだ。でも、薫にはきっとそれで良いのだろう。
(ほら。こう見えて俺も、もう立派な成人男性だし?)
(玉砕したらしたでさ、幼馴染み同士、居酒屋を梯子するのも悪くないじゃん! なっ?)
慣れない慰めの言葉を残して、薫は帰っていった。扉前でぽんと頭に置かれた手の温もりは、ひとりきりの時間に明かりを灯してくれた。
「二年前とは違う、か」
あの後も薫が、まるで勇気づける呪文のように繰り返した言葉を、私も口にした。
例の騒ぎで謹慎を受けた私を、あてもなく捜し出してくれた。街の中心部からはかなり離れているおじいちゃんの書籍館まで、汗を滲ませて。そんな透馬に対する私の言動は、今振り返っても最悪なものばかりだ。それでも。
今からでも、間に合うのだろうか。
夜道を小走りに駆けていく。奈緒が来るまであと一時間。近所のスーパーへ歩みを進めた私は、ひとまず手当たり次第に食料たちをカゴに放り込んでいった。会計を済ませ手際よく袋に仕分けしていく最中、理由もなく背後を振り返る。
そして、時が止まった。
「死にそうな声で電話してくるから来てみれば、昨日から何も口にしてないって……どこまで私を心配させれば気が済むんですか、もう!」
本当に、無意識のことだった。若い女性の話声が耳に届く。
「はは……ごめん。気付いたら、約束の時間も過ぎちゃって」
「いつものメニューで良いですよね? あ、そこのヨーグルトも取ってください。朝食用の、どうせ切らしてるでしょ」
カートを押す男と、カゴに食料品を入れていく女。違和感のまるでない、よくある日常風景。
「そこのドリンクも欲しいかも。ちょっと疲れてるし、折角アリサちゃんが来てくれたんだから」
「女の人にうつつを抜かすのも程々にしないと、私だってそういつまでも理解があるわけじゃないんですからね」
「ん……大丈夫。きっともう何もないから。ヤキモキさせてごめんね」
「いちいち気にしてたら、こっちも身が持ちませんから」
顔を俯けながら先を行く彼女は、今日も小さなお団子を頭上に結って、身なりも綺麗に整えられていた。店内をよく通る、ソプラノの声。
どうして。
どうして、決して騒がしくもない二人の会話だけが、まるでチューニングを合わせたかのようにこの耳に届いてしまったのだろう。
どうして、星の瞬くこんな時間帯に二人はスーパーで仲睦まじく買い物をしているのだろう。
どうして、今この瞬間、私は振り返ってしまったのだろう。
どうして――。
「え?」
薄茶色の澄んだ瞳が、ぴたりと動きを止める。
どうして――こんな時に限って、
目が、合って。
「? どうかしましたか?」
連れが不意に立ち止まったことに、彼女は怪訝な様子で声をかける。
「大丈夫ですか? もしかして具合が……、あ」
隣に控える彼女と目が合う前に、私は顔を背けた。
スーパーの出口から吐き出されるように飛び出す。乱暴な音を立てるビニール袋を投げ捨てそうになりながら、私は目の前に広がる夜道をひたすら駆け抜けた。
先ほどまで心地良かった初夏の夜の空気が、今は見えない壁のように身体を前に進ませない。
「っ、ふ……」
熱く溜まってきた吐息を出そうとして失敗した。喉の奥が不格好に痙攣したところに、感情の波がじわじわと上ってくる。
「っ、ぅ、く……っ」
本当は、心のどこかで今も疑問に思っていた。前に喫茶店で語らっていた彼女の存在を。
個人的な付き合いではないと言っていたけれど、どう考えてもそんな雰囲気ではなかったことも。
せっかくの奴の好意を跳ね退ける可愛くない自分と、心から奴のことを気にかける献身的な彼女。
なんだ。比べようもないじゃない。
「……っ」
胸が、痛かった。
思わず脚が絡みそうになって初めて、先日の怪我の痛みに気付く。そんなものまるで比較にならないくらいに、胸が痛い。
じくじくと浸食していく痛みが広がって、身体全体まで行き着くと、そのまま末端まで動きを重く鈍らせる。自室に飛び込み、ようやく手放した買い物袋を玄関に置き去りにした。胸が、痛い。痛い痛い痛い。
どうして、こんなに。
「好きに、なるとか……っ」
冷たく暗い自室にぽつりと落とした言葉。直後、ぽろぽろと止めどなく零れ落ちてくる涙は、駆け付けた奈緒を迎え入れる時も止むことはない。
混乱しながらも必死に背中をさすってくれる小さな手の温もりに、奴の大きな手を思う自分が惨めで仕方なかった。
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