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第七章 犯人、誘惑、壊れたもの。

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「……気になってたくせに」
「そりゃそうだけど」
 少し気まずげな口調。それでも、そっと頭を撫でる手のひらはどこか年上の余裕が感じられて、温もりの中で静かに瞳を閉じた。
「メッキが、剥がされちゃったね」
 でも私自身は、いつまで経っても冷たいままだ。
「……は?」
「一人でも生きていけるようにって思ってきたから。自分を馬鹿にする奴を跳ね退けて、見返して、羨望される側になって――ずっと、今まで」
 そっと身体を離される。髪も無造作に結われ、涙でべたべたになった化粧痕は隠しようもない。負け犬の情けない笑顔を透馬はどう思っただろう。
 私は所詮「特別」に値する女じゃない。さすがにもう、気付いてしまっただろうか。
「透馬」
「杏、ちゃん……?」
 涙で睫がすっかり重力に負けた瞳。
 それでも、透馬の困惑した視線と交わらせるには十分だった。すぐ手が届くところにあった服の袖を小さく、でも確実に悟らせるように引いてみせる。
 続く言葉は、驚くほどすんなりと、自分の口からこぼれ落ちた。
「慰めて、くれないの?」
 目の前の双眼が大きく見開かれる。薄茶色の瞳の中に映り込んだ自分の姿を見つけ、意味もなく笑みを浮かべた。
「なに……言って。らしくないよ」
「らしくない?」
「らしくないでしょ。だって杏ちゃんは、俺のこと」
 詰め寄る調子の透馬に、私は眉を下げる。こんな表情もきっと、ずっと長い間、誰にも見せたことはなかった。
「私らしくない私は、お役御免ってこと……?」
「だから、そうじゃなくて……、ッ!?」
 顔を伏せたまま、透馬の首根っこを強引にこちらに引き込む。
 油断していたらしい透馬は、咄嗟にソファーの背もたれに片手を付いた。
 影の落とされた驚愕の表情。それすらも素直に綺麗だと思った。
 透馬の背景にある天井板をぼんやりと見つめる。
「らしくないのは、アンタの方でしょ。透馬」
 見上げた先の奴の頬に、そっと手を添えた。
「据え膳が目の前にあるんだよ。予想よりも全然、美味しくないかもしれないけれど」
 苦しかった。息が詰まるほど。
 公衆の面前で二年前のことを暴露されたときも謂われない暴言を吐かれたときも、こんなに胸を抉られる思いはしなかった。それなのに、どうして。
「お願い」
 透馬に、聞かれてしまった。二年前のことだけじゃない。中学時代の屈辱も、何もかも。
 ただそれだけのことで――どうして、こんなに。
「好きだって、言ってくれたじゃない」
 顔の真横に付かれた奴の手が、確かに反応した。その事実が、私を何とか慰める。
「それとも、やっぱりあれは、ただのリップサービス……?」
「……っ」
「透馬」
 見上げた先から、喉を詰める音が聞こえた。
 背もたれに付いていた透馬の左手に手を添え、そっと自分の頬に持ってくる。伏し目で口を噤む私に徐々に近付いてくる透馬の影。
 心臓が、甘く締め付けられる。
 透馬。透馬。透馬。心の中で何度も呼びかける。そして初めて、ここへ来る途中も、ずっとずっとその名を呼び続けていたことに気付いた。
「杏、ちゃん……」
 唇に置かれる指先は、焦れったいくらいに微かに触れるだけだった。
 無意識に伸ばした両手を、透馬の首もとに差し込む。予想以上に柔らかい癖毛を指でそっと梳いた。百戦錬磨の瞳はこちらを見つめたまま、ゆらゆらと光を揺らしている。
「透馬……私……」
 縋り付くような言葉をこぼした瞬間、目尻から耳までを、熱くくすぐったい感触が辿っていく。目の前の瞳が、一際大きく揺れた。嫌いにならないで。嫌いになってほしくない。
 だって、私は――。
「駄目だ」
 低い返答。
 同時に目の前に広がっていた陰りが除かれ、眩しいくらいの窓の日差しが再び辺りを照らし出す。
 ソファーに横たえられたまま、私はしばらく呆然とする。
「駄目だよ。杏ちゃん」
「なん、で」
「正直……こんな流れで抱いてきた経験が、ないわけじゃない」
「それなら……!」
「それでも! それでも……杏ちゃんは、」
 向けられた視線に籠められた感情は、汲み取ることはできなかった。
「杏ちゃんだけは、抱けない」
 ――あんちゃんだけは だけない――
 息が詰まるような沈黙は、透馬が静かに閉じた扉の音に容赦なく切り裂かれた。
 私の、浅はかな心も。
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